「いのちの水」1月号 第779号
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私たちは勇気を失わない。たとえ私たちの外なる人は衰えても、 内なる人は日々新しくされている。 (Uコリント4の6) |
目次
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本間勝 |
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予見できない日本と国際状況
新しい年をむかえて、一層日本や世界の状況は混乱と複雑さを増しつつある。
我が国、そして世界はどうなるのか、今日のような短期間の大きな変動ー自公の分裂や自維との合同、さらには立憲と公明との合同…等々をとっても、いかなる政治家、評論家、著述家なども予見した人は皆無であったろう。
それと同様に、戦争という国家最大の悲劇もまた、それが勃発する少し前まで、だれも予見できなかったことが多い。
第一次世界大戦は、オーストリア=ハンガリー帝国の 皇太子フランツ・フェルディナント夫妻が、ボスニアの首都サラエボで セルビア系青年に暗殺されたという事件がきっかけで、ヨーロッパ全体にひろがる歴史上で初めての大規模戦争となった。
最初に暗殺という一人の人間の仕業がなければ、またそれに誇大に反応して関連した国がセルビアに宣戦布告し、国家同士の戦争ということに発展し、ヨーロッパ全体にひろがった。
また、中国との15年戦争に関しては、アメリカなどが加わって太平洋戦争となり、数千万人の死傷者を出した。 この大規模戦争のきっかけは、石原莞爾が中心となり、満鉄の線路を爆破し、それを中国がやったと偽って攻撃を始めたことが後の日中戦争、太平洋戦争へとつながった。
このような、ごく一部の関東軍の者たちによって、線路の小規模の爆破という不正な行動が、後に広大な中国全土に戦線がひろがり、さらに英米、豪、オランダ等々を巻き込む世界大戦となり、アジアだけでも数千万の人々が殺傷される歴史上の最大の悲劇となった。
いずれも、その大戦がはじまる直前まで、ほとんどだれもが、それほど大規模の数千万人が犠牲となるほどの戦争になるとは予想もしなかっただろう。
それゆえにこそ、今後の世界においても、どのような政治学者、評論家、政治家たちも予見できないようなことが生じて、だれも想像もしなかったような大戦争に波及するという可能性もある。
だからこそ、軍事、暴力は決して用いないという、憲法9条が戦後成立し、非戦の精神が刻み込まれたのだった。
核兵器は、抑止力になって、永続的な平和を生み出すなどありえない。もっとも危険な兵器を多くの国々が所有するようになって、互いにさらなる増強につとめていく、いわば脅迫の増強である。
それが何の平和か。
人間がなすことは、実に多様で、ありえないようなことも引き起こす。
どのような突発的行動を引き起こすかだれも予見できないのであるから、そのような平和は影のごとしで、実態はない。
世界の国々が次々と核兵器を持つようになったとき、ある国の指導者が、何らかの国際紛争で、持つ核兵器を使用すると対抗して別の国が用いるーこのような危険性がさらに増大するのはいうまでもない。
じっさい、朝鮮戦争のとき、中国からの参戦を予想していなかった当時の司令官であったマッカーサーの予想に反して、中国から百万人の軍隊が厳冬期のさなか、困難な状況において急襲し、アメリカを主体とした国連軍は総崩れとなり、それを逆転させるためにと、原爆を数十発中国本土に投下することを、当時のアメリカ大統領に要請したほどだった。
(トルーマン大統領はそれが第三次世界大戦につながりかねないなどでその要請を拒否し、マッカーサーを解任した)
このように、武力、軍事力を増大させることで、必ずそれを使おうとする指導者があらわれる。
そして、どのような人物が 核兵器を持つ国の指導的人物になるか、だれも予見できない。
第一次世界大戦の勃発、日本と中国との戦争、ヒトラーの急激な台頭…等々、それらの事象とその後の世界の大きな変動ー常に無数の人々の苦しみや多大な悲しみ、絶望…という悲劇が伴った出来事だった。
今後も世界にいかなることが生じるのか、だれも予測できない。
そうした中で、さらに、かつてない困難が生じている。
それはインターネットの関わる通信、ロボット、無人攻撃機、核兵器のひろがり…偽りの情報の氾濫…これらはいかなる予期できないことにつながるか、だれも予測できない。
予見不可能な未来における確信とはー活けるキリスト
こうしたいかなる学者も哲人も知識人も予見不可能な事態が生じることに対して、何が確たる安心を与えるのか。
こうした前途不明の暗雲のただなかにあっても、数千年前と変ることなく希望の光を与え続けるのが、聖書であり、そのもとになった活ける神である。
それは夜空の星がいかなる地上の混乱や悲劇が生じようとも変わらぬ光をはるかな宇宙空間を通して輝き続けているのがさし示す世界である。
真実の希望は、人間のなすことー政治や経済、また学問、研究、多大の知識…等々などにはない。
政治の現状、また社会の戦争や内乱、差別、貧困、難民の悲惨…また絶望ゆえの自殺等々は、学問研究や豊かな人たちがいかに増大しようとも減少することがない。
こうした学問や研究、コンピュータによる果てしない知識の蓄積…等々によっても、こうした本当の希望とそこに秘められた力を与えることはできない。
本当の希望というものは、神から直接与えられるものであって、学問、研究、多様な知識、経験、生まれつきの能力、努力…等々によらない。
それは、まずキリストの12弟子たちの主要な弟子、ペテロ、ヨハネ、ヤコブたちが学問など関わりない漁師であったこと、また対照的に旧約聖書を学問的に研究、学んだはずの聖書学者(律法学者)や、その優れた指導者に特別に学んだ使徒パウロは、キリストの真理をまったくその学問にもかかわらず、受けることをせず、強く拒んで、迫害の急先鋒とさえなって、殺すことさえしたと彼自身語っている。 それゆえに、パウロは、自分自身を罪人の頭だと称するほどだった。
さらに旧約聖書のアブラハムも羊飼いであり、最大の神のことばとまでたかくあげられた詩を多数生み出したダビデももとは羊飼いであった。
旧約聖書、否 古代世界で歴史に重大な影響を与えたといえるモーセもまた、若き日には、エジプトの王子として育てられ、旧約聖書を学者から学ぶということもまったくなかったし、イスラエル人と発覚して、エジプトを砂漠地域の困難な状況の中を命がけで、逃げ延びてやはり羊飼いをしていた。そのさなかに、神が現れて彼も出エジプト記の指導者としたのだった。
エジプトの王子のときに啓示を受けるということもなく、そこから追放されて文字通り死線を越えて生き延びたときに羊飼いとなって過ごしていたが、それは人間の力の弱さを思い知らされたときであり、そのようなときに、シナイ山のふもとという砂漠地帯のただ中で羊飼いをしていてそこで神の救いを受けたのだった。 ここにも救いのために、学問、地位が関係ないことを示している。
また、ローマ帝国に急速にキリスト者が増えていったのは、パウロ書簡にもみられるように、皇帝の近くにいる人たちにもキリスト教は伝わり(フィリピ4の22など)その他さまざまの階層にある人々にも伝わったが、とくに当時、帝国内に多数存在していた奴隷たちが、キリスト教の伝播に重要な役割を果たした。
このように、聖書に示された唯一の神への信仰は、旧約聖書の時代から、新約のキリスト教の時代においても、知識人とか地位の高い人たちが中心でなく、素朴の羊飼いのような仕事をしていた人や奴隷のような学問など無縁の人たちにも啓示が与えられてひろがっていったのがうかがえる。
学問、研究にたずさわる人々は、戦後日本でも大学の急増で戦前とは比較にならないほど増加して現在では短大も含めると一千校を越えるが、戦前は国立大学は10校にも満たず、私立を含めても30校程度しかなかったのを考えると飛躍的に増大した。
しかし、唯一の神を信じる人はずっと1%程度にとどまった状況であるのも、こうした学問、知識の研究はまったく唯一の神を信じる信仰には結びつかないことを示している。
他方、科学技術に関する学問の先端をいっている科学者たちが、原爆、水爆という一発で数十万人、あるいは数百万の人たちを殺傷し、住み処も広大な領域にわたって破壊し尽くすという恐るべきものを生み出したのである。
現代の核兵器の危機も、何人がそれを突然の決断で用いるかだれも予測しがたいゆえに、危険性がいつもただよう状況にある。
原爆は、ノーベル賞を受賞したり、それに匹敵するような核物理学の権威者(*)たちの研究によって明らかになった原子核の構造やその分裂、エネルギーの発生などを駆使して作り出された。
(*)キュリー夫妻、ベクレル、ラザフォード、チャドウィック、フェルミ、オットー・ハーン、アインシュタイン、オッペンハイマー、湯川 秀樹他
究極的な兵器であったそうしたものはかつてなき不安を黒雲のごとく、人類の前途に立ち上らせつつある。
このような時代となっても、なお、否、さらに強い光をもって我々に迫ってくるのが、聖書に記され、イエスが実際に生きてこの世界に明らかにし、ことばでもって世界に示した真理である。
「真理とは何か」このローマ総督ピラトがイエスを尋問したときに発した問いかけは、以後二千年間、世界に鳴り響いている。
そしてその問いかけに確信をもって答えることができるためには、過去にどのような罪を犯したか、また善行を成したか、あるいは学問や経験、健康状態、あるいは年齢、民族、国籍…そのようなものに関係がない。
ただ神の力、愛によって、ある人の魂の扉が開かれて、神からの光を受けることによって啓示を受けることで確信が与えられる。
それは、十字架にかかられたイエスが我々人類の罪をになって死なれたことをただ信じることそのイエスが神の力によって復活し、現在は聖霊となって活けるキリストとなって、神と同じはたらきをされていることを信じることから、道が開かれる。
それは、全能の神の愛のはたらきの故であるから、周囲の人間にかかわる出来事も、人間が地上に存在する以前から存在した山、海、河…あらゆる動植物、大空…等々が関わっている。
真理とはそうしたあらゆる人間のこと、自然のことの背後にあって愛をもって創造し、今も支えているそのような神の力である。
こうした真理そのものは、霊的な響きをもって世界に響いてきた。
それは、旧約聖書の詩集にて今から三千年ほども昔に神の啓示をうけて記された内容がそれをさし示している。
… 天は神の栄光を物語り
大空は御手の業を示す。
昼は昼に語り伝え
夜は夜に知識を送る。
話すことも、語ることもなく
声は聞こえなくても
その響きは全地に
その言葉は世界の果てに向かう。(詩篇19の1〜4)
神の霊的なことばは、すでに太陽や星々によって物理的な音声とは異なる響きを世界に発信してきた。
そのような音、響きを、言葉として直接に他者から具体的な言葉として受けとったとき、初めて人は真理とは何かを理論とか学説とかでなく、これこそは真理だ!と確信する力を与えられる。
そしてその真理は聖なる風という側面をもつために、私たちの罪をもその風の力によりて吹き去り、代わりに天来の聖なる風を送ってくださるようになる。
そこから私たちは、心の日毎の苦しみ、問題、正しい道、愛ある道からはずれたときでも、そこからその究極的な愛そのものである活ける主に祈るようになる。
そうした祈りは旧約聖書の詩集たる詩篇にほかに類のないふかさ、高さ、また広さをもって記されている。
その一例をあげる。
…神様、わたしのために清い心を創造し、
わたしのうちに新しい、
確かな霊を与えてください。
御前から私を退けず、
あなたの聖なる霊を取り上げないで下さい。
(詩編 51 の 12〜13)
Create in me a pure heart, O God, and renew
a steadfast spirit within me.
Do not cast me away from your presence,
and do not take your holy spirit from me.
ここで、私たちの目にとくに新鮮なのは、私たちの本当に良き心は、決心とか読書、あるいはよき交流といった人間的なものによっては生まれないという洞察である。
それは、宇宙万物を創造した全能の神が、私たちの魂の世界にも清い心を創造してくださる必要があるという認識である。
創造するという原語(ヘブル語)は、バーラーであるが、この語は旧約聖書全体で54回用いられている。そのうち創世記11回、イザヤ書21回と、この二つで6割近くを占めているほど。
しかもイザヤ書では40章以降に20回と集中している。
これはイザヤ書40章以降は、 イスラエルの主だった多数の民がバビロンへ捕囚として連行され、いつ帰れるのか、このまま民族としては滅んでいくのかという岐路に立たされていたとき、この第二イザヤと言われている預言者が現れて、神からの強いメッセージ、力づけを与えられた内容である。
新しい創造、彼らの中心であったエルサレム破壊され、イスラエルの国は滅ぼされた。ほとんど無に帰した神の民が神の力によって奇跡的に立ち上がるということをメッセージの中心としているために、「創造」する(バーラー)という言葉が多く用いられている。
この詩篇の個所においても、人間が根本的に立ち直るのは、決心とか友人、教師、また親族等々の他者の影響などではできない。
これは、神ご自身の全能の愛の力による創造によって私たちの魂は清くされ、絶望やこの世の闇の中で立ち上がる力が与えられるということである。
それは言い換えると、聖なる霊ー神の聖なる風を受けることにほかならない。
それゆえに、学問などほとんど一般の人々には縁のなかった古代からきわめて学問や科学技術などが発達し現代においてまで、比較にならない時代状況の変容にもかかわらず、神の言葉はこの世界、宇宙に響き続け、また聖なる風として吹き続けているのである。
そのような驚くべき力はただ神のみがもっているのは明らかである。
人間の思想とか影響力など、こうした神の天地に及ぶ壮大な創造の力に比すれば、マスコミやネットでもてはやされる有名人たちも、たちまち消えていく影のようなものにすぎない。
そしてさらに現代の状況における我々に大いなる意味をもっているのが、その真理は無限の愛ー弱きを強め、暗黒にある者に光を与え、傷ついた葦を支え、消えようとしているともしびに新たに点火する御方であるゆえに、現在においても ただ真剣に求めるだけで、何等の費用も資格も関係なく与えられるということである。
真の新しさを生み出すもの
魂に真の新しさの実感を与えるのは、活けるキリストがその魂のうちに住むことである。
すでに述べた、詩篇51篇の言葉にあったことー清い心を創造し、私のうちに新しい確かな霊を与えてくださいーというその願いは、新約聖書の時代になって、活けるキリストが心に住んでくださることによってかなえられることになった。
キリストご自身が、清い完全な心であり、死によってもこわされないたしかな霊そのものであるからだ。
そして、それは貧しい人でも、百歳に近い人、あるいは学者、無学な人、子ども、重度の病人、白人、黒人…どのような民族も関係なく、イエスを信じることで、だれもが、真の新しさの実感を与えるもとになる、「永遠の命」を与えられる。
…イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。
わたしを信じる者は、死んでも生きる。
生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。
このことを信じるか。
(ヨハネ11の25〜26)
この問いかけはマルタという女性になされたものだが、
聖書という聖なる書は、それがある時代のある人物に言われたことであっても、その後の世界のあらゆる人に向けられた普遍的な問いかけとなっているが実に多い。
旧約聖書では、時代的、地理的制約があると見えることも多いが、実は、そのような個所も、また それは遥か後に現れたキリストのことをさし示す記述にほかならない。
イエスご自身が、旧約聖書は私のことを書いてある、
…あなたがたは聖書(*)を調べているが、その聖書はわたしについて証ししている。(ヨハネ 5の39)」
(*)新約聖書で「聖書」と訳されているのは、旧約聖書のことである。イエスや使徒たちが活動したときにはまだ新約聖書はできていなかったからである。
この世の最大の問題は、生きること、死ぬことである。
死んだら終わり、というのが大多数の日本人が漠然と持っているおもいであり、宗教的心情である。
そして、死んでも終わらず、無にならず、何らかの霊ー亡霊、幽霊のごときーとなってさまよい、生きている人を脅かすと信じられていたからこそ、その死者に毎日食物などを提供して死者を供養することが大切だとされてきて、現在でも多くの人たちがそのことをおこなっている。
復活したイエスこそが、使徒パウロが「私の内にはキリストが住んでいる」、と言ったそのキリストである。
…もはや私が生きているのではなく、
キリストが私のうちに生きておられる。
(ガラテヤ書2の20)
呼吸のごとくに、活けるキリストはパウロに霊的な命を与え続け、パウロはそれによって生き、福音のために働き続けた。
この内に生きて働くキリストのことは、いいかえると、主イエスの次の言葉と深くかかわっている。
…人はパンだけで生きるのでなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。
(申命記8の3、マタイ4の4)
というイエスの言葉を深く、全身をもって彼は体験しつつ生きたのだった。
語りかけられる神の言葉そのものが活けるキリストであるから。
また、その活けるキリストのあらゆる霊的な賜物を与える豊かさー真実なるもの、善なるもの、美なるものを与えてくださるゆえの、深い満たされた実感ゆえに次のようにさえ述べた。
…名誉・地位・生まれのよさ…等々、かつては私にとって良きものであったこれらのことを、キリストのゆえに何の役にもたたないものと思うようになりました。
…私はそれらを糞土と見なしています。」
(ピリピ3の7〜8)
これはおどろかされるような表現だが、ヨハネもまたその福音書の冒頭にて、その活けるイエスの霊的な豊かさを証言している。
…「キリストによって その満ち満ちた豊かさから、私たちは恵みの上に恵みを受けた」(ヨハネ1の16)
この世界のどこに、ー仕事、娯楽、また名誉や評判、経済的豊かさ、人間の愛…どれをとって、この満ち満ちた豊かさ、汲んでも汲んでもつきることなくあふれ出る豊かさを持っているであろうか。
財産、富に満ちた人であっても、かえってこの世の豊かさゆえにさまざまの貧しい人には存在しない悩みや問題が生じ、男女という人間愛ゆえに破滅に陥る人たちは昔から後を絶たない。
そしてそれらの目に見える宝のようなものは、魂の奥深くの喜びは決して与えず、さらなる欲望や、カネに目のくらんだ者たちが周囲にまつわりつき、そこから予期しない問題が生じて心の平安や喜びを失わせていく。
しかし、私たちの内に活けるキリストが少しでも住んでくださるようになると、衣食住のすべてにわたって、小さくとも貧しくとも満たされるようになる。
その小ささのなかに、また弱きところにこそ、神の力が完全である(*)という驚くべき言葉の真実性を初めて知らされていく。
(*)私の恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れる。(Uコリントの12の9)
能力の小さきゆえに、罪深きゆえに、他者から見下されるーしかしそれを甘んじて受けるとき、そこから心貧しきものへの祝福が与えられ、神の国はそれらの者に与えられるという約束が与えられていく。
また、愛する人、友人からの裏切り、人からの侮辱…等々の普通なら憔悴しきり落ち込んでしまう状況にあっても、主イエスの「ああ、祝福された者たちよ
あなた方、悲しむ者は!」
と語りかけ、その人からの冷遇のただなかに何にも変えがたい神の愛のはげまし、すぐそばにいてくださってこの活けるキリストこそは、自分の悲しみや暗い谷間に突き落とされたような悲しみに打ち勝つ力と喜びを与えてくださる。
それこそ、荒野に水が染み通るように、何にも増して魂の奥深くに染み通る平安であり喜びである。
そうした主の平安を与えられるときに、この世のものはそのようなものを決して与えることはできないこと、むしろその逆であることを深く知ることになる。
キリストが活きてわが内に住んでいる、それはそのまま永遠の命を与えられている姿そのものと言えよう。
そのことを、イエスも、すでに述べたように、ただイエスを神の子と信じるだけで、すでに死なない存在、永遠の命を与えられているのだと言われたのだった。
イエスこそは、神の本質をそのまま与えられ、万人の罪を十字架につけられることであがない、救いだし、そして復活して聖霊となり、また活けるキリストとなって信じる人の魂の内に住み続ける。
その復活したキリストとは、ヨハネ福音書やコロサイ書、またヘブル書にもその最初の部分で記しているように、(*)万物を創造した神と同じ存在であり、それゆえに今も万物を支えている。
(*)・万物はロゴス(キリスト)によってなった。成ったものでロゴスによらずに成ったものは何一つなかった。(ヨハネ1の1〜3)
・御子によって万物を創造し御子が力あることばで万物を支えている。
(ヘブル1の2〜3)
・万物は御子によって支えられている。
(コロサイ1の15〜17)
このように復活したキリストは、神と同じ永遠の存在となった神そのものといえる存在であるゆえに、あの広大な宇宙の星々をも創造し、支えている無限大の存在なのである。
さらに地上の千差万別の多様性をもっている動植物、また、私たちの体の細胞の一つ一つも実に複雑多様な化学物質を反応させて私たちの心臓を鼓動させ、寝ても覚めてもその体内工場というべき細胞のきわめて微小ななかで、大工場でもできな高度の複雑多様な化学反応をおこなっている。
私たちの体のどこをとってもそれはそうした複雑な化学反応の結果、作り出されたもの。
活きて働くキリストとは単に心のうちに住んで、私たちを支え、喜びで満たすだけでなく、そのような体内の驚くべき多様な化学反応さえも支えている存在なのである。
そのように活けるキリストとは、あらゆる被造物のもとにあり、今もはたらいて支えているものであるゆえ、
その被造物たる日々の大空や太陽、月、星々、あるいは地上の多様な植物や海のさまざまの波の様子…それら一切もまた、全能の神の働きであるとともに、その活けるキリストの働きでもあるということになる。
一般的には、キリスト者であっても、活きたイエスをそのようにまで受け止めないということが多い。
しかし、イエスの本質は人間としての33年間で示したようなことだけでなく、周囲のはてしない自然の世界にも及んでいるのであって、み言葉にしたがってそのように、受け止めるとき、周囲の身近な自然の一つ一つがあらたにキリストのお心、神さまの愛が刻み込まれたものなのだと感じられてくる。
実際、私は高齢となって、以前にはそれほどに感じなかった、身近な大空、海、雲、遠くの山々のつらなり、多様な植物の花の美、さらに葉や幹、樹形…等々が以前よりいっそう私の心に深く入ってくるようになった。
私は太平洋につながる海の近くに住むために、その海から50メートル未満のところにあるデイサービスに、妻の恵美子さんを連れていくので、その帰りに 太平洋につながる紀伊水道に面した海の大きさ、その力、またその美にいつも接している。
それゆえにその波の無限の多様性に驚かされている。 そして、それらが、私に語りかけているという実感を与えられている。
活けるキリストがわが内に住んでくださるとき、日々、新しい心で、周囲のさまざまの事物やできごとからも新しい何かを受けとることができるように導いてくださる。
その新しさの実感こそ、老年がすすんでもなおかつ与えられる賜物だと感じている。
わが魂は主を待てり
ー心に残るみ言葉
本間 勝
「わが魂は衛士(*)が
朝を待つにまさり、誠に衛士が朝を待つにまさりて主を待てり」( 詩編13の6)
(*)衛士とは見張りのこと。
私は20代の末に2年程夜勤の仕事に就きました。
家族や友人達、世間の人々が皆寝静まった夜中に独りノルマを果す淋しさは格別なものがありました。
幸い私の職場は屋内でしたが、屋外で務めている夜廻りやガードマンはさぞ夜明けを待ち望んだであろうと思います。
私の岳父、酒枝義旗教授も若い頃苦学生で、夜は人力車夫として働きました。
後年大学教員の傍らキリスト教の伝道師になり日曜集会を始め、月刊誌を発行しました。集会も冊子も同じタイトルで詩篇130篇6節から待晨(タイシン あしたを待つ)と名付けました。 冊子は50年月刊で続き600号で終刊しました。
集会は80年続き今日も日曜礼拝を続けています。岳父の人生体験に基づいたメッセージの要点は
「神様は下手をなさらない。全てを最善に導いて下さる。」でした。私も心から同意し拝聴しました。
現在の苦しみは過去の失敗の報いではありません。将来の栄光の準備なのです。神様は下手をなさらない。
一切を最善に導いて下さいます。やがて夜は明け、朝が来ます。
信じて祈り、待ちましょう!
(主日礼拝のときの心に残るみ言葉の証しとして語られたもの)2025.12.14
林 晴美
私は生まれたときから足の浮腫があり、それが、近くの人からはどうしても見えるので小中高といじめられていました。話す声も小さく、行動するのも遅くて、ほかの子の後ろからついていくような子でした。
いじめはとてもつらかったですが、母は私の1歳の頃から心の病があり、私の妹が8か月で亡くなった時の大きな悲しみを思うと、私までいなくなるわけにはいかない。という思いがずっとありました。
つぎに 集会に導かれたきっかけを話します。父は、盲学校の教師をしているすぐ上の兄である伯父に、たびたび浮腫のことを相談してくれていました。
19歳の頃に平方式で鍼治療をしている鈴木益美さんを紹介してくださり、治療に行くようになりました。 そのときに、「いのちの水」誌などを鈴木さんから受け取っていました。
1999年にクリスマス特別集会に誘われて参加しています。その後、結婚して5年ほど経ち精神的に不安定になっていた 2004年10月から集会に参加するようになりました。
手話や賛美歌、植物に興味あるでしょう。と土曜日の集会からの参加を勧めてくれました。
そして鈴木さんのはり治療院での小羊集会、大学病院に長期入院している寝たきりの人工呼吸器を装着して首から下は動かない勝浦良明さんのいる病室での つゆくさ集会、戸川さん宅での北島集会とすこしずつ増やして参加できるようになりました。いちばんだいじな主日礼拝には午前中は苦手と言い訳をしながらなかなか参加できなくて、10年くらい経ってから参加できるようになりました。
3つの持病は、14歳、20歳、33歳の時に診断がつきました。
マタイ福音書4章4節「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」
持病のことで悩むとき、この御言葉に励まされます。
つぎに父母を通して受けた神の愛と導きを話します。
父は2011年に亡くなりました。喪主は私でしたが、父の兄弟が7人いますので、葬儀は仏式で伯父たちに取りしきってもらいました。父の大事な葬儀、トラブルは避けたいと思ったからです。
父の3回忌に向けて準備をしているときに、母が「今回の法要が終わったら今後は晴美が主体となってしていってよ。」と言うので、「私はキリスト教だから、仏教のことはできない。」と言いました。そうすると、「私の葬儀までは仏式で。」と言っていた母が「キリスト教に変わっても良い」と言ったので驚きました。
祖父母と妹、そして父のお骨をトラブルなくキリスト教霊園に移すことができました。母が納得いくまで時が与えられ、人間の思いであれこれ言わなくても、神様が働いてくださることを思います。
コヘレトの言葉3章1節「何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」ことを思いました。
父の亡くなった後、私は離婚していたので、経済的なことやわたしひとりで母の支えになれるかどうか不安でした。
詩編55編23節「あなたの重荷を主にゆだねよ 主はあなたを支えてくださる。」の御言葉に励まされました。
2019年は母に一年のうちに次々と3つ深刻な病気の診断がされました。信仰に導かれていなければ、私自身が受け止めきれずに取り乱していただろうと思います。両親の闘病にしっかりと向き合うことができたのは、背後におられる神様のお支えがあったからだと感謝します。
イザヤ書30章15節「あなた方は、立ち帰って 静かにしているならば救われる。
安らかに信頼していることにこそ力がある。」
母のさいごの一週間は病院で泊まり付き添うことができました。危篤状態となり吉村さんに葬儀場の手配をしていただき、打合せの同席からすべて吉村さんにお任せできました。
母の葬儀をした2020年2月は、次の週から新型コロナ感染症の緊急事態宣言のため、礼拝はオンラインのみ、葬儀も身内だけで、となる直前でした。
礼拝のあとに集会から大勢の方に参加していただき、喪主である私に集会の皆さんの支えがあるように、という神様の愛を思いました。
詩編37編23節
「主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えてくださる。」
いじめの時に言われたこと、また自分自身の性格などから、働けない、なにもできない、私はだめだ、役に立たないと自己否定する部分がありました。しかし病気もいろいろな出来事もすべて神様の御計画であることを知りました。人間の時間と労力には限界があり、必要なタラントも異なるので、神の御用に用いるために私に必要なものを神様が備えて導いてくださったことを感謝します。大きな声で話せるようになったこと、パソコンもその一つです。
これからも信仰から離れないで、御国への道を歩んで行きたいと思います。
(2025年クリスマス特別集会)
「野の花」文集を同封しています。同封されてない方、また追加希望あれば左記の吉村まで連絡ください。
〇元旦礼拝 1月1日午前6時半から、会場、オンライン含めて30名ほどが、新しい年の祝福を祈って参加されました。なお、90歳に近いT・Yさんは2.5キロのまだ夜明けてない寒さ厳しいなか、バスもないので、道を歩いて40分ほどもかけて参加されたことにも感謝でした。
〇冬期聖書集会
(キリスト教独立伝道会主催)
1月10〜11日、徳島聖書キリスト集会を会場とし、オンライン含めての開催。
今回は、「静かなる細き声」を主題として列王記上から「エリヤ」を主題として、吉村の講話と6人の方々ー小林典子(福岡) 那須容平(大阪) 対馬秀夫(青森)、香西信、秋山泰典(岡山)、赤塚牧(東京)の方々によってそれぞれ20分ほどで話されました。
また、夜の7時〜9時のグループ別祈祷会では二時間にわたっての祈りが主の支えによってなされ、よき祈りの交流となりました。
以下の集会は対面とオンライン併用が多いです。問い合わせは左記の吉村孝雄まで。
