 翼を与えられること   2008/7
翼を与えられること   2008/7
  
  朝の空にトビがゆっくり弧を描きながら飛翔していた。
  風はまったくといってよいほどない空、はばたきもせず、つばさを広げてゆっくりと飛んでいる。
  少し上方に向かうときだけ羽ばたくがたいてい翼を広げたままである。このような単純な行動でどうして飛び続けることができるのか、実に不思議である。
  
  主を待ち望むものは 
  新しく力を 力を得る
  鷲のように 
  つばさを翼をかって 
  高く 高く舞い上がる
  
  (イザヤ書四〇・31、讃美集「心の中でメロディーを」)
  
  このイザヤ書の言葉は、主によって救い出されたものの自由を歌っている。何にも妨げられず、力を与えられ、自由に高みへと飛翔できる。
  現実の人間は、さまざまのことによって飛び立つことができない羽のこわれた状態だといえよう。大空を翔るどころか地上の歩みすらまっすぐに歩けないでしばしば迷い込んだり倒れたりする。
  また足が痛んで歩けなくなるようにもなる。さまざまのわずらいによって心は縛られ前進ができなくなることもある。
  そうしたこの世の現状にもかかわらず、私たちが主としっかり結びつくとき、主の言葉にとどまるときには、たしかに魂の自由を感じる。 
  
  …わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。
  あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ八・31)
  
  復活のとき、人はどうなるのかと問われて、主イエスは「み使のようになる」と言われた。御使い(天使)とは、霊的な存在でまったき自由な存在である。時間と空間を越えてどこにでもふしぎな仕方で現れる。イエスの誕生を告げるときに、マリヤに現れ、また夢のなかにも現れてイエスの父ヨセフにエジプトに逃げよ、と告げたこともあった。あるいは、主イエスの最も苦しみのときゲツセマネの園での激しい祈りのときにも、現れて力付けた。
  そして私たちはイエスを信じるだけで、永遠の命が与えられると約束されている。その永遠の命とはまた自由な霊である。
  この永遠の命を豊かに与えられるほど、私たちの魂は自由に目には見えない世界、霊的世界を飛び翔ることができるのであろう。使徒パウロは、第三の天まで引き上げられたと書いているが、それは霊的つばさを与えられて高く高く飛翔したすがたと思われる。
  ダンテの神曲のなかにも、切り立った崖の上部にある煉獄の門へと進んでいけないダンテを、天使ルチアが鷲のすがたで夢に現れ、彼を高みへと引き上げるという描写がある。(神曲・煉獄篇第九歌)
  私たち人間はつねに前進し続け、より高いところへと進んでいくためには、たえずつばさをもった御使いに導かれる必要があり、あるいは私たち自身が霊の翼を与えられる必要がある。
  そうでなければこの汚れた地上をさまよい続けることになるだろう。
  聖なる霊、それはまた霊のつばさを私たちに与えるものであると言えよう。