一人の見捨てられていた人の救い 1999/7
ザアカイの回心
エリコは古い古い町です。紀元前七千年も昔にすでに町ができていたということです。乾燥した広大な一帯のただなかに緑が見られるオアシスがエリコという町なのです。
エルサレムは八百メートルほどの山の上の町であり、そこからほとんど草も木も生えていない山の斜面を曲がりながら下っていくと、下方に緑のある町が見えてきます。それがエリコです。
ここで主イエスは、一人のザアカイという人に出会います。彼は取税人(徴税人)であり、金持ちでした。当時の取税人というのは、現代の税務署の役人のように公務員として社会的に安定した地位にある人とは全く違っていました。
当時のユダヤの取税人は、ローマの政府の命令によってユダヤ人から税金を取り立てるのが仕事ですが、本来取り立てるべき金額以上の税金を徴収してもうけることができたのです。
したがって、ユダヤ人からは、自分たちを支配しているローマ帝国のために働く人たちだということ、必要以上の税金を取立て、しかも異邦人と交わって汚れている人たちであり、神への信仰に反する人たちだとして、ユダヤ人は見下し、憎んでいたのです。
だから、彼らは罪人として、まともな人間でないとされていました。
ザアカイはそうした取税人の頭であり、部下の取税人をも用い、多くの利益を得て、金持ちとなっていたのです。
ザアカイがどうしてこのような同胞から嫌われ、憎まれ、見下されるような取税人になったのかわかりません。何らかの理由で家が貧しく、どうしても収入が必要だったのかも知れないし、同胞との友好関係より金を大切にする心があったのかも知れません。
取税人の頭となるまでにそれなりに努力したと考えられますが、その努力はローマの支配者のためになされることになり、それはいっそう、同胞のユダヤ人から憎まれることになったはずです。
その努力のかいあってザアカイは取税人の頭となり、金もたくさん持つようになりました。しかし、彼の心を推察すると、平安がなく、金はたくさんできても金ではどうすることもできない心の平安がないことを次第に思い知らされることになったのでありましょう。自分が人々から嫌われ、憎まれ、そして見下されて、いまさら同胞のユダヤ人に詫びて取税人を辞めることもできないという気持ちになったと思われます。
彼は自分の民から嫌われ、今までの自分の生き方がだんだんといやになってきたことは考えられます。しかしその光のない生活をどうしたら改めることができるのか、全くわからなかったのです。
それと背がとくに低かったということは、それも周囲から見下されがちになっていたと思われます。
そのようなとき、イエスというお方のうわさを聞きました。その人は今まで全く聞いたことのなかった人のような気がしたのです。彼は主イエスを見たいと思いました。多くの群衆がいるところでは自分の悩みなど到底聞いてもらえる状態ではないと知っていました。しかし、それでもなお、彼の心は主イエスにひかれたのです。自分のなにかを変えてくれるかも知れないと感じたのです。
それは不思議な引力であって、取税人の頭であるような人が子供のように、いちじく桑の木に上ったほどでした。ふだんなら、威厳を重んじてそんなことは決してしなかったでありましょう。
主イエスは不思議な力をそのザアカイの心に感じさせたのです。
ふつうなら、わざわざ木に登ってまで人を見るなどという子供じみたことは決してしないはずです。しかし、彼は、そのような世間体を越えて、主イエスに何かある力を感じたもののようです。
彼は走って行っていちじく桑の木に登りました。
その時には多くの群衆がイエスを取りまいていました。その群衆でなく、意外にも木に登ったザアカイを主イエスは見つめ、呼びかけたのです。
ザアカイの心に以前からずっと続いていた心の暗がりを、主イエスはただ一人しっかりと見つめられたのです。
この時多くの群衆がいたのになぜ主イエスはみんなから見下され、相手にされていなかった、罪人をとくに見つめられたのでしょうか。
それは主イエスこそは、どんな多くの人がいてもそれに惑わされず、ただ本当に求めている人を捜すのだと思います。
「人の子(イエスのこと)は、失われたものを捜し求めるために来たのである。」と言われた通りです。
主イエスはザアカイにその名を呼ばれたように、現在の私たちをも名をもって呼ばれるのです。人間は相手が多くなると、どうしても機会的に扱ってしまいます。
例えば、医者はが病人の治療にあたるとき、病気の人はそれぞれみんな食事内容や仕事、人間関係、睡眠時間、運動など日常の生活の仕方がみな違うのに、医者は忙しいこともあって、そうしたことを詳しく問うことなく、表面に診断し、薬を処方することが多いのです。
しかし良心的な医者であれば可能な限りそうした病人の生活のことも詳しく尋ねるだろうと思います。
同様に、主イエスは私たちの心の医者として、一人一人の心の状況を知って下さって、そこに呼び掛けをして下さいます。誰からも注目されず、見放されていたような人をこそ、見つめられるということはなんとありがたいことかと思います。
主イエスは金持ちの議員が何をしたら永遠の命に入ることができるのかと尋ねたとき、「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。」と言われ、さらに「金持ちが神の国に入るのよりらくだが針の穴を通る方がやさしい(ルカ十八・25)とまで言われたことがあります。
しかし、ザアカイについては、金持ちでしたが、財産を捨てるとかいっさい主イエスからは言われることなくして、このように即座に救われました。神の国に入ることができたのです。
これはどうしてなのでしょうか。
それは、金持ちの議員は、自分は子供のときから、正しいことを全部守ってきたと言ったことで表れていますが、心に高ぶりがあったからです。高ぶりこそ最も神の国に遠いのです。それゆえその高ぶりを砕くために主イエスは最も厳しいことを言われたのです。
しかし、ザアカイには、主イエスへ向かう素朴な眼差しがありました。
神はこのように、外的なことでなく、主に向かおうとする心を大切にされるのがわかります。
主イエスに対しては、私たちは遠慮することはないのです。ただ切実な求める心があったら足りるのです。
主イエスによって救われるためには、金をすべて捨てる必要もなかったし、学問を積むことや、善い行いをいろいろと重ねていく必要もなかったのです。
ザアカイは人をだましたり、脅かしたり、不正の金を持っていたような者だったと考えられますが、彼はただ主イエスに向かう幼子のような心をもっていただけで、救いに入れられたのです。
ザアカイが主イエスから個人的に呼び掛けられたときから人生が変わったように、私たちも「あなたは私の愛する子」という呼び掛けを聞いたときから私たちの人生は変わるのです。
ザアカイは主イエスからの呼び掛けを聞いただけなのに、「自分の財産の半分を貧しい人々に施します。もし、だれかから何かをだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」と言ったのです。
同胞から嫌われ、見下されながら貯めてきた財産の半分までもを、ただちに貧しい人々に与えようというような決断がどうしてできたのでしょうか。
わずかの金でも全くの他人にやってしまうとなると、惜しいという気持ちが働くのが当然だから、財産の半分を捨てるというような気持ちになったということは、実に驚くべきことです。
しかもそのような決断は、そのようにせよと権力者から命じられたのでもなく、おどされたものでもなかったのです。まったく自発的にそのような考えにと導かれたのでした。
それほど主イエスの呼び掛けの力は大きかったのです。ザアカイにおいて真の悔い改めがなされたのがわかります。
ザアカイは、自分のかつての罪深い行動やそのために同胞たるユダヤ人が自分をさげすんでいること、それはそれまでの自分の行動などがいろいろと思い出されたでありましょう。
しかし、そうしたことをどれだけ考えても、後悔してもそれは自分というところから自分自身や周りの人間を見つめているばかりでした。そうした人間を見つめる視点から全くちがった方向、イエスに方向転換することをザアカイは初めて知らされたのです。
彼が、イエスを見たいと思ったが、背が低くて見えなかった。ふつうならあきらめてしまいますが、彼は今回はどうしても見たい、何としても見たいという願いを抑えることができなかったのです。だからこそ、木にまで登ったわけです。
私たちが何としてもイエスを見たい、イエスと出会いたいと強く願うとき、その心はイエスへと方向転換をしているといえます。そのような方向転換をした魂には、それまで聞いたことのなかった声が響いてきます。それが、「ザアカイよ、今日はあなたのところに泊まる(留まる)」ということでした。
たしかにこの言葉は、現在の私たちにもあてはめるこができます。私たちがただ主イエスに出会うことを願うとき、必ず主は私たちに個人的に応えて下さる。そして私たちの心に留まって下さるということです。
主はかつてたとえ話をされたことがあります。
「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。
高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。(マタイ福音書13章より)
このたとえでいう喜びのあまり持ち物を売り払ったという、「宝の隠された畑」とか「高価な真珠」とは、ザアカイにとっては、主イエスご自身であったのです。
ザアカイは財産のすべてを売り払うことはしませんでしたが、やはり喜びのあまり、それまでたいへんな執着心でしっかりと持っていた財産を、半分は他人にあげてしまおうという気持ちになり、
ここに今日の私たちにもあてはまることがあります。
私たちが本当によいことができないのは、主イエスからの個人的な呼び掛けを聞いていないこと、主イエスのまなざしを受けていないからです。
もし、主イエスからの呼び掛けを聞き取るなら、それまで何一つよいことができなかった者が、突然に変えられて本当によいことを、誰からも強制されないで、喜びからすることができるようになるということなのです。
ザアカイは、周囲の人から、大人のくせに木に登ってイエスを見ようとしているとかの嘲笑的に見られても気にすることはありませんでした。また、主イエスが「今日はあなたの家ちぜひ、泊まりたい」と言われたときにも、初めて出会う他人を、しかも群衆が注目しているただなかであったけれども、直ちに、イエスの言葉通りに急いで降りてきてイエスを喜んで迎えたのです。
すると、そのようなイエスとザアカイの言動に対して、それを喜ばずに、冷たく批判する人々がただちに現れました。いつでもこのようにして神のわざが働くところには、それを崩そうとする力も働くのです。
けれどもそうした妨げる力を越えて、神の方へと魂の方向を転じて、新しい世界に導き入れられる人は今日まで二千年の歳月をこえてずっと続いています。
主イエスが初めてガリラヤ湖のほとりで福音を伝え始められたとき、「悔い改めよ、神の御支配は近づいた。」と言われました。この悔い改めということは、自分が犯した個々の罪を思い出して、あのようにするのでなかったとか思うことでなく、魂が神への方向転換をすることを指しています。
神が預言の通りにイエスを遣わして、そのイエスによって新しい支配をなさる時代になったということです。だから神とイエスの方向に心を方向転換せよ、ということです。
ザアカイはまさにその心の方向転換をして、神の国に導き入れられたのですが、この主イエスの呼びかけは現代の私たちにもいっそう強くなされているのです。
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