目に見えないものを受け取るために 2003/1
今回ノーベル賞を受賞した学者の研究が、ニュートリノという素粒子に関することであった。この素粒子は例えば地球の表側から裏側に抜けることができるくらい物質との相互作用が弱く、宇宙に充満しているという不思議な物質である。
そのような素粒子を観測するために地下一〇〇〇メートルに、三〇〇〇トンの水を蓄えた巨大な水槽が作られ、それに特別な検出装置を付けて研究されている。
これが有名になったのは、この装置が作られてからわずか四年ほど後に、まれにしか遭遇しない超新星爆発が地球から十六万光年離れたところで起きた。超新星爆発のときには大量のニュートリノが生じるがそのときに、その装置ではニュートリノ十二個を観測したという。肉眼でわかるほど近くで、この超新星爆発が起こったのは、四百年ほども昔の一六〇四年にあっただけというから、今回受賞した学者の研究結果は幸運に恵まれたといえる。
しかし、ニュートリノを観測したということは、基礎科学では重要な研究であっても、そのこと自体は、人間の心の苦しみや悲しみには何ら力になるところはないであろう。
それどころか、物理学の最先端であった核物理学の応用として、原子爆弾や水素爆弾が作られてしまった。科学技術の行く先をどこまでも延長していくと、一発で数千万人が死傷すると考えられるような巨大な殺人兵器へとつながってしまったのである。
ニュートリノを検出するには、前述の巨大な地下水槽の中にきわめて多くの光電子増倍管を設置することが必要となり、装置全体でははじめのものには数億円、現在使っている改良型には百億円という巨費をかけて特別に制作された。 ラジオ電波を受け取るには安価なラジオがあればよい。テレビ電波もやや費用のかかるテレビ受信機があると足りる。しかしニュートリノという素粒子を受け取って観測するためには、巨費を投じた設備が必要である。
しかし、こうした科学技術の産物がまったくなかった二〇〇〇年ほど前、キリストが伝え、キリストが聖霊というかたちでこの世にもたらしたものは、革命的なものであり、キリストを受け入れ、聖霊を注がれるときには、人間は根本から変えられる。
現在の宇宙では一立方センチメートルに約100個(一立方メートルでは一億個にもなる)の非常にエネルギーの低いニュートリノが充満しているという。
他方、使徒パウロが引用しているように、「我らは神の中に生き、動き、存在する」(使徒言行録十七・28j
ということができるし、神から風のごとくに注がれている聖霊を受けるには何らの費用も要らない。神から注がれている光や聖霊に気付くには、そうした科学技術やそのための巨額の費用、あるいはそうした学問はいっさい必要ではない。
神からのいのちの光、あるいは聖霊や神の言は、時代を超え、人間のあらゆる妨げを越えて、今も放射されている。それを私たちの魂が目覚めているときには、聖霊が注がれているのをその魂において感知することができる。
物質世界には数々の不思議があるが、それにもまして驚くべきことは、目には見えない聖なるあるもの(聖霊)が実際に存在して、それを人間の魂が受け止めて導かれるようになるということである。そしてこの聖霊こそは、人間の最も深い心の渇きを癒し、平安を与え、清い喜びを与えてくれるものである。
私たちが心を開いているならば、物質世界の不思議は、目にみえない世界の不思議へとつねに連れ戻してくれるものとなる。