 すべては過ぎ去る中で  2003/8
すべては過ぎ去る中で  2003/8
  
  古い中国の詩につぎのようなものがある。原文は一般にはもはや使われていない漢字が多いので、現在のわかりやすい日本語にしたものをあげる。
  
  玉華宮 杜甫(*)
  
  谷はめぐって流れ、松風は吹きわたる。
  老いた鼠は人に驚いて古い瓦のかげにかくれる。
  ここは、何という王の宮殿だったのか。
  絶壁の下に、荒れ果てた建物が崩れかかって残っている。
  暗い部屋に鬼火が青く燃え、
  こわれた石だたみの道には、水が浅瀬になって、
  悲しく、むせび泣くような音を立てて流れている。
  松風の音、水のせせらぎがが笛の音のごとくに響く。
  あたりは一面に清くさわやかな秋の色だ。
  その昔、ここに仕えた美人たちも、みなすでに黄土と化した。
  当時のものを残すのは、ただ石で刻んだ馬があるばかり。
  旅の道すがらここに立ち寄り、今昔の感に堪えず、
  さまざまの憂いが胸に満つ。
  草をしいて座し、声高く歌をうたえば、涙は手にあふれるばかり。
  ああ、思えば、しばし、とどまる時もなく、歩み続ける人の世の旅路にあって、
  誰が一体永き命を保ち得ようか。 
  わが命も、世のすがたも、すべては滅び去るものではないか。(「唐詩選」新釈漢文体系明治書院版)
  
  (*)杜甫(712年~770年)は、中国、唐代盛期の詩人。杜甫自身の語るところによれば、すでに少年にして千余編の詩を有していたという。中国最高の詩人としては「詩聖」と言われ、李白(りはく)と並称されては「李杜」と呼ばれる。一貫してその詩を成立させるものは、人間に対する大きな誠実である。人間は人間に対して誠実でなければならないとする中国文学の精神は、この詩人の詩のなかにもっとも活発に働いているということができる。(「日本大百科全書」より)
  
  この詩には、深い悲しみが漂っている。それは、すべてが流れ動いていくことへの悲しみである。杜甫の詩は著者の説明にあるように誠実ということであったとされるが、誠実であるからこそ、この詩には深い悲しみと憂いが込められている。人間というこの深い意味を持つ存在がかくもすみやかに、跡形もなく消えていくのに、いのちを持たない石の像が長く残り、松風や谷川の流れの音が響き続ける。これはどうしたことか。なぜこのように人間は消えていくのか。かつては生き生きした心を持ち、戦い、愛し、そして心動かしてその感動を分かち合った者同士、それらすべてはとどまることなく流れ去っていく。
  周囲の自然の清さと美しさがいかに心を動かそうとも、こうしたはかなさのゆえに哀しみが深くなるのみ、という気持ちが伝わってくる。中国の最高の詩人と言われるほどであるから、深い直感によって事物の本質をみつめることができたと思われる。しかし、そうした大詩人であっても、流れ動く万物の背後にある存在には達することができなかったのを、この詩はあざやかに示している。
  人間の直感がいかに深く、鋭くとも、それが深ければ深いほどますますこのような哀しみに満ちた見方となっていく。
  ここに、なぜ聖書の示す真理が「啓示」であると言われるのがわかる。神によって、「啓(ひら)かれ、示される」のでなければ、この世はすべて消えていくという実感で終わるほかはない。
  こうした人間の現実に対して、聖書では一貫して過ぎ去ることのない存在を指し示している。すでに旧約聖書の古い時代に、モーセに現れた神は、神の名(本質)は何かとの問いに答えて、「在りて在るもの」、すなわち、「存在」こそ神の本質であると記されている。神とは永遠の存在であり、神のみがこの万物が流れ動いていくなかで変わることなく在り続けるのである。
  そしてその神がすべての人間のために「永遠のいのち」を与えようとして、送られたのが、イエス・キリストであった。そして永遠の命とは、単に長い命というのでなく、それは真実と慈しみに満ちた神のいのちそのものなのである。
  ヨハネ福音書の最後の部分で、「これが書かれたのは、あなた方が、イエスが神の子であると信じるためであり、信じて永遠の命を受けるためである。」(ヨハネ二十・31)と記されているのは、この中国の大詩人が書いているような癒しがたい悲しみを克服し、「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」(黙示録二十一・4)ためなのであった。
  そして、神と同質であるキリストも永遠であり、そのキリストの言葉もとこしえに続く。
  「天地は過ぎ去る。しかし私の言葉は決して滅びない。」(マタイ福音書二十四・35)
  これらの聖書の言葉こそ、この杜甫の詩で表されている悲しみに最終的に答えるものなのである。