(341)自分では
  何もできない私が
  家族のやさしさによって
  オレンジ・ジュースを飲み
  アイスクリームを食べ
  詩を作り
  み言葉を学ぶ
  
  自分では
  生きられない私が
  神さまに
  愛され
  生かされている。
  (水野源三第四詩集 43頁) 
水野源三の詩から
  
   しみる
しみる
  
  雪解け水が
  地にしみる
  主のみ言葉が
  わが胸にしみる
  
  ・心にしみる、神を知らないとき、なにが心にしみるだろうか。よい音楽、美しい風景、人間の愛、思いやり…いろいろあるだろう。
  しかし、最も魂の深みにしみるものは神の言葉。それは、数千年も人間の最も深いところを流れてきた水の様なものだからである。そしてそのしみ入ったみ言葉はまた、外にあふれていくものとなって他者にも及んでいく。
  
   御霊の神よ 働きかけて
御霊の神よ 働きかけて
  
  いくらみ言葉を聞いても
  理解できないあのともに
  御霊の神よ 働きかけて
  救いの御業をなしたまえ
  
  ますますかたくなになって
  素直になれない心に
  御霊の神よ働きかけて
  救いの御業をなしたまえ
  
  どうしてもナザレのイエスを
  主と呼べない者に
  御霊の神よ働きかけて
  救いの御業をなしたまえ
  
  ・人がキリストと愛の神を信じるということは、一つの神秘である。人間の説得や説明ではどうしても超えられない壁がある。それゆえに、祈る。聖なる霊が働きかけてくださいと。 
 わがために 水野源三
わがために 水野源三
  
  わがために
  野菊が香り
  わがために虫が鳴き
  わがために
  夕空が染まる
  
  わがために
  昨日も今日も
  神様に
  祈ってくれる
  人々よ
  
  ・このような詩は、神の恵みを受けていなかったら、理解できないであろう。
  偶然に生じていると思われるものが、一つ一つ愛の神が自分のためにしてくださっていることだと実感されてくる。無数の人がいて、神はその無数の人たちにそれぞれ愛を注いでおられるにもかかわらず、神様は私にさまざまのよきことをしてくださっているように感じられる。
  神の愛とはそのようなものである。人の愛は、せまい。深くなるほどに特定のひとだけに注がれる。
  しかし、神の愛は無限に広く深い。そして魂をうるおす。そのような愛はいっさいを無駄にはしないで一つ一つを生かしていく。
  しかし、神の愛がまったく分からないときには、この逆の状態になることすらある。まわりのすべてが自分を冷たく見つめ、迫害するように見えてくる。
  ガンの病を持つようになって、残りの命がわずかに迫ってきたとき、呼吸の一つ一つをも感謝できるようになったと言われた人がいる。呼吸の一つ一つ歩く一歩一歩、そして見るもの聞くものが一つ一つ神の愛の御手の奏でるものだと感じられるようになっていくのであろう。
  それによって見るもの聞くもの、触れるものにいのちを感じるようになる。
  無心に鳴く虫の音も、偶然に野に生えていると思われる野菊も、そして風も雲も、木々の一つ一つも…。 
  そこから、祈りをもって自分を覚えてくれる人たちの祈りが聞こえてくる。そしてその祈りのなかにも、神の愛がそこに働いているのを知る。 
 讃美し語りたい
讃美し語りたい 
  
  もり上がる入道雲
  
  わき出る泉のごとく
  
  心のあふれる言葉をもって
  
  
  とどろき渡るかみなり
  
  はげしく落ちる滝のごとく
  
  力のかぎり大きな声をもってまことの御神の愛とみざを
  
  讃美し語りたい
  
  
  ○入道雲やとどろく雷の音に心が引きつけられる人は多いだろう。しかし、そのようなものを見て、それらが神の言葉を語り、讃美したいというその願いを託して見つめるということは、ほとんどだれも考えたことがなかったのではないだろうか。
  
   長い間、寝たきりであって、言葉を語ることすらできなかった、水野源三であったが、神の真理と神の愛を語りたいという切実な願いがいつも胸いっぱいにあったのがこの詩でうかがえる。
  
   かれのその願いはある意味において今日、かなえられている。彼のその入道雲のようにわき上がる神への讃美と神の言葉は、彼が地上からいなくなっても、なお、日本のあちらこちらで語りつがれている。それほどに彼の語る「声」は大きかったのである。それほどに彼の神を語る言葉は泉のようにわき出ているのである。
        
 仰いだ時から
仰いだ時から
  
  主なるイエスを仰いだときから
  
  行きなれた道にかおる白い花
  
  みどりの林に歌う小鳥さえ
  
  私に知らせる御神の慈愛を 
  
  主なるイエスを仰いだときから
  
  見慣れた消えゆく夕ばえなる空
  
  屋根ごしに光る一番星さえ
  
  私に知らせる御神の力を
  
  
  主なるイエスを仰いだ時から
  
  ききなれた窓をたたく風の音
  
  夜更けの静かに降る雨の音さえ
  
  私に知らせる御神の恵みを
  
  
  ○キリストを知った人が感じるのは、自然というものが、一段と深い意味をもってくるということである。神を信じない人、キリストを受け入れていない人も自然を愛する人はいくらでもいる。
  
   しかし、愛の神を信じ、その神からの励ましや罪の赦しを受けるようになったとき、以前から親しかった自然が、そうした神の愛を表すものとなり、神がその愛でもって語りかけてくるものとなってくる。万能の神を信じないとき、自然も死のかなたにあるものを教えてはくれない。しかし、神を信じるときには、青空や雲、夕日や野草の花などの自然が私たちに死のかなたにある永遠の命を暗示するものともなってくれる。