あなたが私の右の手をとって下さるので、
  常にわたしは御もとにとどまることができる。
  
  (詩編七三・23) 
 パンを水の上に    2008/10
パンを水の上に    2008/10
  
  それ自体よいことは、それを受け取る人がいようがいまいが、人から認められようが無視されようが、なし続ける。
  パンを水の上に投げよ、という言葉がある。時至れば、よき収穫が与えられると約束されている。
  
  …あなたのパンを水の上に投げよ、多くの日の後、あなたはそれを得るからである。(伝道の書十一・1)
  
  何年続けても何も変化がない、あれだけの努力、時間、また費用も注いだのに、どうして神は応えて下さらないのか、と嘆く気持になることがある。
  しかし、もう止めようとして止めかかったときに、神は思いがけずそのよき結果をそれが小さきものであっても、はっきりと見せて下さることがある。
  よき本やテープ、CD、讃美、また電話やメール、手紙、またふさわしい小物を提供する、あるいはその人のところに出かけていく等私たちの誰もがその気持にさえなればできる他者のためのことがある。
  それらすらできない、という人のためには、何一つ目に見えるものもない身であっても、なお、祈るための手と心は残されている。もはや手を使っての仕事ができなくなっても、手を合わせて心を神に注ぐことは残されている。
  神に向かう方向はどのようなことがあろうとも、遮断されることはないのである。
  祈りも種を蒔くことである。見えない種を人々の心に、そしてこの世に蒔くことである。
  それは主にゆだね、水の上にパンを投げることである。