いのちの水2026年 2月 第780号
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わたしを洗ってください、 わたしは雪よりも白くなるでしょう。」 (詩篇51の7) (人の修行や鍛練などでなく神の恵み、聖霊、いのちの水により) |
目次
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・目にみえない聖霊の剣を 土屋めぐみ(千葉 |
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・主は道のすべてに 大塚正子(北海道) |
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・私を仰ぎのぞめ スパージョンの回心 |
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青く広がる大空、また大海原の青いひろがりー最も広大なこれら二つのもの、さらに遠くの山々の青い山なみ、そうした静かにして広大な青は、本当の平和、平安の世界を指し示すものである。
さらに、その大空に浮かび、日々刻々と変容してやまない白い雲、そしてその青い大空は夜になると永遠の輝きをもって無数の星々が現れる。
これらは、すべて単純にして深遠であり、無限の世界からの意味深きメッセージをたたえている。
しかもそれらのうち大空や雲は、しばしばたとえようもない美しい色合いやその姿を現すし、さらに樹木や草原の植物の揺らぎや音楽、大海原、雲の動きや発生などと多様な動画となり、立体的かつ壮大な美的世界をもって語りかけてくる。
さらに、そのメッセージは、愛に満ちた万物の創造主に由来するゆえに、愛や清さ、また真実、永遠をたたえている。
これらは。物理的には聞こえない声をもって、絶えず我々に「わがもとに来れ!」と呼びかけている。
かつて数千年昔の預言者が、次のように語りかけたのを思いださせる。
…「さあ、渇いている者はみな水に来たれ。金のない者も来たれ。
来て買い求めて食べよ。あなたがたは来て、金を出さずに、ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。(旧約聖書 イザヤ55の1)
渇き苦しむ者は、誰でもただ心から求めるだけで人間にとって最も必要なものが与えられる。これは、はるか後のイエスがいわれた「求めよ、さらば与えられん」へとつながっている。
しかも、その創造主の持つ無限のよきものー愛、真実、魂の平和、清らかさ…等々を受けとるためには、何も要しない。金も権力、また健康、性別、年齢や経済的豊かさ、資格もかかわりなく、ただ真実な心もて求めるときに与えられる。
そしてそのような天来の声、響きは世界に響きわたっていることもやはりそうした古代の詩人が預言的に語っている。
… 話すことなく、語ることなく、 その声も聞こえない。
しかし、その響きは全地にあまねく、 その言葉は世界のはてにまで及ぶ。(詩編19の3〜4)
けれども、この世にはそうした天来の響きとは到底相いれない戦争という名の悪の総集のごときものが古来常にあり、人間の小さな集りであっても絶えず、さまざまの憎しみや攻撃、不正がなされてきた。
ベートーベンが、30年も構想を練って完成した第九の第4楽章の冒頭に、
「このような響きでない!」
O Freunde,
nicht diese T・ne!
と異例の言葉を入れたのは、単に音楽上の理由にとどまらず、こうした世界に響き続けている闇からの響きを鋭く感じ取ったからであったろう。
「主の平和」の証し
しかし、いかにこの世の激動や闇、悪の力が支配しているように見えても、そこに神は、その全能ゆえに、神の愛を証しするため、夜空の星のように光る人々を起こしてきた。
その一例をあげて見よう。
第二次世界大戦のとき、わずか4年ほどの独ソ戦争によって数千万の犠牲者を生み出したが、荒野のしかも極寒の中での戦争という最悪の状況にあってなお、光と希望と力を与えられていた人たちが存在していたのである。
その証言は、ドイツ兵士たちが書き残した家族や友人たちへの手紙にみられる。
……私たちは草原の低地の土穴(壕)を掘ってそこに、うずくまり、一時的にそこにて生活している。 広大な草原に壕を多大の労力を費やして、掘って作ったところに兵士たちはいる。そこでは夜もネズミが顔の上を走り、シラミに悩まされ、たえまない戦闘のとどろきがあり、壕の中には、爆撃のたびに、土砂がさらさらと崩れ落ちる。
このようなときにこそ、真正なものと、そうでないものとが分かたれる。…
この戦闘のさなかに、遮蔽壕には、他の部隊によってピアノが運び込まれていて、指揮官は音楽家でもあったので、そうした状況にもかかわらず、ピアノを演奏始めた。この地下で聞く音楽!! バッハ、ヘンデルの組曲、モーツァルトのピアノ協奏曲、ベートーベンの悲愴ソナタ、等々。指揮官は弾き続ける。兵士たちはみな、この音楽に心を奪われてしまった。
そこに、一人の大尉が、戦闘のただ中から飛び込んできて、部隊の悲惨な体験を報告する。それを指揮官は聞いた。しばらくして指揮官は再び弾き続ける。
その間も、壕の壁は放火と爆弾のたびに、地響きをたて、土砂が頭上にふりかかる。皆は驚いてしばしそちらに耳をかすが、再び、音楽が響きつづけていく。
太陽は草原に輝いている。まもなく沈むが、「太陽は昔ながらの調べで響く」(ゲーテ著「ファウスト」の 「天上の序曲」の第一行)
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この兵士は、ソ連軍の捕虜となり、この手紙を書いた一年余り後に死去。
音楽家でもあった指揮官は、 生死のぎりぎりの状況にあって、 爆撃やくずれおちる土砂、また死者や大怪我をして血みどろとなっていく人たちが運び込まれる混乱のただ中においても、音楽という芸術の果たす役割を確信していたのだった。
戦争という死に近づく瀬戸際であってもなお、音楽の力は人の心に響き入る。
それはまた、美そのものの力であり、さらにその美の根源たる愛の神ご自身がそのような本質を持っておられるからである。
この手紙を書いた著者は、音楽に感動しつつ、それに関連した永遠への思いを幼児を抱いた母親の絵で表現した。
…粘土の壕のなかで、絵を描いていたが、近くに落ちる爆弾のため絶えず揺れ動かされるり…。 その絵は、母親が大きな布にくるまれ、母子が安全に包まれている姿である。 私は、Licht、Leben、 Liebe(光、命、愛)(*)というヨハネ福音書に現れるキリストの言葉をその横に書いた。…周囲に闇と死と、憎しみが迫っている私たちの状況のただ中で、一人一人の内に無限に大きく宿っている光と命と愛への大いなる憧憬! …これらの三つを私は平和に包まれている母子という、この世にどこにでもみられるが、しかし永遠の姿のなかに暗示したいのだ。…
(*)Licht (リヒト)、Leben(レーベン)、 Liebe(リーベ)英語ではそれぞれ light、life、love となる。同じゲルマン系の言葉なのでよく似ている。
ここには、どこにも希望も平安もないような命の危険に満ちた、戦地のただ中にあって イエスの約束された「主の平和」(ヨハネ14の27)を感じている一つの魂の姿がある。
それはまさに、この世が与えるものでなく、キリストに属する平和であった。
時には凍るような湿地の水のなかで何時間も待機させられる時の耐えがたい寒さ、しかし、そこから移動することは許可されない。
そうした現代の文明の生活に慣れた者には地獄そのものであるような状況であってもなお、神からの響き、語りかけや光は届くーそれは、彼らの一部が書き残した文からうかがえる。
星の光が無限の彼方からであっても、暗夜にその光を送ってくるように。
小さきものへの愛
これはまた、限りなく小さきものへの神の愛にほかならない。そのままでは凍死しかない寒さと食物もなくなり衣服も濡れても着替えない状況、それはもう何もできない状態であり、著しく小さき存在となった姿である。
しかし、遠い異国の凍りつく大草原にあって、その戦争を指揮する者は、幾千、幾万の兵士が死のうとも彼らの苦悩や悲しみを顧みることなく作戦を続ける。他方、だれも心に留めないで死に果てていく小さきものへの神の愛がそこにある。 この大空の彼方から、そのような一人一人に篤い愛をたたえたまなざしが注がれているのを死を前にしたドイツ兵の言葉が感じさせる。
この世は、平和をかぎりなく武力によって保とうとする。しかしそれはますます世界的にその武力を増大させ、危険を増大させ、さらにその膨大な経費が人々の生活を圧迫することにつながり、その増加した兵力が一度大規模に使われるとき、無数の人々の悲劇が必然的に生じる。
戦争で犠牲になるのは、とくに小さき人々である。幼児、子供、高齢者、病者、障がい者…。そのような人を守るどころか、戦争とは意図的にそのような弱者を大量に生み出すのである。
こうした弱き小さき者を痛めつけること、それは、イエスの精神、神のご意志に根本的に反することである。イエスは、レプラ(ハンセン病者)、道端で物乞いする盲人、愛する者を失った悲しみに沈む女性…等々、この世から見捨てられ差別、冷遇されている人たちや、庶民の心の痛みへと近づき、神の力を注いで彼らの病を癒された。
そのあり方は、武力(暴力)の限りを尽くして人々を殺害し、障がい者や病人を大量に生み出し、そこから家族の深い悲しみや苦しみを生み出す戦争とは何という大いなる違いであろう。
トルストイはまさに、戦争がこうした小さき者たちを踏みつぶしていく野蛮さを鋭く見抜き、その非戦論を徹底して主張したが、それはイエスの言葉が彼にも力強く働いた結果であった。
イエスは、「敵対する者に復讐せず、愛の祈りをもってせよ」「剣を取る者は剣によって滅ぶ」と言われた。 トルストイはそうしたイエスの言葉を彼の魂に投げられた直球のごとく深く受けとったのである。
そして、イエスは、「あなた方に真実を言う。心を入れかえて幼な子のようにならなければ、天の国(神の国)に入ることはできない。」(マタイ18の3)と言われた。
幼な子のような心、そのような心は決してたった一人の人を殺害するなどもありえないし、他国を侵略したり無数の人々の殺害を命じたり…はない。すなわち戦争などは起こさない。
静かなる細き声
ーガンジーの力の源
戦前から戦後にかけて、このトルストイの福音書に基づく平和の思想に決定的影響を受けて、そこから、非暴力の戦いを死を賭して貫いたのがインドのガンジーだった。
彼は、次のように述べている。
……新約聖書の、特に山上の垂訓(マタイ福音書五章〜七章)は、私の心に直接に通じるものがあった。…このような態度は、宗教の最高のあり方として、非常に強く私の心に訴えるものがあった。…
トルストイの著作「神の国は汝らの内にあり」(*)は、私をとりわけ惹きつけた。それは私に永久的な印象を残した。」
(「ガンジー」89頁、131頁 スタンレー・ジョーンズ著 一九五五年刊)
(*)この著作は、トルストイ全集 第15巻 宗教論(下)に収録されている240頁ほどの長い論文、河出書房新社 1974年発行。
そのガンジーの驚くべき力はどこにその源泉があったか。彼は次のように書いている。
…私が強く信じていることは、神は毎日すべての人間にご自身を啓示しているということである。
しかし、私たちはその「静かなる細き声」に耳を閉ざしているのである。(*)
(*) My firm belief is that He reveals Himself daily to every human being but we shut our ears to the 'still small voice.'
(Young India-May 25, 1921) 「見えざる力」5P(「THE UNSEEN POWER」 INDIAN PRINTING WORKS LAHORE 1945年5月発行)
この短いひと言のなかに、彼の力の源泉がわかる。それは祈りの内に啓示される神からの静かなる細き声に聞くことであり、同時に、非暴力で闘う力も与えられたのだった。
イエスにあふれる天来の力ある風や光に最初に接したのは、ガリラヤ湖の漁師であったペテロ、ヨハネ、ヤコブたちであった。そのよう単純なごく普通の人が突然、イエスによって 私に従え、と語りかけを受けて、その仕事をおいて、また家族をもおいてイエスに従っていった。また、最大の使徒パウロは、キリスト教徒を迫害し、殺すことさえした(使徒22の4〜5)のだったが、その迫害のさなかに突然の復活したイエスからの光と語りかけを受けて、決定的な回心をした。
(使徒9の1〜9)
このように学問あり教養ありとも、そうしたことが徹底的に砕かれて小さき者となって初めて、本当の愛や真実の存在たるキリストを知ることになったのだった。
…神は一つのことによって語られ、また再び語られるが、人はそれに気づかない。…見よ、神はこれらすべての事を 二度、三度と人に行われる。これはその魂を死の世界から引き返し、命の光で彼を照らすためである。(ヨブ記33の14、29〜30)
こうした語りかけは、ことに人生の苦難、悲しみのときに多くみられるが、そうでない日常生活のただなかでも語りかけているのが、私たちを取り巻く自然である。太陽の光、月や星の光、そして吹き渡るそよ風も強い風も…雲や青く広がる大空も、山野の無数の美しい花々…、また鳥類の飛び翔る姿…すべての自然の姿は、すべて天来のメッセージの何かを私たちに語りかけている。それらは、沈黙にして雄弁であり、いかなる暗闇や孤独のただなかであっても語りかけている。
私たちの魂も、神の愛の光を受け、いのちの水を飲み、絶えず響く神の語りかけを受けて、主の平和を与えられることによって、この世の悪の力を乗り越えて歩んでいける。
この世の大自然も生きた存在として、旧約聖書の詩人は、詩編の最後の部分で天地のすべてに創造の神への賛美を呼びかけているが、それはすでに詩人が、それらの自然の賛美の響きを聞きとっていたからである。
そしてそのどこまでも広がる賛美は、後にヘンデルが復活したキリストこそ、一切にうち勝つ力を与えられた救い主だとハレルヤ・コーラスで壮大な賛美としたものと響き合う内容となっている。(特に詩編148)
…主を賛美せよ
(ヘブル語ではハレルヤ)
日よ、月よ、主の御名を 賛美せよ
山々よ、木々よ、野の動物よ …主を賛美せよ…
王たちよ、若者や年老いた者、幼な子たちよ 主を賛美せよ。
「耳ある者は聞け!」と言われている。(マタイ11の15他) はるかな過去から現在に至るまで、魂の耳を澄ますときには、戦乱のただ中であっても神への感謝、平安、賛美が生まれることをすでに引用したドイツ兵士の言葉やこれらの詩編は指し示すものとなっている。
戦争になると、闇の力があらゆるものを支配していこうとする。
しかし、聖書に記されている神の言葉こそは、歳月を越えて吹いている風であり、また、神の真実、そこに根ざす希望、そして神の愛はいかなる事態が生じようとも流れ続けている川なのである。
そして、青き広大な空は、私たちが「主の平和」という大いなるみつばさの陰にいるのだということを日々、思いださせるものとして天上の額にかけられているのである。
(「美術の杜」(BM)社発行 2025年夏
第68号 掲載 )
ー望みの港へ (詩編107の28-30)
苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと
主は彼らを苦しみから導き出された。
主は嵐に働きかけて沈黙させられたので
波はおさまった。
彼らは波が静まったので喜び
望みの港に導かれて行った。
私たちこの世に生きていくとき、予測しがたい状況が生じて、だれでも 何らかの苦しみや悲しみに直面し、そこからの心の叫びを持っています。
それは、自分の病気のこと、仕事のことや学校、職場での人間関係、家族の問題、あるいは、高齢化に伴う孤独、将来への不安、世の中の暗い状態などなど、子供から大人、老人に至るまで、何らかの問題をかかえて、どこに持っていけばよいのか、どうにもならない揺れ動く心を抱えています。
そうしたものをまぎらわすために、さまざまの娯楽や飲食に関する施設もあると言えます。
そのような、どこへも持っていきようのない問題を、もし不適切なところに持っていけば、かえって状況は悪くなります。
自分の病気や仕事の問題を、他人に言って共感を求めても、かえって冷たくあしらわれて、いっそう心が滅入ることも多いのです。
友人や教師、あるいはカウンセラーに相談しても、だれも自分の深い心の中での悩みや苦しみはわかってはもらえないことが多いです。 喜びはどこか共通しています。健康、よい家庭、快適な住居、人からのよい評価、よい職場…
しかし、苦しみや悲しみ、悩みは千差万別、ひとつとして全く同じものはないほど多様性があります。
それは人の心そのものが、それぞれの人によってみな異なるからであり、外見的にみて同じようにみえても、その悲しみや苦しみ、怒り、妬み…等々はみな異なるからです。
死にたいと切実に日々思っている心の世界には、元気な、幸いな状況にある人はとても共感できるほどの心の深さがないです。
それゆえに、私たちの苦しみや悲しみを本当の意味でわかってくれるのは、人間ではないのです。
私自身、唯一の神への信仰、愛の神を心に実感するまでは、まったくそのような状況で、だれも自分の心の深いところなどわからないと感じていたので、だれかに相談、打ち明けるなどという気持にはまったくなれなかったのを思いだします。
そしてそのような深い悩みや悲しみは次第に魂の深みに沈殿して、取り除くことができずに重い心となっていきました。
そのようなときに、私は一冊の本から、千差万別、人間の数だけ悩みや苦しみ、悲しみの多様性があるけれど、いかなる深い苦しみや悲しみであろうとも、必ずその人のきわめて特異な苦しみや悲しみであろうとも、必ず真実な対応をしてくださる御方がおられる! そのことに気付かせてくれたのが、キリスト教信仰でした。
神は全能でありその愛と真実も無限の深さがあるゆえに、、はてしない多様性ある苦しみや悲しみにも正確に対応しうるーそんな御方が存在するなど、一般的な常識では考えられないことです。
それは人間にはありえないが、人間を創造し、天地のいっさいをも創造した神様なら可能となるのは当然のことです。それができないようなら、その神は全能でも愛でもないからです。
そうしただれでも持っている苦しみを導き出すことのできるお方がおられる、それが、聖書で言われている神であり、現在の私たちにおいては、キリストであり、聖霊でもあります。
この世にはさまざまの嵐が吹きつけてきます。さき程述べた、病気や人間関係や職場や、家庭などの問題もみな、一種の嵐と言えます。 それらが私たちの生活をおびやかし、心をも痛め、悩ませることになるとき、聖書に示されている神に叫ぶことが、そこから導きだされる道だと言えます。
神はいかなる嵐をも静める力を持っている、それは、実際にそうした嵐を静めて頂いた魂はそのことを決して忘れることができなくなります。
ガリラヤ湖での嵐のただなかにて、弟子たちが、船が転覆しそうだと必死で叫び、うろたえたとき、主イエスは、なぜ怖がるのか、信仰の薄い者たちよ、と言われて、風と海に静まれと、命じたとき、驚くべき静けさが訪れたことが記されています。(マルコ4の35ー41)
主イエスこそは、そうした人生のいかなる激しい嵐をも静め、さらによき港へと導いてくださるお方です。 主イエスが最後の夕食のときに、弟子たちに約束されたこと、それは「主の平安」です。私たちも神からくる平安を持ちつつ、目的の港、すなわち「神の国」へと導かれていきたいと思います。
―心に残っている御言葉
土屋 めぐみ(千葉)
…立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、
平和の福音を告げる準備を履物としなさい。
なおその上に、信仰を盾として取りなさい。
…また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。
どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」(エフェソ6の14〜18)
この聖句を心に深く刻みたいと思ったのは2つの出来事からです。
1つ目は、12月20日のこと。すぐ上の兄が天に召されました。兄は若い時に奥さんと死別して深い悲しみを体験し、その5年後に自身が悪性リンパ腫になり病を抱えての歩みでした。 けれども兄はいつも前向きでハム工場の仕事や生活を通して小さいものを大切にし、自分の住んでいる山奥の自然の移り変わりや信仰者としてこの世との関わり方をたくさん発信していました。それは読むと力づけられ、心を高みに引っ張り上げてくれるものでした。
2つ目は、年が明け、1月10日〜11日に徳島聖書キリスト集会で行われた独立伝道会の冬期聖書集会です。
テーマは列王記の「静かなる細き声」でした。自分の置かれた場所で、神様からの声に従うことの大切さ、厳しさを教えられました。 またその中で、今回私は神様の細き声を聞く前のエリヤの状況が深く心に残りました。
エリヤが王妃から命を狙われ、絶望のあまり自ら命を絶とうとするほどに弱くなっていた時に御使いが「起きて食べよ」と食べ物を2回も与えたのです。
食べ物に力づけられたエリヤはホレブの山まで行き、洞窟に入っていると神様から「ここで何をしているのか」との問いがあり、「そこを出て山の中で主の前に立ちなさい」と言われ、その後に主の細き声を聞くことになります。
絶望にあったエリヤに御使いは食べ物を食べさせました。私には御使いがわざわざエリヤに触れて、御言葉を食べさせたように思えました。また「ここで何をしているのか」との問いは、自分に向けられたように思えました。
これらのことを通して、これからもこの世にはたくさんの出来事が起こると思う時に、このエフェソ書に書いてあるように、神様の武具を身につけ、しっかり神と共に立ち、根気よく祈っていたいと思いました。以上です。
― 心に残っている御言葉 大塚 正子(北海道)
私の聖書の中に差し込んである1枚のしおりについてお話しします。
「人の道は主の目の前にあり、
主はその道筋のすべてに心を配っておられる。」 (箴言5の21)
私が聖書、また信仰とは結びつかなかった頃に選んだ御言葉でした。
そして今この御言葉に守られて、私の今があるということを改めて気づかされる機会になりました。
詩編というのは、信仰の書であって、箴言というのは、実際的な倫理書というふうに説明がハンドブックにありましたけれど、だから私はまだ分からない時にこの言葉に出会えたのかもしれません。
そしてこの言葉の中でも、新共同訳では、ここは「主はすべて計っておられる。」現代訳では「すべて見通しておられる。すべて調べておられる。」文語訳では、「計りたもうすべて行為を見守られる。」というように、こういう言葉で書かれていたので、
私は新改訳に守られてすごく楽な気持ちで、この御言葉を書いたと思います。
そしてヨブ記でも31の4で「わたしの歩みをすべて数えておられる。そして一歩一歩見ておられる」とヨブが語っていることもあり、この御言葉がしっかり語られていることを通読の中で知ることができました。
またヘブル書でも4の13では、「更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。」
私は今このへブル書の御言葉を心から思い、そしてこの聖句に守られて今まで神様から目を配っていただいてきた。
そしてこれからは自分の力で、そして神様に頼って歩んでいく御言葉に変えていきたいと思いました。ありがとうございました。
私たちを取り巻く自然ー山々、海、大空、そして大地やそこに生育する無数の植物たちーそれらはみな概して沈黙している。
静けさがそこから流れてくる。
その静けさ、沈黙の中から、しかし、神はつねに語りかけておられる。
神ご自身が、大多数の人にとって周囲の自然のように、沈黙していると感じる存在である。
神は、我々をとりまく大いなる自然、またきわめて繊細なる小さき植物や花々をとおしても、語りかけておられる。
そしてその大空や星々たちの沈黙は、私たちにその沈黙に耳を傾けるようにつねにうながしている。
古代の聖書の詩人は、そうした沈黙の中からの声を聞きとった。
彼らはとくに霊的な耳を与えられた人たちであり、天地 宇宙のすべてのものが、神を讃美しているのを聞きとっていた。
それゆえ、さらにそれらに呼びかけて、地上の人もそうした、被造物の讃美に加わり、壮大な讃美となるようにとうながす心から生み出された詩が、詩篇の最後に置かれている。
…太陽よ、月よ、
はるかな高みの天よ
主を讃美せよ
山々よ、木々よ、
主を讃美せよ
自然の中の動物たちよ、
翼ある鳥たちよ
主を讃美せよ
地上の支配者ー王たちよ、
世界の人々よ
若者よ、
老人、幼な子よ
主を讃美せよ、
主の力、その威光(愛、真実、美、永遠…)は天地に満ちているゆえに。
(詩篇148より)
戦争や飢饉、迫害、飢え、災害…等々古代からどのような地域であってもさまざまの困難があり、苦しみや悲しみがあるにもかかわらず、こうした壮大な讃美に加わるようにと宇宙万物や人間全体が呼びかけられている。
創世記の最初に、神が万物を創造されたとき、すべてよし、と言われたことが、そのまま最終的には成就するということを神によって啓示され、直感的に知らされた魂の告白がここにある。
ヘンデルのハレルヤの大コーラスの響きがここから生まれている。
そして耳あるものはこの壮大な響き、神への讃美を聞け!という神からの呼びかけがいまも世界になされている。
そしてこの大いなる宇宙に響きわたる讃美を聞きとるはじめの一歩は、つねに私たち自身が静まる、魂において沈黙を保つ、祈りの心をもって歩むということにある。
宇宙に響く讃美ーその中には、苦難のただなかからも響くもの、いまだそのことに目覚めないでこの世の悪しき呼びかけに引き寄せられて苦しむ魂がある。
そうした小さな魂からの苦しみの声、悲しみの叫び…等々も私たちの魂が静まるほどに聞こえてくる。
今後ますます必要となるのは、現代の闇の世界からのはてしない騒音から離れて、はるかな昔から響き続ける神の国からの語りかけ、音楽を聞くことである。
それこそ、求めよ、さらば与えられん との主イエスの約束が一層輝いてくる状況となっている。
このことに関して40年ほど前に、まだインターネットもないときに、洋書店をとおして注文した本のなかの次のことばは今なお、いやさらに重要性をもって語りかけてくる。
God is the friend of silence.
神は、沈黙の友なり
We need silence to be able to touch souls.
私たちは、魂に触れることができるためには、沈黙を要す
(「Something Beautiful for God」1971年 これはマザー・テレサの言行を記したもの)
私を仰ぎ望め
そうすれば救われる。
(イザヤ45の22)
ースパージョンの回心
神の言葉を10代からのべつ例えば始めて、現在にいたるまで大きな影響を与え続けてきた人、それがスパージョンである。
彼については、同時代のヒルティが早くも注目して、彼が最もよく、理解した(共感した)人の一人にあげている。
また内村鑑三も、早い段階で彼の回心が自分の回心と通じるところありと、深い共感をもって記している。
スパージョン Spurgeon が救いをはっきりと自覚したのは、 吹雪で、雪の積もった日であったので、ふだん行っている教会でなく、偶然別の教会があり、そこに行ったところ、そこでの説教者が、後のほうに座っていたスパージョンに対して語りかけるように、ある聖句を熱心に語りかけたのだった。 イザヤ書45の22をもとにして 「私を仰ぎ見よ」(神に向って方向転換せよ) 」との神の言葉を伝えたところ、スパージョンは それによって以後の生涯を決定づける転換を与えられた。
このことは、繰り返し語って広く知られるようになった。当時15歳だった。
そこには十数人しかおらず、しかもその日の説教者は牧師ではなく、代わりに立った無名の信徒 でした。
スパージョンは礼拝堂の後ろの席に座り、心の中は罪の意識と日々悩みのために闇で満ちていた。
その教会では本来の牧師は不在で、 説教者はイザヤ45の22節を繰り返し叫ぶように語った。
「私を仰ぎ望め、(Look unto me)、そうすれば救われる」
彼は神学を学んだこともない人物だったが、この一節を何度も何度も、単純で力強い言葉で語り続けたのだった。「神の方向を向くのだ」
「自分を見るな、神を見よ」
「向きを変えよ、キリストを見よ」
そう語り続けつつ、突然その説教者は 後部座席にいたスパージョンを指さし、見つめて言った。
「若者よ、あなたはみじめそうだ。
あなたは救われる必要がある。この御言葉はあなたのためだ。
“向きを変えよ、キリストを見よ”」スパージョンは後年、「まるで神が私に直接語っているようだった」と記している。
自分の内側を見ても救いはない、 自分の努力や感情では救われない。
ただキリストを見る(turn to Christ)だけでよい。
彼は後にこう書いている。
「私はその瞬間、キリストを見た。そして私は救われた。」
内村鑑三も、日本でいるときはどうしても魂の闇が晴れなくて苦しみぬいたあげくアメリカに渡った。
内村は次のように語っている。
「…そこで出会ったアマスト大学のシーリー総長からの言葉は、「空しく自己の内心のみを見る事を止めよ、あなたの義はあなたの中にはない。十字架上のキリストに在るのである」
この一言は私の信仰に大革新を起さしめた。
そして熱烈なる愛国者としてアマストに入った私は単純な福音的信者としてその地を出でた。シーリー先生のこの一言がなかったなら、多分今日の私はなかつたであろう。
その時から、私は聖書の研究を私の天職とし、帰国後今日に至るまで、私の全力を傾注してこの事に当りつつある。(「内村鑑三全集」第24巻57頁)
〇主日礼拝 毎週日曜日 午前10時30分から。徳島市南田宮1丁目の集会所とオンライン(グーグル・ミート)
〇 夕拝…毎月第一、第三火曜日夜 19時30分〜21時
@ 天宝堂集会…第二金曜20時〜21時30分
A 北島集会…第四火曜13時〜15時 第二月曜日 13時〜
B 海陽集会…第二火曜日 10時〜12時
