神、キリスト、聖書について

神とは、また神の愛とは

キリストとは

聖書とは

希望の永遠性、罪の赦し

 神とは、また神の愛とは

 

 キリスト教、聖書で言われている 神とは 慈しみ(愛)と真実、それゆえに、人のどんな罪をも赦す御方です。

 そのことは、すでに今から三千年以上昔の人に語られた神の本質が言われています。

 

… 主、主は憐れみ深く、恵み深い神、…

慈しみに富み、真実に満ちた方である。

恵みを千代にまで保ち、悪と背きと罪を赦す。…(旧約聖書 出エジプト記3467節より)

 

  この神の愛に対して、日本の一般的な歌や古来の和歌などに頻繁に出てくる 愛 はすぐに変質するものです。影のようなもので、あると思っていたらすぐに消えてしまうし、また、正反対の憎しみや無関心に簡単に変質します。

 しかし、神の本質である愛は、決していかなる事態が起ころうとも変ることのないものです。

 その神様は、永遠に存在する御方です。私たちが災害、事件、また事故、病気などで死のうとも、愛の神様は私たちを永遠の命へとよみがえらせてくださいます。

 それは、神の全能の神であり、死の力にも打ち勝っておられるからです。

 聖書で記されてている神様は、人間にはない 完全な清らかさを備えた御方であり、かつ永遠に存在する御方です。

 そそれゆえ、私たちが死のうと、この地球の前途が太陽に呑み込まれようと、太陽や星々がなくなろうと、神ご自身と、その本質たる神の愛は永遠に存在し、その愛につながる人々もまた、神の愛に包まれて永遠に存在していくのです。

 


 キリストとは

 天地万物を創造した神の本質は、愛や真実、清さが本質です。しかし、この世のさまざまの災害、戦乱、迫害、病気の苦しみ…等々を見ると そんな愛の神などいないではないか、いるのならなぜそんなことがずっと生じ続けているのか、との疑問が出てきます。

 神様は、愛だと言われても、世界の実情を見たらどこに愛があるのか、愛の神などいない、と思ってしまう人も多くいるようです。

 それゆえに、神は、真実と愛がどのようなものか、それを万人に、そして未来のすべての人々に示すために、イエスを地上に送り、その実際の言動によって その愛がいかなるものか、いかにイエスが真実そのものの御方であるかを目で見え、言葉もその力ある言葉を知らせたのです。それは、新約聖書のとくに四つの福音書を読めば現在でもよくわかります。

 さらに、イエスの死はみんなに祝福されて、安楽に死ぬのでなく、逆に十字架に釘付けにされ、人々からあざけられつつ苦しみもだえつつ死んでいくという、非常な苦しみの中で生じたことでした。

 その十字架の死の深遠な意味は、はるか五百年以上も前から預言されていたように、万人の罪を担っての死であったのです。

 そして、その後、あらゆる人の過去、現在までのあらゆる心での悪しき思い、愛なき言動、してはならないようなこと、真実や愛、また正しいことに背くあらゆる心の思いや言動ーそれらをすべて 罪といいますが、そのような罪を赦してくださる道を開いてくださったのです。

 それをただ信じて受けとるだけで、罪の赦しの実感が与えられ、そこからいかなるものも与えられない魂の平安が与えられる、そのことによって、その赦しの神こそは愛だということが実感できるようになります。

 


聖書とは

 多くのひとは、聖書は宗教の本だから、教えが書いてある、なにか窮屈な内容だ、などという先入観をもっています。

しかし、聖書の本質は、人間を狭い心に閉じ込めた罪の力からの解放、そこに込められた神の愛を告げる書なのです。

 単なる教えや研究、知識といったものとは根本的に異なり、神の愛と真実を内容とする神とキリストの言葉、そして聖なる霊(風)が弟子たちに与えた啓示が、研究や経験、教えなどを越えて、直接的に神が選んだひとに示されたのが書き取られて書物となったのです。

 だからこそ、キリストの主要な弟子としてペテロ、ヨハネ、ヤコブたちがいましたが彼らはみな無学な漁師だったのです。

 研究や多方面の知識、またそれを論理的に記述するなどは、知的作業であり、いわゆる「頭のよい人」また、時間的余裕もある人でないとできないことです。

 しかし、啓示とは、その漢字のように それまで閉じられていたものが神様によって「啓(ひら)いて  示された」ものです。 私自身、神様とかキリストのことなどまったく心の目が閉ざされていて、何もしらなかったし、神といっても神社でお正月に父につれられて神社でがらんごろんと鈴をならしたとか神棚のこと正月に飾り物をしていることくらいしか記憶がないのです。

 そのような私に突然一冊のキリスト教の本を立ち読みして わずか半ページにも満たない個所から、心の目が開かれ、それから生涯の進路が変わって今日にいたっています。

 いくら学校の成績がよく、スポーツや音楽などができても、また大学などで深い研究をしたとか老年になっていろいろ経験したからといって 神様の真理がよくわかるとということはないのです。そのようなことと関係なく、啓示というのはどのようなひと達にも 与えられるのが歴史的にも明らかなのです。

 


 

信仰とは

 

 キリスト教において信仰というのは、全能、かつ愛と真実、そして正しさ、清さを完全に備えた神を信じることです。

その完全な神が愛をこめて、地上に送ったのがイエスでした。

 そのイエスが十字架にかかって 私たちのたくさんの日々犯している心の罪、言動の罪を担って死んでくださった、それは神の愛ゆえだと心から信じるだけで、確実にあらたな世界へと導かれます。それが全能の神だからこそできることです。

  キリスト教信仰の中心は、この単純なことです。だからこそキリスト教のシンボルが十字架となっています。

 私自身もそのキリストの十字架の意味を知らされ、それによる罪の赦しの信仰を与えられ、深く魂にその真理を感じて、キリスト者とされたのでした。

 そしてそれから60年近くなりますが、その十字架で死なれたイエスへの信仰は一貫して保たれてきました。

 

 イエス以前は目に見えない神の愛といってもなかなかわからないし、さばきで多くの人々が死んだり…愛どころか神は恐ろしいものといった気持も強かったのです。

 しかし、現在の私たちにおいても、誰かを憎むとか弱きをいじめる、差別する、自分中心に考えたり、不信実なことをおもったり、おこなったりすることで、必ず神は裁かれる、すべてを見抜いておられるーそれは、そのような心をもっているとたちまち、その人の心が濁ってくる、深い平安を失う、清いものに感動できなくなる…等々が生じます。 それが裁きです。

 それも単に罰するのでなく、その裁きをとおして、本当の愛の神に立ち帰ることが期待されているのです。

 


 

 希望の永遠性、罪の赦し

 

 本当の希望とは、永遠的なものです。

 この世の希望は、例えば、プロ野球とか音楽、スターなど有名になるとか、事業起こして利益をたくさん出す、といったこの世でもてはやされることがよく言われます。しかし、そうした希望はまず、生まれつきの能力とか健康、そしてお金に余裕がある、有名大学に入る…等々出会う…等々が必要です。

 そしてそれらがかなえられても事故、病気、環境や世界の状況などでたちまち消えてしまうこともしばしばです。

  本当の希望とはどんなものが永遠的なのか。

それは、永遠なるものに結びつかないと与えられないわけです。

 その永遠なるものーそここそ、聖書にはっきりと記されている天地万物を創造された神、しかも完全な愛と真実や清さをもった神様です。完全な愛ゆえに、いかに私たちが重病となって誰一人その苦しみをわかってくれずとも、そこにきて、語りかけ、また死を直前にしてもなおかつ、死からの復活して、目に見えないからだー現在のキリストのようなーとなって神とともに永遠に存在しつづけるのだという希望を与えてくれます。

 また、どんなに大きな罪ー例えば、ちょっとした油断から交通事故を起こし、相手を重度の障がい者とし、その生涯を破壊したり、さらには命を奪ってしまった、などということはどんなに補償金を積んでも土下座してお詫びし続けても 生涯かかってももとには決してかえらないし、相手のひと達の悲しみや苦しみやいやすこともできなくなり、自分も相手も生涯が変ってしまいます。

 そんな取り返しつかない重罪はだれも赦してくれないです。

 しかし、そのような中で、唯一の 赦してくださる存在、それがキリストです。キリストはそのような重罪を犯した人のためにもその罪を身代わりとなって死んでくださったのです。

 イエスの十字架を仰いで、私のその取り返しつかない罪をも赦してください、と心から祈るとき、たしかに、イエスはその十字架上から、「あなたの罪は赦された」と語りかけてくださいます。静かなる細き声もて…。

 そのことこそ、キリスト教信仰において最も神の愛を魂の奥深くで実感させていただけるときなのです。