2025年 8月号 第 774号
地震の後に火があった。しかし主は火の中にはおられなかった。 火の後に、静かなる細き声があった。 (旧約聖書 列王記上 19章12節) |
目次
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集会案内 |
聖書で記されている神の本質は、次の二つのごく短い言葉であらわすことができる。
初めに神は天と地を創造された。(創世記1の1)
神は愛なり
(Tヨハネ4の8、16)
神は、天地万物の創造者であるということは、全能だということを意味している。
100億光年を越える遠い星も、また、1ミリメートルの千分の一の大きさしかない大腸菌にあるおびただしい化学物質、またそれらを結合する力、… 等々もみな全能の神がなされたことである。
初めにあげた二つのことを信じるときには、天地万物は、神の愛によって創造されたことになる。
そしてその神とともに、人間の姿をとって地上にこられ、イエスという名前を受ける前から、存在していたロゴス(言)のことが、ヨハネ福音書の冒頭で次のように記されている。
…すべてのものは言によって造られた。
造られたもので、言によらずにできたものは何一つなかった。(ヨハネ1の3)
ここでの言とはロゴスのことであり、それは、地上に生まれる前から存在していた神と等しき存在をロゴスといっている。そのロゴスこそは、キリストであり、神の愛そのものであった。
それゆえ、そのような完全な愛が万物を創造したと言われている。
それゆえに、私たちを取り巻く自然のあらゆるものは、神の愛がその愛ゆえに創造したのだということになる。
雲や大空、そして身近なさまざまの野草、美しい高山植物の花々、あるいは海や山など広大な地域に広がるさまざまの光景やそこにみられる植物、動物たちもみな何らかの神の愛を込めておられる…。
神は全能、そしてキリストと神は本質的に同じ存在、それに加えて、神の本質が愛そのものであるということから、こうした身近なだれにでも通じるような真理が示されている。
このような真理は、ロシアのトルストイと並び称せられるキリスト教作家であるドストエフスキーの最晩年の頂点をなす作品である、「カラマーゾフの兄弟」のなかにもそのことと関連したことが、死に近づくキリスト教の指導者のことばとして記されている。
…人の罪を恐れるのでなく、罪あるままの人間を愛すべきである。
なぜなれば、 このような愛はすでに神の愛に近いもので、地上における愛の頂上だからである。
そのような神の愛をうけるときには、あらゆる神の創造物の全体を、そしてその小さな部分をも、同じように愛することになる。
一枚の木の葉、一すじの日光をも愛するのだ。動物を愛し、植物を愛し、あらゆる事物を愛すべきである。… あらゆる事物を愛すれば、やがてそれらの事物の中に神の神秘を見いだすことになる。
ひとたびこれを見いだすなら、もはやその後は毎日、徐々に、いよいよ深く味わってゆくのみである。
こうして、ついにすべてに及ぶ純粋な、かつ宇宙的な愛をもって全世界を愛し得るようになる。
(ドストエフスキー著 「カラマーゾフの兄弟」河出書房版 264頁」)
星はほとんどの人々にとって、毎夜、晴れていればみることができる。しかもみるためには何の費用も、準備も要らない。雲がかかっていなければいつでも見ることができる。
それほど、身近であり、しかも何万年も前の人類もまた現在の星々を見ていたほどに、永遠的である。
そして、見なくとも何らかの罰もあるわけでなく、見たからといって何か誉められたり、この世の地位が上がるわけでもない。
しかし、星は、見る人の心によって、何を日々見つめているかによって、星が語りかけてくるものが全く異なってくるであろう。
聖書においては、今から数千年昔に記された、詩編においても次のように記されている。
… あなたの天を、あなたの指の業を 私は仰ぐ。
月も、星も、あなたがそこに置かれたもの。
そのあなたが御心に留めてくださるとは 人間は何者なのか。(*)
人の子は何者なのか。あなたが顧みてくださるとは。 (詩編8の4) (**)
(*)「人間」と訳された原語は、エノーシュ で、旧約聖書全体では、人間の弱さと絶望が主題となっているヨブ記で最も多く使われ、ついで詩編やイザヤ書など詩的文書にこの言葉が多く使われている。ヨブ記などでこの語は、単に 「人間」と訳するのでなく、mortal man(死すべき人)と訳されている個所もある。
(**)人の子 と訳されているのは、原語が ben adam で、 アーダーム とは、土という言葉から来ている。いずれもその言葉そのものに、弱さ、取るに足らない存在、といったニュアンスを含んでいる。
この詩で、あえて、二種の人間をあらわす言葉を用いているのはどこから見ても弱く、無に等しいような存在だということが言葉の上からも強調されている。
広大無辺の宇宙の星々を創造した神こそは、無限大の力をあらわす存在である。
人間でも地位が高くなり、権力がそれに伴って増大するに連れて、地位、身分の低い者は、近寄れなくなるし、そうした権力者たちも、一般の貧しく弱い民衆を顧みないことが多い。
戦争はその最たるもので、弱い民衆に命じて敵と称する人々を大量に殺害することが命じられる。そしてそのとき、双方において生じる夥しい重傷者、死者やその家族たちがどれほど苦しみ、悲しみに打ちのめされるのか、そうした地位の高い権力者たちは、まったく関心がないと見える。
しかし、この世のそうした当たり前のような状況は、ひとたび天地を創造された神と人間に関してそのつながりを深く知らされるほどに、ほかにいかなる権力者も到底比較にならない。
天地全体を創造するとは、人間の考えや想像力をはるかに超えた力である。天地全体というときいかなるものが含まれるのか、それさえ 無限の多様性とその数の無限大にも圧倒される。
広大無限というとまず宇宙が思いだされる。しかし、我々の心の世界もまた同様に広大無辺である。
他方、物質的に見ても、葉っぱ一枚の中にどれほど数々の複雑な化学物質があり、それらがいかにして、あの花々のような繊細な色合い、模様、形態を造り出すのか、さらにその化学物質が個々の原子、分子などがいかにして生じたのか。
遺伝の本体である DNA にしても、その複雑な構造は 細胞というきわめて微小な環境のなかで、いつ何者がそのようなものを造り出したのか、…等々。マクロ、ミクロどの方向へと思考を向けても、無限大というその内容に驚かされる。
そうしたどこから見ても無限大の存在は、さらにはるかに困難な世界ー心、魂とか霊、精神などと言われている世界においても、その深さ、高さ、広さ、清さ、永遠、普遍性…等々、驚くべき多様性を示している。
そのような無限に力ある存在であるにもかかわらず、人間とは異なり、たった一人の弱き、悲しみや苦しみにうちひしがれる魂に何者よりも近くにきて、語りかけ、また励まし、力を与える存在である。
そのように、無限大の大きさでありながら、かつどこまでも小さき存在に目を注ぐのが、キリストを地上に送り出した神なのだと知らされる。
こうした中で、目で見えぬものとして、最もその清さ、無限大とも言えるもの、それが 神の愛であり、神の真実であり、また神の力である。
星に関しては、さまざまのひとたちがいろいろな思いを述べている。
ダンテの神曲は、二度とあのような作品は現れないとも言われるが、その作品は、地獄篇、煉獄篇(浄罪編)、天国編の三つに分かれているが、そのそれぞれの最後には、原文では、STELLE (イタリア語で、「星」stella の複数形) が用いられ、この壮大なしかも、キリスト教の信仰や政治、社会、人間の愛と神の愛、不正に対する何らかの裁きの必然性…また音楽、賛美の重要性、等々いかにダンテが広範囲の世界に深い関心をもっていたかをうかがわせるが、そのなかで、星をさまざまの象徴的意味を持ったものとしてとくに重要視していたかを示すものとなっている。
アメリカの思想家エマーソン(1803〜1882年)は、以下の文で、次のように述べている。
…毎夜 星は、美の使者として、そして宇宙をその語りかけるような微笑みをもって宇宙を照らしている。(*)
その星々はある種の 畏敬の心を目覚めさせる。それはいつも存在しているが、近づくことはできない存在だからである。…
…あなたの車を星につなげ。
自己の利得のためだけの仕事、利益ばかりを計算するに疲れ果てることはやめよう。… (**)
私たちは何かを心に持って運んでいる。それは、もっと人々に認められたいとか、経済的に豊かになり、家や車も地位もよくなりたい…等々。それらを自分自身の欲望、周囲の評価…等々に結びつけて歩もうとすることが多い。
病気になれば、それが身心の重い荷物となり、それをいわば引きずりながら歩まねばならなくなる。
そのような生活の中で、その重荷を何に結びつけて歩もうとするのか。
あなたのそうした荷物を星につなげ というのである。
星は、美の使者だという。この世界のあらゆる醜悪な暗い状況のなかに、それらの汚れに染まらない真の美をその単純なきらめきとともに私たちに運んでいる。
これは、キリストの次の言葉を思い起こさせる。
…疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。 私は柔和で謙遜な者だから、私の軛(くびき)を負い、私に学びなさい。 そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。」(マタイ11の28〜30)
私たちにとって、星につなぐ とは、イエスに心を結びつけることであり、それのみが、だれにとっても、またいかなる状況にあっても、究極的なよきところー神の国への歩みとなる。
今も活きて働いておられるイエスこそは、私たちにとっての星なのである。
(*)Every night come out these envoys of beauty, and light the universe with their admonishing smile.
admonishとは 穏やかに諭す、勧める,
(**)Hitch your wagon to a star.
Hitchは「つなぐ」「結びつける」
ワゴンwagon は、現在では、箱型の自動車を意味することが多いが、もともと、wagon というのは、エマソンの当時はまだ自動車がなかったので、馬にひかせる車、あるいは幌馬車を指す。荷物や人間を遠くまで運ぶためには、「大草原の小さな家」に見られるように、幌を付けた馬車が必要であり、そのときの馬車を wagon と言っていた。
現代の世界は、到る所で汚れたものが現れる。
清いもの、それは科学技術や学問、ネットなどによる表面的な知識…等々によっても得られない。
いかに外国旅行をたくさんしても、また長い人生経験を多くしても、清い心は生じない。
この世の賞をいくらもらっても、また苦労を重ねたからといってもまた清い心は生じない。
しかし、自然の世界は、清いもので満ちている。
身近な日々の青く澄んだ大空、また少し山間部に入れば見られる渓流の流れーそしてとくに野生植物の花々、さらには夜空の星のきらめき…等々、何をとってもそこには、欺き、欲望、差別…等々は見られない。
昔から武器をとっての戦い、戦争というものはずっと止むことはないが、その戦争、武力闘争は、他者を殺害、憎しみ、破壊女性への性暴力、略奪、、…等々あらゆる汚れたことを生み出してきた。
そのような状況にあって、聖書は、清め ということを一貫して重要視してきた。
一般的にはほとんど読まれていないと思われる旧約聖書のモーセがうけた啓示として伝えられてきた文書のなかに、一年で一度、罪の清め、赦しの儀式が行なわれる。それは、罪赦され、罪がない清いものとされ、神との霊的交流の新しい関係に入るためであった。 (レビ記16の30)
また、詩編にも、次のような個所がある。
… 主よ、私を憐れんでください
御慈しみをもって。
深い御憐れみをもって
背きの罪をぬぐってください。
私の咎をことごとく洗い
罪から清めてください。
あなたに背いたことを私は知っています。
私の罪は常に私の前に置かれています。
あなたに、あなたのみに私は罪を犯し
御目に悪事と見られることをしました
私が清くなるように。
私を洗ってください
雪よりも白くなるように。…
私の罪に御顔を向けず
咎をことごとくぬぐってください。
神よ、私の内に清い心を創造し
新しく確かな霊を授けてください。 (旧約聖書 詩編51より)
ここには、自らの罪の深さ、その重大さを深く思い知らされた人の魂の叫びがある。
人間の正しいあり方からいかに大きくはずれているのかを、私たちは長い一生の内で、しばしばずっと後になって知らされる。
さまざまの問題は、その背後に必ず、何らかの愛の欠如、言い換えると祈りの欠如があったのに気づかされる。
しかし、ずっと以前の罪は、もうどうすることもできない。そのような心の深いところでの罪の悲しみや苦しみを癒してくれるのは、いかなる人間の思想や経験でも、また知識や学問でもない。あるいは、そうした罪のことを忘れ去ろうとする意志によるものでもない。
そもそも、罪の深さを感じるなどは、そうした思索とか経験、知識などと関係がないからである。
私自身、みずからの最も身近な、かつてはその体内でいたほどに近い存在であった母親に対する愛のなさを、半世紀を過ぎてさらにいっそう感じるようになった。(*) 私は一九四五年の十一月下旬、満州生まれ。零下二〇度にもなる厳しい寒さの訪れる頃、ソ連兵が一斉に攻め込み、中国人も敵視するようになったさなか、満州北部から南部の奉天に逃れてきたのだったが私は乳児であり、食物や家もなく逃避行のなかでいかにして生き延びることができたのか、その苦難は想像を絶するものがあり、そのごく一部を父や親族から聞くだけだった。
人間の根本問題は、数千年前から現在に至るまでこうした、罪の存在に気づくこと、そしてその赦しを神からうけることである。
それゆえに、聖書では旧約聖書のはるか数千年前から、そのことについてとくに力を込めて記されている。
しかし、この世は、経済問題が根本問題であるかのように、選挙でも、税金を低くするとか、一時金を与える といったことを第一に主張することが実に多い。
しかし、経済的に豊かになっても、人間の心の状態は数千年昔と変ることなく、不正や嘘、裏切り、あるいは欺く、差別、弱者への圧迫…等々は行なわれ、大量の人間同士が、互いに殺害や破壊を繰り返している。
このような現実から脱する道はすでに、イエスが二千年前に言われたことである。
… 人はパンのみにて生きるのでない。
神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。(マタイ4の4)
本当に生きるとは、この世にはるか昔から一貫して流れている、真実なこと、清いこと、慈しみ等々に生きることである。
そのようなことが私たちにどれほどできているか、ほとんどはできていない。
いかに努力しても、よい教えを聞いたところで、人間の奥深い本質は変わらない。
その根本を変えるためのことが、この神の口からでることばを魂にうけることなのである。
その神のことばの中に、 罪を知ること、自分が死せる者のような存在であること…言い換えると罪深き存在であることを知り、その赦しを与えられる道が示されている。
そのことは至難なことに思われるが、神が私たちに言われているメッセージそのものは実に単純なことである。
「地の果てのすべての者よ、私を仰ぎ見よ。そうすれば救われる。」 (イザヤ45の22)
清められる道
ーダンテの神曲より
私が小学生のときに父に連れられて見た「二十四の瞳」高峰秀子主演の映画は、それから70年ほども経った現在でも、ありありとそのいろいろな場面が浮んでくるほどである。
戦争の非情に対しての強い反戦の心があふれ、そこに主演の教師の切々たるこどもたちへの愛、そしてまたこどもたちのその教師への愛など、涙がにじむような内容だった。
それは、清い水が流れているようなものとして心に残っている。
しかし、アニメの普及、さらに無数の画像や動画があふれているスマホ等々は、次第に何が清いものなのか、真実なものかということなどに目を向けることなく、圧倒的多数が、何がおもしろいか、目を引くのかといった視点から繰り広げられている。
いかに汚れたこと、また破壊や犯罪、現実にない恐怖を呼び起こすような映像であっても、平然としてネット上、テレビの画面上に現れる時代である。
他方では、そのような時代だからこそ、人間の魂にとって根本的に重要な清いもの、真実なものへの憧れはさらに潜在的な願いとなって深まっていると言えよう。
そうした清いものへの深い祈りが込められた偉大なる作品が、ダンテの神曲ーとくにその煉獄篇(*)である。
(*)日本語訳では煉獄と訳されるのが多いが、浄罪編とも訳される。この言葉の原語は、 Purgatorio であり、英語のpure(清い)と語源は同じだからである。
ここでは、その煉獄篇の中から一部の内容を取り出して現代の我々にかかわるメッセージを少しでも汲み取りたいと思う。
ダンテ神曲は、多くの人は知らない状況であるが、それは、世界的に多くの人々に深い影響を与え、その人々によってまた別の人々が影響を受けていくことになり、一つの大きな水源のような役割を果たしてきた。
例えば、ヒルティ(*)は神曲に深く影響をうけた一人であるが、次のように書いている。
(*)スイスのキリスト教思想家、著述家、法学者。ベルン大学総長。1833年生まれ。日本では戦前から多くの人に愛読されてきた。ヒルティを最初に日本に紹介したのは、東京帝大に哲学、そして東京芸大の前身の音楽学校にピアノの教師として赴任したケーベル博士であった。白水社から ヒルティ著作集、岩波文庫から「眠られぬ夜のために」「幸福論」などもだされている。
…ダンテは軽い読み物ではありません。「尊厳なものは重い」からです。しかし、その深いところまでも、すべて理解できるものであり、哲学的に深いところであっても、分からないことはありません。…
ダンテは聖書と同様、自分で読まなければならない本であり、何度も繰り返して静かに思いをひそめることによってのみ、しだいしだいに入って行けるものなのです。
ダンテはすでに多くの人々にとって、より高い生活への指導者となっていますし、おそらく現代においてこそ、ますますそうなるでありましょう。なぜなら、地上の「悩みと疑惑の荒涼たる森」(地獄篇第一歌)から抜け出す正しい道を、現代の多くの人々はもはや見出しかねているのですから。…
私は、ダンテに対して最も理解あり、最も博識である注解者の一人(*)の言葉を引用し、これに賛意を表しておきましょう。
「ダンテを読むは、これ一つの義務なり、
そは、再読反復するを要す、
そを感じ得るは、すでに偉大さの証明なり。」
Leggere Dante e un dovere,
Rileggerelo e bisogno,
Sentirlo epresagio di grandessa.
(leggere 読む、 e 〜である、dovere 義務、Ri-繰り返し leggere 読む lo それを、bisogno 必要、sentir 感じる presagio 前兆、予見 grandessa 偉大さ )
(*)ニッコロ・トマセオ (1802-1875 イタリアの詩人、辞書編纂者として有名。ヒルティと同時代の人)
(ヒルティ著作集第六巻283-288pより、邦訳名は「愛と希望」となっているが、原題は「Briefe」で、「書簡集」の意。教育や人生、人間の目的、キリスト教信仰などについて、手紙のかたちで書いた論文集 白水社刊。)
………
煉獄の山をのぼり始めたダンテは、ローマの大詩人に導かれて行くが、切り立った崖のようなところがあってそこからは上れないほどの険しい道があった。しかしそこを上っていかなければ煉獄の門に入ることはできない。
ダンテは、夢のなかに天使のルチアが突然現れて自分を捕らえて、本来ならば達することの困難な煉獄の門に達することができた。この神曲の特質の一つはこのように、「導かれる」ということが奥を流れていることである。
予想していなかった天よりの助けによってダンテは前進していけるのであって、そのような助けがなかったら進めないのである。このことは、現在の私たちの御国へと目指す歩みを象徴している。
私たちもまた、どんなに努力してもまた年齢を重ねても自分の本質は変わらないことをしばしば痛感させられる。しかし、主を仰ぎ、主に引き上げられるようにして歩むときようやく私たちはより高いところへと、また御国への道を進んでいくことができる。
キリストの最大の弟子とされた使徒パウロ、彼は当時としては最高の教育を受け、家柄もよく、ユダヤ人の宗教においても熱心な者であった。しかし、そうしたあらゆる恵まれたものをもってしても、キリストの真理はまったく分からなかった。そうした地位、家柄、学問もキリストに近づく翼とはなり得なかったのである。かえってキリストの真理を打ち壊そうとするほどの大いなる暗黒にあった。
パウロをその真理に連れていったのは、学問や努力、修行でなく、天よりの光であり、復活のキリストであった。
その光に打たれ、聖なる霊の力によって立ち上がらせてもらって初めてかれは魂の目がひらけたのであった。
ダンテがようやく達した煉獄の門、それは特別な意味深い岩石でできた階段を上ったところにあった。
罪の清めの道
第一の段は、真っ白の大理石でできていた。それは、その白さによって自分の罪のみにくさをはっきりと映し出されて知り、悔い改めへと向かわせるためなのであった。
煉獄の門への階段の第一はこのように、みずからの罪を深く知ることからはじまる。それは現代の私たちにもそのままあてはまる。罪を明確に知ろうとせず、分からないときには悔い改めもなく、従って御国への前進がなされないのである。
第二の石段は、黒ずんだ石であって縦横にひび割れていた。それはみずからの黒い罪を知って、深く砕かれ、悔い改める心を象徴するものとなっていた。砕かれた心を神は最も受けいれられると詩編にもある。自分は正しいという思いをつづける者はひび割れていないのであり、魂が砕かれておらず、固くとざされている。それはまた真理に対しても固く戸をしめたままになると言えよう。
第三の石段は、重みのある岩石で、それは血管から血がほとばしるような赤い色、燃えるような色であった。それは、悔い改めにより、赦しを与えられたことに対して、燃えるような喜びと愛を現実の生活にあらわしている様をあらわすものであった。
このようにして一つ一つの石段を上って煉獄の門へとたどりついたのである。
そしてその最上段のところに土色をした衣を着た天使が門の番をしていた。
天使といえば、聖書の一部の記事や有名な画家たちが書いたように、例外なく真っ白とか、うるわしい色をした服を来ているように思いがちであるが、ここでは意外にも地味な土色なのである。
それは、神のみまえに低いへりくだったものだということを示す色であった。煉獄を歩むということは、いたるところでこのように、神の前で低く砕かれたものになるということが示されているのである。
この天使によって、煉獄の門のとびらが開かれるのだが、それは非常に大きい音であった。閉まるときにも同様な耳にとどろく鳴り響きがあった。
なぜこのように煉獄の門がすごい音をたてて開くようになっているのか、それは、それほどに煉獄に入るということは重々しい出来事であるということが暗示されているし、入る人がごく少ないからこのように、大きなきしむ音をたてて開くのである。
煉獄の門を入る、それは悔い改めということと不可分である。一人の魂が悔い改めるとき、天において大いなる喜びがある、と主イエスが言われた。悔い改めは天の国では大いなる出来事であり、この煉獄の門もそのような大きい音をたてることでその重要性をも暗示しているといえよう。
現在も、もし、私たちが霊の目と耳とをすましているならば、人知れず心から悔い改めた魂を目ざとく見出した天の使いたちによって、喜びの声が響き、その人を迎え入れる扉が大きな音をたてて開いていくのを聞き、そして見ることができるであろう。
そしてその大きな扉からなかに入ったダンテは、奥から聖なる歌声が響いてくるのを聞き取った。「神さま、私はあなたをたたえます!」(Te Deum Laudamus (*)
(*)この讃美は古代から有名なもので、アンブロシウス(四世紀の人)がつくったと伝えられてきた。 te (あなたを)人称代名詞の対格。Deum はDeus(神)の対格。laudamus は laudo(讃美する)の一人称複数形(我らは讃美する) 直訳は、「汝、神を 私たちは讃美する…」
悔い改め、神によって立ち上がらせていただき、導かれていく者は、彼方からの聖なる響きを聞くようになる。それは神を讃美する歌声である。神への讃美こそは、人間の究極的なすがたであり、その響きと歌声に接することによって私たちの魂も清めを受けるのにふさわしくされていく。
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人間のあらゆる言動は何らかの「愛」によって動かされている。たいていは間違った愛である。利得や自分自身を愛すること、特定の人間を特別にに大事にすること、飲食物への愛からさまざまの浪費にまでいたること、さらに地位や権力への愛ゆえに、多くの人たちは煉獄の門でなく、地獄の門へと入り込んでいく。
それゆえに、この煉獄篇第十歌において、ダンテは、冒頭にそのことを記している。
「曲がった道も真っ直ぐに見えさせる間違った愛のゆえに、多くの人たちはそれに惑わされ、この煉獄の門にいたることがごく少ない。」
主イエスも命にいたる道は「狭き門」であり、その門を見出すものは少ないと言われた。
塩の柱ー
後を振り向くなかれ
ダンテは、その門を守る者に、へりくだって門を開いて煉獄のなかに入れてくれるようにと乞うた。その門番は、つぎのように言った。
「入れ、だが決して忘れてはならぬことがある。それは後ろをふりかえるものは、再び門の外に出てしまうのだ。」
この言葉のもとになることは、旧約聖書の創世記に、あまりの大きな罪のゆえに、死海の南部にあったとされるソドムとゴモラの町が滅ぼされるときである。 アブラハムのゆえに、かれの親族であったロトとその家族は救い出されることになった。そのとき、天使が、つぎのように命じたことはよく知られている。
「決して後ろを振り返ってはならぬ。もしふりかえるならば、塩の柱になってしまう。」(創世記第19の26)
しかし、それにもかかわらず、ロトの妻はふりかえったために、塩の柱となってしまったと記されている。塩の柱、それは現在の私たちにはまったく非現実なことのようにみえる。
しかし、ダンテがこの険しい崖を天使によって運ばれ、やっとたどりついた煉獄の門の番人に、同様の言葉を語らせていることは、このことがとくにきよめられる道を歩む者として決して忘れてはならないということを示している。
後ろを振り向くと塩の柱となる。それは、塩の柱など見たことのない日本人にとっては、非現実のようでありながら、霊的な意味は深く私たちとかかわっている。
ロトの妻の場合も、天使によって導かれ、逃げる先まで指示され、そのとおりに従えばよかったのであった。ロトの妻はその導きを振り切って裁きを受けている町々の有り様を見ようと後ろを振り返ったのである。
後ろを振り返ることくらい何でもないのではないか、誰でもどこでもなされていることだ、と思う人がほとんどではないだろうか。日常生活において私たちはたしかに何かあると後ろを振り返っている。それは過去の出来事を懐かしむとか、過去に生じた楽しい喜ばしい思い出にふけるとか、また逆に過去に犯した罪を心の痛みをもって、あるいは後悔の情をもって振り返る。そしてどうしてあんなことをしたのか、なぜこんな状態になってしまったのか、といったことを思いだすのである。
そうした過去の罪深い言動、大きな失敗、他人を傷つけ、自分の運命を狂わせたと思う人間へのうらみとか怒り等々、過去のことを振り返っているときには、たしかに私たちは「塩の柱」となってしまう。
魂の大切な部分が固まってしまい、前進できなくなる。枯れたようになってしまうということである。
ダンテも煉獄の門を入り、そこから前進して魂の清めの歩みをしていくものにとって、こうした過去のさまざまのことを振り返ることがいかにふさわしくないか、そのようなことをしていたら、再び前進のできない門外に出されてしまうということを強調したかったのである。
過去の罪や失敗を思いだすたびに、私たちはただちにそうした過ちをすべて赦し、帳消しにしてくださる、主イエスの十字架を仰ぎ、神の憐れみに満ちたみ顔を仰ぎ見るようにしなければならない。
まさに私たちが「塩の柱」と化してしまわないために、主イエスは十字架で死なれたのであった。その十字架を仰ぐだけで、私たちは固まってしまうことから逃れることができる。
十字架で流されたイエスの血がいわば私たちの魂の硬化を防ぎ、固まってしまったものをも、溶かしてしまうからである。
このような厳しい戒めを言い渡されたダンテは、前進していく。しかし、そこは決して広いなめらかな道ではなかった。
「あたかも、引き退いてはまたも寄せてくる波のように、その道は彼方へ、また此方へうねっていた。」ダンテはそのような岩の裂け目をのぼっていったのである。
この描写、これは魂の清めの道、御国への道を歩んでいこうとするものの状況をあらわすものである。じっさい、私たちがキリストを信じ、神を信じて生きていこうとしても、じつにさまざまの方向からその歩みを難しくするような困難、なやみ、思いがけないことが寄せてくる。右からも左からも波のように私たちをのみ込もうとするかのように。
しかし、そこを通っていかねば前進はできない。またそのような狭く困難な道であっても、導きがあるゆえに進んでいくことができる。
主イエスも、次のように言われた。
「滅びにいたる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。
しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか!」(マタイ福音書七・13〜14)
ダンテのこの煉獄篇十歌の描写はまさにこの主イエスの言葉を、ダンテ自身の実感をまじえて書き記されたものだと言えよう。
そのようにして長い時間をかけて苦しみつつ歩んだダンテと導きをするウェルギリウスの二人はようやく、煉獄の清めを受けている台地へとたどりついた。
そこでまずダンテが驚いたのは、いかにも静かで、誰一人いない、荒野の道よりもなお寂しい平地であった。狭く細い道、そしてそのあとにあるのがこのように寂しい台地であったということ、ここにもこの道を歩む人がきわめて少ないということを象徴的に意味している。
これはまた私たちの実感でもある。時折大阪、東京などの都会に出ることがある。そこではぎっしりとビルが立ち並び、そこにはすべてたくさんの人たちが仕事をしている。電車は次々と驚くばかりの多数の人たちを乗せて走っている。
しかし、そうした数知れない人々のいったいどれほどが、この神の国への道、主イエスの十字架の血により、また聖なる霊による導きの歩みを知っているだろうか。
目には見えない世界のありさまを思い浮かべるとき、たしかにダンテが言っているように、砂漠の道のように、閑散としている。この世の道路には車があふれている。人間は無数にいる。しかし御国への道は、歩いている人が見当たらないほどに霊的な砂漠なのである。
そうした平地は煉獄の山を環状に取り囲む台地なのである。
マリアの特質 ー主に仕える
そこでダンテがつぎに気付いたことは、山側の崖には、魂を引きつける彫刻がなされていたのである。まずダンテが気付いたのは、マリアの姿であった。そして彼女に、御子イエスの誕生を告げた天使の姿がそこにあった。それは生きているように彫られていたために、マリアに語りかけている言葉が聞こえてくると感じられたほどであった。そして、マリアの言葉としては、「私は、主のはしためです。」(*)というひと言が明瞭に彫られてあった。
(*)原文のギリシャ語は イドゥー・ ヘー・ ドゥーレー ・キュリウー idou he doulhe kuriou であり、直訳すれば、「見よ、つかえ女を 主の」となる。これは、「私は、本当に主に仕える者なのです。」といった強調のニュアンスがある。 ドゥーレーとは、ドゥーロス(奴隷、僕)の女性形なので、女奴隷という意味をもっている。英語訳のうち、原文の表現に近い訳をあげる。
Behold the maidservant of the Lord! (NKJV)
煉獄の門を入り、細くて左右から波のようにさまざまの妨げのようなもののある道を進んで、ようやくたどりついたこの煉獄の最初の台地、そこでまず見たのが、このマリアと、彼女に御子の誕生を告げる天使であったということ、それは何を意味するのであろうか。
マリアはイエスの母という特別な選びを受けた女性であった。今日まで世界で最もその名を知られた女性はいうまでもなくマリアである。
しかし、そのマリアの特質を一言にして言えば、それは主に全面的に仕える、主の奴隷のように主から言われたことに忠実に従うということであった。
そこにこそ、人間がずっと見続けているべき姿があった。また天使からの喜びの知らせ(祝福)を受けるにふさわしいのはそうした心の状態だというのである。
このマリアの自らを主のしもべとして全面的に仕えようとする魂の姿勢を見つめるとき、その背後にいます主(神)をも見つめることになる。
単に謙虚さにおいて模範的な人間をみるというのではない。真に御前にへりくだった人間と接しているとき、私たちもまた、その人がいつも見つめている主を見つめずにはいられなくなる。まちがった模範は、その人間を見つめさせようとするのに対して、本当に模範となる人物は、その人間を通して、いわば透かし絵のように、背後の神がまざまざと見えてくるようになる。
その点では、清さや美しさという点で完全な模範となる、一部の野草の花のすがた、色合いなど、それはそれを見つめるときには、そうした清らかなものを創造された神の無限に清いお心が浮かんでくるのと同様である。
ダビデの喜びと王妃の嘲り
ー神のみを見つめる心
次いでそこに刻まれていたのは、ダビデの神の箱の前で讃美しつつ踊る姿であった。
神の箱とは、神の言葉をおさめた箱であり、旧約聖書の時代に最も重要視されていた。
敵に奪われさまざまのいきさつを経てようやくその神の箱がエルサレムの町に帰って来たことを、ダビデ王は非常に喜んだ。
それは、神が近くに共にいてくださること、神の言葉が民族の中心の場所に置かれていることを何より喜びとする姿勢があった。
その喜びと讃美の心を、主の前で、からだ全体で表さずにはいられずに、ダビデは力のかぎり踊った。
(サムエル記下六章)
それはダビデの妃から見れば、じつにくだらないこと、恥知らずなこととしてしか受けとれなかった。
それゆえにダビデが家に帰ったときに、口にしたのは、そのようなダビデを見下した言葉、王にまったくふさわしくないという非難の言葉であった。
それは、神を見つめていない心ゆえそのようなことを言ったのである。真の謙遜とは、ただ神だけを見つめ、人間を見ないことである。神の御前に幼な子のような心でその喜びや感謝を表すこと、そしてただ神の語りかけだけに耳を傾ける姿勢なのである。
神のみを見つめる心、それは父である神を見つめるのだから、そのような心があれば、おのずから子供のようになる。
主イエスが幼な子のような心でなければ神の国に入ることができない、といわれたが、それは真の謙遜とはどのようなものかを言われたのであった。
ダンテは、このダビデのすがたを「王以上、かつ王以下」といった特異な表現で記している。王以上というのは、そのように人々とともに喜び踊るほどに、神だけを見つめていたという点である。王以下というのは、ふつうの人間の目から見れば、はしたない姿であり、およそ王としての威厳もない、ということであったからである。
人間を見つめる心は、人間のなかで敬われたいという心とつながる。ダビデの妃は、王妃として敬われたいという強い願望が心にあったゆえに、自分がいわば王になりたいといった心情になっていたのである。
王の妃ということで周囲の者たちがみな最大級の敬意を払うゆえに、いつのまにか、神を忘れ、自分が敬われるのがあたりまえと思い込んでしまったのである。
煉獄篇のこの台地に、神の前で踊って讃美するダビデとそれを見下す王妃のふたつが並べて刻まれていたのは、神をわすれた高ぶりと、神だけを見つめて王であるということを意識もしないほどになっている謙遜が対比されるためなのであった。
このようなことは、聖書の人物の特質だと言えよう。
主イエスの低さと高さ
主イエスは、最後の夕食のまえに、弟子たちの足を洗ったが、そうしたことは、奴隷がする仕事であった。鞭打たれ、あざけられ、つばをはきかけられ、はりつけの刑にされるということは、最も重い犯罪人が受けることであった。
他方、そのような辱めを受けたあと、復活し、神と同質の存在として天に帰られたということは、人間をはるかに越える神の子としての姿であった。
それはまさしく人間の最低のところを歩まれたのであるが、他方、人間には不可能な万人の罪を赦し、死に勝利するという神のわざをなしとげ、天の高みへと帰られたのであった。
ダンテはこのような、神のまえに低くされ幼な子のような心もて神を見つめる姿勢が彫り込まれた山の壁面を見つめていた。
そのとき、人影もなかった煉獄の台地を向こうから重い石を背負ってからだを深くかがめて、胸を打ちながら進んでくる人たちが見えてきた。彼らは生前の傲慢が罰せられているのである。人々の前で高ぶった態度をとってきたゆえに、それが矯正されるために、重い石でからだが真っ直ぐはできないほどなのである。
ここでダンテは、この書を読む者たちに呼びかける。
「読者よ、彼らが罰を受けて苦しむ姿をみて、そこに心をとどめてはならぬ。そのような苦しみのあとに何がくるかを思え。」
神の国へのはっきりとした道を、清めを受けつつ歩む者は、途中でいかに苦しい目に遭おうとも、そのあとにくるものを見つめよ、というのである。
悪をなして最後まで悔い改めなかった魂は地獄で苦しめられていた。そしてその苦しみのあとには全く希望がなかった。
しかし、煉獄において、御国への道においてはいかに困難や苦しいことがあろうとも、必ずそのあとにはよきことがひかえているというのである。
苦しみそのものは、信仰をもっている人も持たない人にもしばしば同じように襲ってくる。
しかし、信仰ある人と、そうでない人とでは、そのあとに来るものが全くことなるのである。
そして次いでダンテは当時の人たちに呼びかけて言う。
「おお、心たかぶっているキリスト者たちよ、心の目を病んでいるがゆえに、後ずさりしつつも意気揚々としている、痛ましくも疲れ衰えた人たちよ。」
高ぶった心は、まわりの者を見下し、自分をえらいとするものであるとし、人より進んでいると錯覚している。しかしじっさいはその高慢ゆえに、後ずさりしているにすぎないのだという興味深い表現となっている。
低くするものが先になり、高ぶるものがあとになっていくのである。
@特別伝道集会
ー東京から 小舘 美彦、知子ご夫妻を迎えて
日時 8月17日(日)午前10時30分〜14時30分
主日礼拝
・聖書講話 小舘美彦、
小舘知子
1,主題「ペテロに学ぶ私たちの生き方」
2,(聖書箇所)マタイによる福音書二十六章31ー35、69ー75
3,賛美
4,小舘美彦プロフィール
春風学寮寮長、拓殖大学講師。子どもを亡くしたことをきっかけとして十字架のキリストと出会い、信仰へ導かれる。
5,知子プロフィール
春風学寮寮母、キリスト教独立伝道会事務局
〇昼食は、講師以外は、各自が簡易弁当、サンドウィッチなど購入あるいは手作りで持参してください。
なお、弁当に関してそれが何らかの事情で難しい方は、事前に 吉村まで申込していただくと、サンドウィッチ、おにぎりなどの簡易な昼食を用意できます。お茶は集会所にあります。
第13回 祈りの友・合同集会
・日時…9月23日 火曜日
(休日)
午前11時〜午後4時
・開会礼拝 吉村孝雄
聖書からの祈りに関してのメッセージ
那須 佳子 他
昼食
参加者の自己紹介と感話、祈りの課題など
午後三時の祈り
この「祈りの友・合同集会」の前身は、「祈りの友」の四国グループ集会で、私が初めて参加したのは、愛媛県の南部、宇和島からさらにローカル列車で行ったところの教会で行なわれた集会でした。
今回の合同集会は、四国グループ集会の時からの通算では第29回となり、この間、多くの方々が祈りを通して超教派でつどって祈りを合わせ、御国がきますようにと、個々の方々の抱えた祈りの課題を覚えあって、そこに主がともにいて導いてくださったのを思い、感謝です。
主日礼拝 毎週日曜日 午前10時30分から。徳島市南田宮1丁目の集会所とオンライン併用。
以下は、天宝堂集会と、第四火曜日の北島集会は対面とオンライン併用。海陽集会はオンライン(スカイプによる)集会。参加希望の方は、左記奥付の吉村まで連絡ください。
〇 夕拝…毎月第一、第三火曜日夜7時30分〜9時
〇 家庭集会
@ 天宝堂集会…毎月第二金曜日 午後8時〜9時30分
A 北島集会…・戸川宅にて(対面とオンライン併用) 第四火曜日13時〜14時半
・第二月曜日 午後1時〜
B 海陽集会…毎月第二火曜日 午前10時〜12時