いのちの水 2026年3月号 第781号
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私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死んでくださったことによって、神はご自身の愛を示されました。 |
目次
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キリスト教との出会い
21歳のときの五月下旬であった。
私の今日までの歩みで最大の転機となった出来事があった。
それはたまたま、大学の北通りにある多数の古書店で私が矢内原忠雄の「キリスト教入門」という新書版の古書をとりだして何気なくパラパラとめくって読んだとき、ある一ページの半分ほどで私は突然キリスト者とされた。私は幼少のときから、家族、親族、友人、また大学四年になるまで、一人もキリスト者には出会わなかったし、聖書とかキリストとかの話題が出たことも、それまでの学校時代を通じても 誰一人いなかったし、すすめられることもなかった。聖書を読むという気持も全くなかった。
そのときの大学の状況は、私が在学していた大学だけでなく、全国的にも大きな学生運動が各地で生じていた。
安保反対、ベトナム戦争反対という大きな問題で学生たちの相当部分は大きな関心をもち、教師たちも一部は学外の反戦デモなどに加わり、授業前の教室は、自由にそうした政治状況に関する意見を教授が教室に入ってくるまで10分でも20分でも話し続けるといった状況がしばしばだったし、大学食堂などにもたくさんのそうした問題に関するさまざまのビラがつねに配布されていた。
私は大学に入学当時はそのような状況にまったく驚くばかりだった。彼らはいつあのようなことに関する知識を得たのかと不思議でならなかった。
というのは、私が学んだ徳島の高校では、徹底した受験勉強ばかりに集中する高校で、まったくそのような政治、社会、また国際的な問題への関心など教師や生徒も全くひと言も触れない三年間だったからである。
私は大学入学以来、次第に、私たちにとっても安保やベトナム戦争は重要な問題であってそれらがいかにして生じているのか、また今後どうなるのか、学生たちはいかに対処すべきなのかを徐々に考えるようになっていった。
それと別に、私にとって大きな問題となっていったのは、科学技術によって人類は最終的に滅びるのではないかという漠然とした不安がますます黒雲がわき起こるようになっていたことである。
外にも内にも混乱と動揺、さまざまの意見、議論がはんらんし、まさしく、私の魂のなかは、空虚で、空しく闇が覆っていた。
そこにはしかしまだ私は気付いていなかったが、神からの風は吹いていたのだ。そしてそこに「光あれ!」 との神の言葉が私の魂の内にあり、私のうちに突然 神の愛の光が入ってきたのだった。 これはそのまま聖書の巻頭に記されている状況だった。
それ以後、今日にいたるまで、六十年近い歳月が経った。しかし、最初に与えられた キリストの十字架による罪の赦しの信仰は、私の存在の根源を支え続け、日々の生活のなかで、生き続けてきた。それはこの十字架に関する真理(福音)ー十字架の言 こそは、時代や状況がいかに変わろうとも、不動の岩のように堅固であるからだ。
また岩であるとともに、それはこの世界をずっと吹きつづけている風でもある。その風が私の魂の奥深くに突然吹き込んでから、ずっとその風が吹きつづけている。
そしてまた、その風を受けたものは、その魂の内に泉が生じる。 それまで、渇ききっていた魂、この世界で生きる最終的な目的とは何なのか、遠い未来であるにせよ、最終的には太陽が膨張したあと、最終的には消滅するのなら、それ以前に地球は膨張した太陽によって灼熱の大地となり、枯れはて生命は断たれる。 それなら何のために生きる必要があるのか…。
この人間の最終的、かつ根本的な問題には、学校時代、大学も含め、誰一人答えようとしなかった。その他さまざまの問題によって押しつぶされそうになり、死すら心によぎることもあった。
そうした苦しみの中にあって下宿でもじっとしていられないこともあった。それゆえ、ある日、自転車で北へ北へとあてどなく進み、洛北の大原付近まできたとき、ふとその道から山に登る道があるのに気付いた。そこで自転車をおりて、歩いて山に登った。夕方近かったが、2時間ほどで頂上に着いた。
それが私が山の世界に魂の目が開くきっかけとなり、今日に至っている。
他方、心の休むところもなく、苦しい状況が続いていたとき、ふと本棚に「学生に与う」という本が目にとまった。
それは、矢内原と同じく東京帝大の経済学部教授であった河合栄治郎の最後に書いた書であった。
学生への愛がひしひしと感じられるその書によってギリシャ哲学ーとくにプラトン哲学へと導かれ、その本質を教えられた。(*)
(*)河合は、「ファシズム批判」を出版したため帝大を追われ、裁判闘争となったが病気で54歳で召された。しかし、大学を追われた後に、学生への愛ゆえに一か月立てこもって書きつづけて仕上げた著作「学生に与う」を姉が大学の担当の教授から推薦されたとして持っていたその書により、プラトン哲学の本質を知らされた。そして、善や美そのものが存在するというプラトン思想の本質は以後もそれが聖書に記されているすべてをもっている神の本質のある面を記しているのがわかり、聖書の世界へのよき道筋ともなった。
そのプラトン哲学に希望の光を見いだしたが、それもやがて 弱き者への愛の欠如や、宇宙の終末に関して輪廻の思想を記しているのにその限界を感じて追い詰められていた。
家庭はというと、敗戦直後の大混乱時の十一月に私は中国の奉天で生まれ、その後冬期の零下二十度にもなる厳しい寒さのなか、敵対するロシア人や中国人の中で、母は、乳児であった私を抱いて二歳の姉とさまよったあげく、1年近くたってようやく死線を越えて日本にかえってくることができた。
しかし、そのために極度の栄養失調と帰国後の重労働により、重度の結核となり、再び死線をさまよったあげく療養所に入ったが、死が迫っている状況だった。そしてどうせ死ぬのならと、若い医者の手術の実験台となるのを母の父親が認めてそれを受けると、幸いにも母は死を免れた。
だがその状態から退院は早すぎるのだが、特別な事情あり退院してきた。けれども、毎日痰を吐いてわずか二つの部屋しかない山小屋のような家は、急な山坂となっている昔からの山道を登ったところにあり、その家で養生することになり、家庭は笑いなど全くなくて、いつも暗雲がたちこめていた。そうした状況もあり、私は生きていくことが非常な重荷となっていた。
そうした数々の暗い生活が私が物心ついたときからであり、大学に入学しても前述したように、当時(1964年)は全国的に安保反対、ベトナム戦争反対の学生運動が激しく、学内においてもとくに私の属していた理学部は社会、政治に関する議論はよくなされていた。
大学三年の時、ある一人の同じ化学科の女学生Sさんから、私の代わりに、自治会委員にぜひなって欲しいと懇願された。自治会委員とは、学内の問題や、政治活動などに関わり、話合いによる啓発、ビラ作成、デモなどに参加を学生たちに呼びかける等々と取り組んでいた。
私はそのSさんとは個人的な交流などまったくなかったし、私は親からの仕送りなしで、アルバイトと特別貸与奨学金で学生生活しているので、時間なくそのようなことはできないと断っても再度私のところにきて、そのことを求められた。
彼女が言うには「自分は白血病だとわかり、長くは生きられない、しかし、残る人生を貧しい人や圧迫されている人たちのために用いたいから理学部卒業後、法学部に入って弁護士になるから、現在の自分のあとを受け継いでほしい」というのだった。(当時、理学部には自治会委員は五人いた)
私は驚いた。そのような発想は私の心に浮んだこともなかったからだった。それゆえに私は一年だけということにして引き受けた。そのとき以前から、当時の学生運動はたいてい左翼思想に熱心な人たちによってなされていたので、政治、社会に関する議論のためには、マルクス、レーニン思想に触れておくのは不可欠だった。それゆえ私は、古書店で マルクス、レーニン関係の書を折々に求めては読むようになっていた。そのため、古書店で「マルクス主義とキリスト教」というタイトルの新書本を 見つけたときその本を手にとって少し見た。しかし、マルクス、レーニンなどの左翼思想は、無神論が根本にあるので、キリスト教と関わりがあるはずないと思って、ほとんど読まずに書棚に戻した。しかし、そのことで、矢内原忠雄という名前を覚えていた。それからまもなく、やはり古書店で、5月末に、矢内原忠雄著の「キリスト教入門」という本を見つけ、少し前に、矢内原という名の人が著者だったと、何気なくその本を手にとってパラパラとめくって部分的に見ていたら、ロマ書の3章に関する記述があった。私はそのページの半分ほど読んで、キリストは私たちの罪を担って十字架で死なれた、という個所に目をとおしていて、初めてキリストの十字架の死の意味がひらめくように示され、突然キリスト者とされた。
闇と空しさの直中に、突然私は「光あれ!」の神の言葉どおり、私の魂の最も深いところに光が与えられたのだった。
もし、Sさんから特別に自治会委員になって欲しいと懇願されなかったら、わざわざマルクス主義関係の本を古書店で探すこともなかったから、矢内原忠雄のマルクス主義とキリスト教の本も手に取らず、矢内原という名前も知らないまま、したがってキリスト教入門の本とも無縁となったであろう。
神はそのSさんを私のもとに使わし、キリスト教との出会いに用いてくださったのだった。
その後、かなりの年月が経って、インターネットが使えるようになってSさんの出身地であった名古屋地域の弁護士名を調べたら、たしかに Sさんの名前を見出し、理学部卒業後に法学部に学士入学し、難しい司法試験にも合格していたのが判明した。
そのときまでに私は聖書やキリスト教に関して全く関心もなく、本も読んだこともなかった。家族、友人、小中高校、さらに大学を通じて、キリスト者に出会ったことは全くなかった。
けれども、十字架に関して思い起こすことが二つある。
私が、まだ小学低学年のころに、たまたま押入れを開いたときに一冊の小さな本があり、何気なく手に取ってパラパラとめくってあるページをよみ始めた。それが、イエスの十字架の場面のところだった。文語訳新約聖書だったので小学低学年には難しかったが、読み仮名がついていたので何とか読めた。
このような 70年あまり昔から、現在までの夥しい経験の数々のなか、このことは、ずっと不思議にそのときの押入れの状況、小さな新約聖書が置かれてあったなども思いだされるほどである。
それは、ずっと後にわかったことだが、母が療養所にいたとき、その病室の一つにたまたま数人の無教会のキリスト者がいて、その人から紹介されてもらったものらしかった。ラジオの福音放送の希望あれば無料で送るということがわかって送付してもらったものであったろう。
それが十字架の場面の個所だった。その残酷な場面のこと、地震あり、暗くなって垂れ幕が真っ二つに裂けたとか、異様な内容に驚いてそのまま元にそっと戻したのを今も覚えている。しかし、そのことを母に問うこともせず、その後は無関心となっていた。
このような昔から、神は、十字架による救いの道を私の魂のうちに、準備されていたのだ。
母はキリスト教のことは一切語らず、私も関心は全くなかった。それから二十数年後、母が病重くなり入院し、次第にその命が弱まっていくころ、介護に私が付き添っていたが、そのベッドの枕元のベッドの支え棒に、小さな十字架の飾りがかけてあるのに気付いた。
これが、母と関連しての二回目の十字架との出会いだった。
そのときは、すでに私はキリスト信仰が与えられていたが、母の病が重く、深夜も眠れず苦しんでいた状況だったため、その十字架をなぜだれからもらったのかなど問うこともできない状況だった。それからしばらく後に母は五十歳の若さで召されたのだった。
母は、戦争の被害者の一人であり、遠い異国の厳寒のなか、しかも、ソ連軍が、150万の大軍をもって 長崎に原発が落とされたのと同じ日に、一斉に襲ってきたソ連兵や敵となった中国人たちに囲まれ、生きていくことも困難な状況で私を抱いて守ってくれた母。かろうじて日本に帰ることはできたが、以後は重病となりー何とか大手術で一命をとりとめ、弱いながらも日常生活を送っていけるまで回復していった。そして最期の病床にあったのが、小さな十字架の飾りだった。
それは、小さくとも、十字架の深い意味を死の淵にあって私に遺言のように告げるものとなった。
その母の最後の魂の拠り所となったのがうかがえて、いっさい自分の信仰や聖書のことには私に話さなかったものの、その沈黙から、私は母が最後の床で十字架にすがったのが声なき声として聞こえてくる思いだった。
神はそうしたごく簡単な飾りであっても、そこにその全能と愛ゆえに、深遠な意味と余韻を沈黙のなかから生み出しているのだった。人類の罪をになって死んでくださったキリストーそれは万人にとっての毎日の命綱のごとく、日々 自らの罪の深さを知らされるにつけて、全世界を大いなる翼のごとく覆ってくださっているこの十字架に込められた愛こそは、世界の歴史の罪深く、悪に染まった流れのただなかに、腐敗することも爆弾などで破壊されることもなく、現在もその十字架の愛は世界に満ちている。
私は母からキリスト教や聖書に関してひと言も聞くことはなかったが、その最期が迫るころに苦しみ続ける母のベッドに見出したその十字架は、いまもなお、私の魂の深いところで輝いていて、私の心にその状況とともに残り続けている。
このように、母は私には何一つ言葉ではキリストのこと、十字架のことは話さなかったが、母が持っていた文語訳の新約聖書の中のわずか1頁の一部に幼いとき目に触れたのと十字架の飾りが、ともに十字架に関することであり、そのことが強く心に残されている。
十字架のキリストに対する信仰ーそれは母のような絶望的状況にあってもなお、希望の光となり続けていたのだった。
私自身、それから55年以上が過ぎ去ったが、キリストの十字架は、一貫して私の信仰の原点であり、そこからイエスが約束されたように、いのちの水がわき続けてきたのである。
そして私自身が深い闇と絶望的状態のなかで、見いだした一冊の本でたまたま開いた一冊の本の個所が、その十字架の意味をロマ書三章の一部を矢内原忠雄がわかりやすい言葉で短く説明したところだった。
これが三回目の十字架との出会いであったが、これが決定的な私の回心となり、生涯の基礎となり、そこから絶えざるいのちの水を汲み取ることのできる泉となった。
これは、かつてバンヤンの「天路歴程」を読んでいたとき、クリスチャンが、重荷を背負ったまま丘を登り、十字架の前に立った瞬間、背中の重荷が自然に外れ、ころころと転がり落ちて墓に消える という個所を読んだとき、私自身の経験と重なって興味深く読んだのを半世紀ほども昔のことだが、今もはっきりと思いだす。 それほど、十字架のあがないを信じるだけ、その十字架を仰ぐだけで、重荷が不思議と消えたようになるのを、巧みなたとえで言われていると感じた。
罪の赦し、その重荷から解放されるのは、人間の思索や学問、努力によらず、キリストの十字架をただ信じるだけ、十字架のキリストを仰ぐだけで魂の平和を与えられることをよく表している。バンヤンは今から四百年ほど昔のイギリス人だが、この独創的な物語が、文学的ないかなる教育も受けず、貧しい家の息子で、鋳掛屋でかつ勝手に説教したかどで逮捕、牢獄に入れられたときに、神からこの「天路歴程」の内容が示されて書き綴ったのだった。それが、聖書についで広く読まれてきたというのは、このように古い時代からこの十字架の真理は、まさに「十字架の言」として、生きて働いてきたのを証ししている。
アウグスチヌスは、歴史的に知られた重要人物であり、研究や書物の多読、あるいは特定人物の影響などいろいろ受けてきた重要人物であったが、その罪深き、よどんだ人生からの決定的回心は、そうした知的作業によるのでなく、実に単純な 不思議な呼びかけがどこからともなく、彼の魂に聞こえてきたからだった。それは、パウロに突然聞こえてきた主の呼びかけのごとき、決定的な力をもってアウグスチヌスの生涯の転換となった。
それは「 取れ、読め!」 が繰り返し言われた強調の命令的なことばだった。(Tolle, lege; tolle, lege.)
このように、大いなる働きをした人において、その決定的な働きかけとなったのは、直接に魂に響いてきた神、主からの語りかけ、呼びかけだった。それは 今から三千数百年前のモーセも同様で、彼も学問が力となってエジプトから奴隷を解放できたのでなく、ただ、荒れ野で羊飼いをしていたとき、直接に神からの「モーセ、モーセ」との呼びかけを受けたときであった。
罪からの解放も、本質的には同様であり、幼な子のような心もて主の十字架を仰ぐとき、「汝の罪、赦されたり!」との 静かにして細き、しかし、愛に満ちた語りかけを聞きとることによる。
そこには、主イエスが言われたように、幼な子のような心、無心にただ神を仰ぐ心、キリストの十字架のあがないを信じて仰ぐ心があれば足りる。 罪からの赦し、解放という福音の真理、それは、研究や博識、能力…等々は不用で、ただ 幼な子が母を純真なまなざしで仰ぐように、主を、その十字架をただ信じて仰ぐだけで足りる。 それこそ、万人に開かれた道であり、だからこそ、それは「喜びの知らせ」(ユウ- アンゲリオン)であり、中国語聖書での訳語では、福音 となる。
このように、十字架は、私の歩みのなかで 母が家族には言わずにもっていた新約聖書の文語訳の本や、最期のベッドにつけられていた十字架の飾りによって六〜七歳ころから示され、そして二十一歳のときに、その深い意味を知らされ、そこから現在にいたる六十年近い歳月をずっとキリストの十字架による罪の赦しの信仰によって生かされてきた。
矢内原は私の魂に、「ここに門、入口があるよ」といって十字架をさし示してくださったのであり、それはまた矢内原が内村によって内村はまたアメリカのシーリー総長によってさし示されたのと同様だった。
そしてその扉を開いて門から入ると、そこには、それまでの重荷、いかなる勉強や研究、また知識をもってしても解決できないと思ってたこの世の終わりのこと、人間のもっとも深い要求にこたえる存在がおられて、私たちに語りかけていてくださることを知らされた。
私は、十字架の上から、キリストが 汝の罪赦されたり との静かなる細き声を 魂の奥深くで聞くことができるようになった。その恵みこそは、いままでの人生で、最大のものだと、いまも日々、深く感じている。
十字架による罪の赦しとは、ほかのいかなる人間の営み、語りかけや行動によっても与えられることのない、魂の平安と再生の力を与えるものであることを、矢内原の本によってさし示され、神の言葉を直接に受けるようになって以来、今日までの六十年近い歳月、その輝きは衰えることがない。
キリストの十字架、それはこの渇ききった世界、闇と混乱の力がひしめき、サタンが到る所で人の魂を餌食としている中で、数千年を通じてずっと絶えることなく流れ続けている命の水の川なのである。そこに来るものは、だれでも無償で 魂の平安と立ち上がり、前進していく力を与えられる。
しかも、真理そのものは単純である本質を備え、ただ十字架の死が私たちの罪を担って死んでくださった、と信じるだけで、まったく新しい世界が開けたのだった。私はこの真理性を過去六十年近い歳月をもって、現在に至るまでつねに魂の最も深いところで日々体感し続けてきた。
十字架によって私たちの日毎の罪、過去の積る罪の数々…そうした罪が十字架のイエスを仰ぐことでじっさいに赦しが与えられ、主の平安が注がれるということは、キリスト教信仰を与えられて最大の恵みとなった。
新約聖書において、使徒たちの書簡でその冒頭部分で、つねに、主イエス・キリストからの恵みと平安を祈られているのも、使徒たちが恵みの最たるものとして 罪の赦しを深く自覚していた証しとなっている。
私が生まれたのは敗戦後三カ月ほど経ったときだった。ソ連兵など迫害する者たちが四方に満ちてきたころに私が生まれたために、母の人生は、とくに苦しいものとなり、母は、私のためにその苦しみを負ってくださったのだと感じる。そこにキリストの十字架の小さきすがたを思う。
神の言葉としての十字架
これはキリスト以前、五百年ほどもの昔の預言者がすでに神からの啓示として語っている。
…地の果てのすべての人々よ、私を仰いで(*)救いを得よ。(イザヤ45の22)
(*)新共同訳では 私を仰いで と訳されているが、原語はパーナーで、方向転換(turn)の意。木で造った偶像などを拝むのでなく、天地創造の神へと方向転換せよ、という意味。
そして、このキリストが十字架で血を流してなされた万民のあがない、罪の赦しの福音の真理は、このイザヤ書の個所以外にも、さまざまの個所で現れ、それらはすべて後のキリストの十字架をさし示すものとなった。
最も明瞭にそのことが示されているのは、広く知られているように、次の個所である。(イザヤ書53章から抜粋)
…彼は私たちのそむきの罪のために刺し通され
…彼の受けた苦しみによって私たちに平和が与えられ、
彼の受けた傷によって私たちはいやされた。
主は私たちすべての罪を彼に負わせた。
彼は、殺される場に連れていかれる小羊のように
口を開かなかった。
多くの人の罪を負い、背く者のためにとりなしをしたのはこの人である。
この個所は、驚くほどにイエスが最後の場面での状況を預言している。この預言者は、啓示のうちにありありとそれから500年余り後のことを、神からの特別な啓示として見、そして聞いたのだった。
また、詩篇22篇は、その冒頭から、イエスが実際に叫んだ言葉が、預言的に記されているのは広く知られている。
…我が神、わが神、なぜ私を見捨てられたのか!
そして、その詩にはさらに「私の着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く」 (19節)
これも実際にイエスの十字架の場面で生じた出来事であった。そして、「主に頼んで、救ってもらえ。主が愛しているなら、助けてくださるはずだ」(9節)のように、これもマタイ27の35などでこのような嘲りがイエスに対してなされた。
このように、この詩篇22篇も、ダビデの詩と伝えられているが、ダビデはイエスより千年ほども昔の人である。現代なら、一週間先のことさえ、政治や経済、法学などの専門家でも、一週間先に何が生じるか、日本や世界の状況の混沌ゆえに預言できないことを思うと、こうした500年とか千年といった途方もない遥かな昔からすでに、キリストのことが驚くほど克明に預言されていた。
これは、何を意味するのか。 後にあらわれるメシアは、みんなから誉められ、多数に崇められて終わるというのでなく、非常な苦しみ、辱めをけてその特別な使命を達成するということが神からのとくに強い啓示であったのがうかがえる。
キリストの十字架は、このようにはるかな昔から神の聖なる御計画のうちにあったのである。
イザヤ書には、11章にも、キリストの本質を預言していると受けとることのできる表現が随所にある。
キリストは、神の霊を豊かに受けた人であるゆえに、叡智に満ち、弱き人、貧しき人への正義の配慮に満ち、悪の力を滅ぼす存在だ、そのメシアのあらわれる日、終わりの日としばしば預言者で言及されるが、そのときには、「あなた方は、喜びのうちに救いの泉から水を汲む」(イザヤ12の3)とあり、これはイエスがサマリアの女に言った「私が与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命にいたる水が湧き出る」(ヨハネ4の14)をも預言しているものとなっている。
また、イエスの本質が次の個所でも預言されている。
…彼の上に私の霊が置かれる。
国々に正義をもたらし
傷ついた葦を折ることなく、
暗くなっていく灯心を消すことなく… (イザヤ42の1〜4 参照)
ここでも、メシアの本質は神の霊が注がれることによる弱き者への愛、絶望ゆえに生きていけなくなったような人を顧み、新たな力を与えることがさし示されている。
これらは、一部であり、ほかにもさまざまの預言書に イエスの十字架に関連して 記されていて、じっさいにイエスが十字架で処刑されるときに現実のものとして生じたことが福音書に記されている。その一部を引用する。
・彼らは自分たちが刺し通した者を仰ぎ見る(ゼカリヤ 12の10)
・ 酢を飲まされる(詩篇 69篇)
そしてさらに古くイエスより千数百年昔のモーセのときに与えられた啓示として伝えられた書(レビ記)にも見られる。
レビ記1〜17章では、「血がいのちであり、贖いをなす」ということが驚くほど繰り返し現れる。
また、大祭司が民の罪のために血を携えて至聖所に入る…といったこともレビ記 16章11〜19節に詳しく記されている。
こうした 旧約聖書の古い記述は、新約聖書のつぎのような記述に結びついている。
…キリストは 雄山羊とか雄牛の血によらないで、ご自身の血によってただ一度聖所に入って永遠のあがないをなしとげられた。
…神に捧げられたキリストの血は 私たちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないであろうか」(ヘブル書9章は11〜22節より)
このように、血による贖いということが、旧約聖書の古き時代から深い意味をもって繰り返し語られたが、それはキリストの十字架の血をさし示すものとなっている。
じっさいに、復活したイエスは、こうした旧約聖書の記述を、自らをさし示すものとして次のように言われた。
…モーセとすべての預言者から始めて、(旧約)聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明された。(ルカ24の27)
キリストの十字架での死、血を流して苦しみ、それが万民のあがないのためであることは、このようにキリストより千数百年も昔から繰り返し何らかのかたちでさし示されていたほどの重要なこととして神が啓示されてきた。そしてその預言が驚くべき正確さをもって現実にイエスにおいて実現したのだった。
福音書には、イエスご自身がみずからが罪人の一人とされ死ぬというイザヤ書53章の苦難の僕とは自分のことであると、その預言の成就だと言われている。
…「彼は罪人の一人に数えられた」と書いてあることが、わたしに成就しなければならない。(ルカ22の37)
さらに、より直接的には、最後の夕食の席で次のように言われた。
…これは、多くの人の罪の赦しのために流される、わたしの契約の血である。(マタイ26の28)
そしてヨハネ福音書にも よく知られた表現がある。
…良い羊飼いは、羊のために いのちを捨てる。(ヨハネ10の11)
この福音の宣教に、使徒たちはとくに啓示を受けて確信が与えられ、そこからこの単純率直な福音は、広大なローマ帝国に多数存在していた身分としては最下位ともいえる奴隷たちを介して、また皇帝の宮廷にいる人たちにも伝わり、たちまち帝国の全域に伝わっていった。それゆえに、聖書にも、奴隷を持っていたフィレモンの奴隷オネシモが、パウロによってキリスト者と変えられ、福音伝道のためのよき働きをするようになったのが、とくにフィレモンへの手紙やコロサイ書を通じてうかがえる。(フィレモンへの手紙、コロサイ書4の9)
奴隷でも、この十字架の福音、私たちの罪の赦しのために死んでくださったキリストを信じることは、容易になされたことを証しするために、このフィレモン書が残されている。
イエスは言われた、
「幼な子のように受け入れなければ、神の国にはいれない。」(マルコ10の15、ルカ18の17、マタイ18の3)
このように、3福音書で強調されているのは、それほどに幼な子のように、委ねきった心で主を仰ぐ、ということこそ、福音を受けるための根本となる心の姿勢だと言われている。
また、「神の国を見るためには、新しく生まれなければならない」(ヨハネ3の3)もそれを言い換えたものである。
使徒パウロは 多量の手紙が聖書として収められたが、この理由は、彼の学識、研究、学問、あるいは家柄や地位…等々の人間的なものではない。逆に彼は特別な能力あるものとして ユダヤ人学者からの特別教授を受けていたり、ローマ市民権を持っていた裕福な家庭であったと見える。
しかし、そのようなこの世で評価される数々のことを、パウロは何と言ったか。驚くべきことである。
…主、キリスト・イエスを知ることの絶大なすばらしさに、今では他の一切(この世の地位や熱心、能力など誇りとされるもの)を損失と見ている。キリストのゆえに私はそうしたすべてを失ったが、それらを塵芥とみなしている。(フィリピ書3の4〜8)
内村鑑三と仰瞻(仰ぎ見る)
人が救われるためには、ただ主を仰ぎ見るー主に方向転換するだけで足りる、ということは、繰り返し旧約聖書の預言者が伝えていることである。
…「地の果てのすべての者よ、わたしを仰ぎ見よ。そうすれば救われる。」 (イザヤ書45の22)
この個所を内村鑑三はとくに自らの経験から、この 神や主、またその十字架を仰ぎ見る、ということを繰り返し述べている。
・仰瞻(ぎょうせん)…
82回 (第6巻からほとんどどの巻にも使われている、仰瞻とは、「仰ぎ見る」の意)
・仰ぎ瞻る…92回
・仰ぎ見る…47回
・十字架を仰ぐ…24回
・主を仰ぐ…6回
・神を仰ぐ…15回 合計266回。
これは、内村鑑三がアメリカに渡ったとき、アマースト大学のシーリー総長と会って自らの魂の苦悶を話したところ、シーリーは、「自分をみつめず、方向転換して天を仰げ」、言い換えると、「天(神)を仰げ、その神が イエスを世界に遣わして 十字架の死にいたらせた。万民の罪の赦しのもととなったキリストの十字架を仰げ」である。
内村鑑三は、この十字架のキリストによって罪赦されることこそ、福音の神髄であることを自らの魂の深みでの実感と、聖書の記述からも深く悟った。そのことは、内村の著述の多くの個所に見られる。ここでは、次の個所を引用しておく。
福音の真髄 1903年10月
「イエスキリストの血すべての罪よりわれらを潔む」(ヨハネ第一書一章七節)。
福音の真髄はここにあり、これなからんか、福音は福音にあらず。
われはその説明を知らず、しかれどもその事実なるを信ず。
わが救済は、わが罪の赦免をもって始まれり、しかして罪の赦免の理由は十字架上の神の独子の犠牲に存す。
これを仰ぎ見てわれは始めて新しき人となれり。
そしてこのことを悟らせたシーリー総長に関して深い感謝を捧げている。
……「空しく自己の内心のみを見る事を止めよ、あなたの義はあなたの中にはない。十字架上のキリストに在るのである」
このシーリー先生の一言は私の信仰に大革新を起さしめた。
そして熱烈なる愛国者としてアマスト大学に入った私は単純な福音的信者としてその地を出でた。
シーリー先生のこの一言がなかったなら、多分今日の私はなかつたであろう。
その時から、私は聖書の研究を私の天職とし、帰国後今日に至るまで、私の全力を傾注してこの事に当りつつある。(「内村鑑三全集」第24巻57頁)
十字架のキリストを見よ、とのシーリー総長の言葉、それは現在に至るまで、無数の人の生涯を変えていくほどの力を持っていた。その大いなる力は、内村鑑三という一人の人間によるのでなく、彼を立ち上がらしめた神の力、神の言葉にある。
…本誌(「聖書之研究」)の創設者 本誌をして在らしめし最も有力なる人はアマスト大学のシーリー先生である。私は先生によって初めてキリスト教が何であるかを知った。 (「内村鑑三全集」第12巻97頁)
このように内村は、自分の罪、いたらないことばかりをみつめるのでなく、その罪を赦す愛をもった神を仰げ、そしてキリスト以降の時代にあっては、その神の独り子として、神の本質を受けて地上にこられ、十字架につけられることによって万民の受けるべきさばきを身代わりになって受けられた。そのゆえに、キリストの十字架は、神の無限の愛そのものであり、神を仰ぎ見ることは、そのままその神の本質たる愛が現されたキリストの十字架を仰ぐことと重なり合う。
後の内村鑑三の大きな影響ーそれは後々まで続いており、現在においても続いている。
スパージョン(*)と 内村鑑三
それゆえに、内村は、神を仰ぎ見ることによって、大いなる変化を遂げて世界に知られる福音の宣教者となったスパージョンにも深い共感を寄せている。そのころは、まだ日本ではスパージョンのことは、わずかしか知られていなかったときに、はやくも彼に注目して何度かスパージョンに言及している。
(*) C.H.Spurgeon イギリスの世界的に知られている伝道者。1834〜1892年
スパージョンは、人間に罪があるということはわかっていても、自分の罪のことは本当はよくわかっていなかった。後になって彼は、「聖霊の御手にとらえられるまでは、自分の罪を認めることができなかった」と言っている。
そうした罪に関する悩みゆえに日曜日にはあちこちの教会の礼拝に参加したが、やはり平安は与えられなかった。
彼が15歳のとき、雪のためにはじめの予定であった教会への道が難しいのを知って、近くの教会に行った。それは10数人の小さな集りだった。
雪のために牧師が来ないので、代わりにふつうの人と思われる人物が説教壇に立って話し始めた。
そのときの聖書箇所は、「地の果てのすべての人たちよ、私を仰ぎ見て、救いを得よ。」(イザヤ書45の22)であった。
そしてその説教者は言った。「主を仰ぎ見るということは、とても簡単なことだ。指を動かすことも、足を上げることも要らない。大学に行く必要もない、愚か者であっても見るのに何の妨げもない。子供でもできる。
だが、たいていの人は、自分を見ている。しかしそれは何の益にもならない。自分自身を見つめても、何ら慰めにはならない。…」
そして、その説教者は、スパージョンを見つめて、「あなたはみじめな状態だ。 もしあなたが、この聖句に従わなかったら、生きているときも、そして死においてもみじめな状態になる。
しかし、いまこの聖書の言葉に従うなら、今のこのときに救われる!」 と言った。
そして、両手をあげて叫んだ。「若き人よ、イエス・キリストを仰ぎ見よ、見よ、見よ、見よ、あなたはただキリストを仰ぎ見るだけでよいのです。そして命を得なさい!」(*)
(*)The preacher continued, "You always will be miserable,miserable in life and miserable in death if you don't obey my text; but if you obey now, this moment you will be saved."
Then, lifting up his hands, he shouted,
"Young man, look to Jesus Christ! Look! Look! Look!
You have nothin' to do but to look and live."
(「CHARLES.SPURGEON」 by W.Y.FULLERTON 34p 1966 MOODY PRESS)
このメッセージを聞いたことが、スパージョンの生涯での決定的回心となった。15歳のときだった。
このイザヤ書の聖句、そしてキリストの十字架を仰ぎ見よという言葉を受けて、回心したこと、自分の内を見つめていても何にもならない、そして、自分の罪のことで悩み苦しんだこと、そこから十字架を仰ぎ見るーそれは内村鑑三の場合とよく似ている。
それゆえ、内村は、スパージョンに関して次のように記している。
…英国の有名な説教者スポルジヨンは私と同様に単独で雑誌(キリスト教の説教、メッセージ集)を発行した。
ところが、その雑誌が彼の死後の今日もなお続いていて、その記事は主としてスポルジヨンの筆に成ったものである。 すなわち彼の旧稿が再度印刷されて新しい冊子の記事となつて現われているのであり、とても喜ばしいことである。 (「全集」第29巻527頁)
そして、スパージョンは、16歳の若さで不思議ないきさつで教会でメッセージを語る機会が与えられた。
そして2年後、18歳の少年であったにもかかわらず、10数人の信徒がいる小さな教会の牧師となった。
そして、彼の聖霊に満ちたメッセージにより多くの人たちが礼拝に加わるようになり、わずか数カ月で、200人を越えるようになった。
さらに彼は、19歳のとき、ロンドンの大きな教会に招聘されることになった。それは1200人も収容できるものだったが、スパージョンが赴任したときには、牧師もおらず、広い座席は物置になっているほどで、あちこちに200名ほどが散らばって座っているという状態だった。
そのような大都市の教会に、わずか20歳にも満たない青年が赴任するというのは通常では考えられないことであったが、その教会の疲弊した現状をなんとか復興したいと願うその教会員が、若きスパージョンの語る姿に実際に触れてその力と聖霊にあふれた内容に深く感じて、自分の教会にぜひ招きたいと考えるようになった。あまりの若さに不安を感じる教会員もあったが、最終的にその教会での牧師となった。
その後、驚くべき変化がその教会に生じ、1年も経たないうちに、1200名を収容する会堂には人があふれるようになった。
そのため、さらに新たに五千人を収容する大きな教会堂が建設され、その後すぐに、さらに増設されて6500人もの人を収容する会堂となったが、さらにそれでもおさまらないほどの人たちがキリストの福音を聞こうと集まってくるようになっていった。
彼のメッセージ(説教)は、独特の詩的な表現、あふれ出る言葉が、すべて福音の真理を語り、それを浮かびあがらせるためのものだった。
そのメッセージにおいては、準備に時間をかけ、真剣に祈り、学び、かつまとめられたが、それを朗読して説教するなどは決してなく、聖霊の導きのままに語り続けるのであった。
彼を通して福音が語られるゆえに、その福音の力、み言葉の力に聖霊がはたらいて多くの人たちの魂がキリストのものとされていった。
そうした聴衆の一人に、リビングストン(*)がいる。
(*)1813〜1873年。彼は、若き日にドイツの中国方面の宣教師、ギュツラフの働きに深く感じて、中国への宣教師を志すが、阿片戦争のために断念。アフリカへのキリスト教伝道に向う。そのために、アフリカでの伝道の拠点を調べるためにアフリカの各地を歩くことになって、その報告が当時はほとんど知られていなかったアフリカの実態を初めてヨーロッパに知らせることになり、そこからさらなる地理的な知見を得るために依頼されることもあり、アフリカをヨーロッパ人としては初めて横断し、地図もみずから測量技術を身につけたうえで作成した。そうしたことからアフリカ探検家とみなされることがあるが、彼自身の心にあったのは、常に福音をアフリカの人たちに伝えたいという願いであった。
リビングストンは、スパージョンがみ言葉について語る集会に参加したとき次のような感想を残している。
…私は生涯、このような感動を受けた集会に出たことがない。私がもし再びアフリカの危険や混乱のただなかにあって、孤独でわびしい中、わずか十数人のアフリカの人たちを集めて、彼らに神の教えを伝えようとするとき、私の心を強く慰めるのは、ただこのときの集会の祝福された状況を思い起こすことである。
私はいまだかつてあのような不思議な力を持つ説教者を見たことがなく、神の人が壇上に立って、あのような力あるメッセージをなしたのをかつて聞いたことがない。
(「スポルジョンの生涯」88〜89頁 日本基督教興文協会 1917年刊)
そして、彼の日曜日の礼拝のメッセージは次々と印刷され、発行されていった。多くの外国語訳も発行され、現在ではインターネットでは大量の彼のメッセージがそのまま読めるようになっているし、「Treasury of David (ダビデの宝庫)」と題する詩篇の膨大な講解集は、古今のおびただしい注解者たちの注解などを各詩篇ごとに集められ、みずからの講解とともに収録したもので、一巻が千ページ近いものが全3巻、合計三千頁近い内容となっている。日本語に訳せばおそらくその数倍のボリュームとなると考えられる。
そして現在では、インターネットでスパージョンの聖書に関するメッセージ(礼拝集会での彼の説教)は、その相当部分を読むことができる。キリスト教のあらゆる著作家にもまして、スパージョンは今日インターネットでも読むことができる最もその量が多い説教者であると言われている。
このように、内村鑑三の大きな働きの原点となった聖書の言葉「私を仰ぎ望め、そうすれば救われる」(イザヤ書45の22)は、キリストの時代以降は、神の本質は愛であり、その愛から十字架によって万人が救われる道が開かれたのである。
それゆえ、神を仰ぎ望む、とはすなわち神の本質たる十字架の愛をみつめることであり、それゆえ、「十字架を仰ぎ望め、そうすれば救われる」となり、この単純な信仰に聖霊がはたらくとき、この人類の歴史に絶大な働きをしてきたのであった。 そしてこれは過去のことでなく、はるかな過去から現在、そして未来にわたって決して衰えることなき真理なのである。
私たちが最も大切にして守っていくべきは、こうした無数の人々が数千年にわたって罪赦されることの喜びこそが、霊的復活にもつながることゆえに、キリストの十字架の福音こそは、復活の信仰とともに世界の歴史上で最も広範、かつ深い力を及ぼしてきたのであった。
パウロは、「十字架の言は、滅びゆく者には愚かなものだが、私たち救われる者にとっては神の力だ」(Tコリント1の18)と言っているが、十字架の言(ロゴス)とは、十字架に関する福音のメッセージーすなわち十字架でイエスが血を流して私たちの罪を担って死なれたということを信じることで、私たちは実際に罪ゆるされた喜びが与えられる。いかにしても喜びなどなかったのに、ただ十字架を信じるだけで驚くべきことに深い平安と喜びが生じる、これは人間の力でなく神の力が働くからである。
私自身、すでに記したように、それはまさにいかなる人間の教育や知識、いろいろな山や地域への旅等々、いかに重ねても魂の奥深いところでは、その闇は晴れなかったが、十字架の言(真理)を与えられることで、それまで私を取り巻いていた暗闇が、晴れていったのを実感した。
そしてその大いなる変化をもたらした活けるキリストのことを何とか伝えたいと強い願いがおこされ、それまで考えたこともなかった高校の理科教員となって自然のなかに働く神の業を若き世代の人々にさし示し、そこからさらに神の愛、十字架の愛を知らせることが私の歩むべき道だと確信できるようになった。これは何人からもそのように命じられることも、すすめられることもなく、ただ内なるキリストがそのようになすようにと迫ってきたのだった。
そして、その福音をしっかりと受けてからちょうど1年後に、高校教員として赴任し、そこで理科(物理)、数学との担当であったが、担任のクラスのホームルームの時間、またそれら数学や理科の授業の合間に 大きな出来事があると、それを説明するさいに、聖書の真理と少しでも関連づけて、本当の解決はどこにあるのかを語り、そこから、赴任二カ月後に、生徒たちに放課後に本当の生き方、聖書やその他の古典に関しての読書会をするので、希望者は、理科室にくるようにと各クラスに伝えていたところ、10名ほどが集り、同僚の教師にも二人の人が後になってキリスト者となった。
私がキリスト者となったのは、大学四年のときであったが、私は専門課程では生化学であり、これは実験系であったので、とくに私の場合は毎週とても聖書の研究やギリシャ語の勉強などする時間はなかった。しかもアルバイトは家庭教師とさらに配達やエキストラなど、いろいろと時間をとってやっていた。そのうえ、京都で参加しはじめた集会(北白川集会)は、夏には二カ月の夏休みあり、冬も休み、年明けからは学年末のテストが一か月近くにわかってなされので集会には行けず、また春も休みあり…私も9月には一か月かけての前期試験があり…その他 私自身に難しい問題が生じたため、集会には秋はほとんど参加できず、…結局、卒業までに 集会に参加したのは数えるほどの回数だった。
しかし、卒業して公立の昼間定時制高校という特別な高校に赴任し、信仰を与えられてちょうど1年後からはじめた 校内での放課後の聖書の集会では、全日制高校、夜間定時制高校、また盲学校、ろう学校、養護学校など、どのような学校に転任しても、生徒たち、あるいは同僚教員の一部に伝わっていったのだった。
そしてその生徒たちはたいていがいろいろな家庭や自分自身に貧しさや暗さ、病気…等々の困難な問題を抱えている人たちが多かった。
これは、聖書の研究や学識、また知識によって福音が伝わるのでなく、十字架と復活の真理の力のゆえに、言い換えると聖霊の力のゆえに、まったくキリスト教や聖書に白紙の状態であった生徒や同僚の教員の一部に伝わったのであるのをはっきりと知らされた。
いまも、この十字架の福音、復活の福音は、世界を風のごとくに吹き続けている。
そして、それら福音の真理は、泉のように、世界の各地からあふれ出ている。
信じることの重要性
現代の日本や世界には、ウクライナとロシアの戦争以来 、武力(軍事力)による支配や安定を前面にかかげる姿勢がいっそう強められていきつつある。
日本においても、新政権はそうした方向へ突き進んでいく気配が濃厚である。
このような暗い世相の状況にあっても、この十字架の福音の力は、いっそうその夜の星のごとくに際立ってくる。
主イエスは 私たちの信仰を見て、その救いの力を御計画にしたがって与えられる。
それは、中風の人たちをつれてきた人たちの信仰を見て、中風の人に、「元気をだしなさい。あなたの罪は赦される」(マタイ9の2)と言われたことは意味深い。
本人の信仰はここでは記されていない。しかし、その人に関わりある人の信仰によっても神の救いは与えられていくことが示されている。愛と真実な祈りは いろいろな人に神が祝福の風を送られるのである。
また12年間も出血の病で苦しんできた女性が、イエスの服に触れさえすれば治してもらえる と思って触れた。それをイエスはすぐに気付いて、「元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った」(マタイ9の21)と言われた。いかに不十分な信仰であっても、心のすべてを注ぎだすというイエスへの信頼と愛がイエスの力をうけることにつながったのであった。
また、二人の盲人が イエスだとわかると、「私たちを憐れんでください!」と叫びながらついてきた。イエスが家に入ってもなおそばに来たほどの熱心だった。 そこで、イエスは 「私にできると信じるのか」と問うと、ふたりは「はい、主よ」と答えた。 イエスは 直接に目に触れて「あなたの信じているとおりになれ」といわれると 目がみえるようちなった。(マタイ9の27〜30より)
また、ヨハネ福音書においても、聖霊を表すいのちの水に関して、「立ち上がり大声で言われた」と強調されているがそこでの言葉は、「渇いている人はだれでも私のもとに来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書に記されているとおり、その人のうちから生きた水が川となって流れ出るようになる。 イエスはご自身を信じる人々がうけようとしている聖霊について言われた。」(ヨハネ7の37〜39より)と記されている。
私自身は、苦しいことはいろいろあっても愛の神などまったく思ったこともなく、求めることもなくただ、たちこめる闇に苦しんでいた。
そのように信仰を求めることもしていなかったときに、キリストの十字架による赦しのことを読んだとき、突然天からの風が魂のうちに吹き込んで それとともに、信仰を与えられた。
一方的な恵みだった。
私自身、神様とかキリストとかに何も知らず、それゆえそのようなことに無関心であったが、求めずして与えられたのだった。
たとえ、両親や友人などからキリストのことを聞いても、聖書を読んでも心が開かず信仰には入らないという人は非常に多い。
しかし、時至って家族や過去に出会った友人の信仰や書物によって信じるようになる人もいて、実に多様な歩みがそれぞれに与えられている。
神の国への道、命の道は狭く、そこから入る人は少ないとイエスが言われたとおりである。
人の関係、書物などで信仰を持つようになった人でも、それは、人間の意志でなく、その背後で、神の御計画によって招かれ、呼び出されて 信じることができるようになったのである。
生きていく道にはさまざまの困難に直面する。神などどこにいるのかと、思うような状況に落ち込むこともさまざまある。
ここに引用した聖書箇所に出てくるのは、目がみえない、体が動かない、また長年の苦しい病気が治らない…等々の非常な苦しみに直面してきた人たちである。
彼らは、その闇と苦難のただなかから、イエスが力ある神の子であり、愛と真実の存在だと信じての祈り、訴えをイエスに注いだのだった。
私たちもさまざまの困難に出会うが、それでもなお、神が愛であり、万事をよきに導くと信じるかどうか、と問われる。
そのとき 信じる方向に決断することが きわめて重要になる。そうした意味で イエスが言われているように、
神(キリスト)の愛と真実、その全能を「信じる」 ことを選びとることが、しばしば神の国の祝福、力をうけ続けるかどうかの 人生の分かれ目となる。
集まることの重要性
私たちは、だれしも弱くつまづき倒れることに直面する。そのような人間の現状をみて、イエスは一人で祈るだけでなく、「二人三人主の名によって集まるところに私はいる」(マタイ18の20)と約束された。
これはまさしく罪深く、弱い私たちの現状を見抜いたうえでの言葉であって、一人で祈っても力が与えられず、赦しの確信が与えられないようなとき、迷いがとけないときでも、信じる人たち数人でも集ってともに祈り、讃美し、み言葉を読むだけでも主がそこにあって 弱い私たちを助けてくださるという約束である。
こうした約束を信じて、過去数千年、キリスト者はつねに集まることを重要として、その集りを「 キリストのからだ」 であるという表現でその重要性を示したのだった。(Tコリント 12の27、エフェソ 1の22〜23など)
これこそ、「教会」と中国語で訳された言葉の本質である。 教会 とは、その原語がエクレーシアであり、それは「この世から呼び出されたものの集り」といった意味で、二人、三人、主の名によって集められた人たち を意味するのであり、もともとは 組織とか建物を意味していないのである。
これからのさまざまの混乱した時代にあって、いっそう互いに祈り合い、集り合うことでそれぞれが日々新たな力をうけ、 そしてそのもとにある、十字架にかけられて私たちを悪の世界から救いだしてくださったキリストのことを仰ぎ続け、罪赦されていく歩みでありたいとねがっている。
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〇今月号は、とくにキリスト教信仰の中心にある十字架についての記述のみになっています。
私のキリスト者としての出発点であり、それ以後60年近い歳月をとおして、キリストの十字架の死は、私の罪をになって死んでくださったのであることを信じて歩むことができてきたのは主イエスによる計り知れない恩恵です。
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特別な修行や勉強、経験、知識…等々なにも必要でなく、ただ愛と真実な主イエス・キリストを、しかも十字架につけられたキリストを仰ぎ見るだけで、私たちは別のよき世界に導かれるという驚くほど単純なのがキリスト教信仰の世界だと感じています。
〇主日礼拝 毎週日曜日 午前10時30分から。徳島市南田宮1丁目の集会所とオンライン(グーグル・ミート)
〇 夕拝…毎月第一、第三火曜日夜 19時30分〜21時 集会所とオンライン
@ 天宝堂集会…第二金曜20時〜21時30分 徳島市応神町吉成字轟100ー9 勝瑞駅の線路向かい側のはり治療院にて
A 北島集会…第四火曜13時〜15時 第二月曜日 13時〜
板野郡北島町新喜来江古川5ーの4 戸川宅
B 海陽集会…第二火曜日 10時〜12時 海部郡海陽町
