「いのちの水」 2025年7月号  773

地震の後に火があった。しかし主は火の中にはおられなかった。

火の後に、静かなる細き声があった。 (旧約聖書 列王記上 1912節)

 

目次

花のイラスト

本当の平和への道

・イエスの言葉とガンジー

      静かなる細き声

神とキリストの真実
集会案内

 

 


リストボタン本当の平和への道

ーイエスのことばとガンジー

 

 近年、ウクライナとロシアの戦争が生じてから、現在もその継続中であり、さらにイスラエルとハマスの戦争も勃発し、またイランとイスラエル、アメリカなどの状況も今後どうなるのか、だれも正確な予想はたてられない状況にある。

 こうしたとき、世界の人々の共通の願いは、平和 ということである。

 それに対して、最も人々の深い心に響く真理は、政治家や活動家、また学者…等々のことばにはみられず、二千年前のイエスのことばこそが、あらゆる人間の本質を見抜いた上での真理であり続けてきた。

 そして、それを政治、社会的な問題しかも何億もの人間がいる広大な国の複雑な状況にも、そのイエスのことばを根底において祈り、語り、また実行していったのが、ガンジーだった。

 そのガンジーのことばを次にあげ、ガンジーその人の語り方が少しでもつたわるようにと、原文も添えた。

 そして、そのもとにあるイエスのことばとその意味なども添えた。

 

本当の幸福

 

 いわゆる不幸は本当の不幸ではなく、いわゆる富も本当の富ではない。

神を忘れること(あるいは否定すること)こそが真の不幸であり、

神を覚えていること(あるいは神への信仰)こそが真の富である。

 

Misary so-called is no misery nor riches so-called riches.

Fogetting or denying God is the true misery,

 remembering or faith in God is true riches God.

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 本当の宝については、イエスもたとえで語られた。

…天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。

 また、次のようにもたとえられる。商人が良い真珠を探している。

高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。 (マタイ134446

 

 これは愛と真実の神、その神が私たち一人一人を見守り、ただ信じるだけで、この世から与えられるいかなる宝にも比較にならない良きものを与えられるということが、だれでもわかることばで語られている。

 この世の宝ーそのなかには、家庭の健全、健康、等々のような、だれもが最も願う幸福を含む。

 しかし、イエスは、そうしたことにはるかにまさる…幸い、祝福が天の国(神の国)にあり、それが与えられることを述べている。

 その天の国には、神の完全な愛や真実、また永遠性、清さ、美…といったものを含むがそれらは、神のものゆえ、地上のいかなるよきことも到底及ばないということなのである。

 健康とかよい家庭また経済的安定、…等々は、だれもが望むことであろう。

 しかし、それらの致命的弱点というのがある。

 それはじつに容易に、また突然に失われるということである。

 いかに自分で努力しようとも事故や、家族の不和が生じ゜また、職業なども失われることが生じる。

 それに対して、神の国のよきものー神がもっている決して変質しない真実や愛、また導き、生きる力…等々から与えられるものは、病気や事故があろうとも、また、戦争といったあらゆる悲劇が生じるような状況にあってさえ、その神の国の幸いを持ち続けた人たちがいたことは、それらの歴史的証言集(とくに、第二次世界大戦のときの「ドイツの戦没学生の手紙」)によってもわかる。(この具体的内容については、別の機会に掲載を予定。)

 そして私たちのキリスト集会にも属していた方のように大学病院の医者の誤診によって、学生時代にALS と誤診され、そのため適切な医療がなされず、大学も中退、生涯寝たきりとなり、首から下はいっさいマヒ、ことばも出ず、人工呼吸器によってのみ生きるというような状況となった。

 そして7年ほどもその言葉も出せず、その医者への憎しみや死のうとしても手足も動かないので食物を断とうとしたがそれはどうしても苦しくなってできなかった…そのようなまったくの絶望的闇のなかでいたが、キリストの福音を知らされて、そのような恐るべき闇と憎しみ、自殺への願い…等々から解放され、またことばも特別な方法で非常なくるしい長期にわたる訓練で発声できるようになった。そこから、キリストの福音、神の国が与えられるということによって、心に平安や喜びが与えられ、私たちのキリスト集会の人たちによって、病床での集会もはじめられ、さらに、コロナ以前からオンラインでの日曜日の主日礼拝も彼のためにはじめるようになり、以後ずっと参加されるようになり、…そのような重い障がいを持ちつつも、首の動きや息を吹く…といった動作で前方につけたセンサーも用いてパソコンも使えるようになり、また、それを用いて、日本で用いられているキリスト教賛美を次々と演奏できて伴奏にできるデータ作成を はじめられ、10数年かけて、讃美歌、讃美歌21、聖歌、新聖歌、リビングプレイズ、友よ歌おう、教会福音讃美歌、プレイズ&ワーシップ、英語讃美歌集、…等々、1万曲を越えるキリスト教賛美をMIDIデータとしてつくり、それを我々の日曜日や各地での家庭集会でも使えるようになるという大きな奉仕を寝たきり、首から下はまったく動かないというきわめて不自由な状況でなされたのだった。

 そして病室を訪れたさいも、笑顔で話し、また讃美歌も次々と希望されてともに歌うという状況と変えられたのだった。

 それは、まったく普通の楽しみー健康や家庭、自由な生活、…あらゆる人間的な希望や当然のこととして大多数の人たちが享受しているものを失ってもなお、喜びや生きる力が与えられたという、現実の身近な証しとなったのだった。

 そのようにこの世の楽しみなどがいっさい失われても、なお、否さらに深い喜びが与えられるということは、まさにキリストのことばのように、この世のいかなる宝にも増して人間の本質にかかわる喜びや平安であったことがわかる。

 そしてこのようなこの世のものが与える幸いなどとは全くことなる平安や力を与えられるということは、私たちのキリスト集会の会員には全盲や聴覚障がい者、また病弱の人、結核で若きときから死に至るまで入院生活を続けていた方々もあった。

 その方は、若き日から、結核療養所でいたがそのときにキリストの福音を信じるようになられた。

 そのような状況であってなお、魂の平安をもっておられたことを、そこに召されるときまで 私は、私どもの集会の人とともに月に一度は訪ねていたのでよく知ることができたのだった。

 そうした方々にあっては、たしかにその受けた恵みの深さなどはそれぞれに異なるとはいえ、この世の楽しみや幸いなどとはまったく別の天の国の宝を与えられていたことを知らされてきた。

 

 

静かなる細き声

 

 ガンジーは、戦前から戦後にかけて、トルストイのとくにマタイ福音書に基づく平和の思想に決定的影響を受けて、そこから、非暴力の戦いを死を賭して貫いたの 彼は、次のように述べている。

 

…新約聖書の、特に山上の垂訓(マタイ福音書五章〜七章)は、私の心に直接に通じるものがあった。…

 このような態度は、宗教の最高のあり方として、非常に強く私の心に訴えるものがあった。…

 トルストイの著作「神の国は汝らの内にあり」(*)は、私をとりわけ惹きつけた。それは私に永久的な印象を残した。」

(「ガンジー」89頁、131頁 スタンレー・ジョーンズ著 一九五五年刊)

 

*)この著作は、トルストイ全集 第15巻 宗教論(下)に収録されている240頁ほどの長い論文、河出書房新社 1974年発行。

 

 そのガンジーの驚くべき力はどこにその源泉があったか。彼は次のように書いている。

 

…私が強く信じていることは、神は毎日すべての人間にご自身を啓示しているということである。

しかし、私たちはその「静かなる細き声」に耳を閉ざしているのである。(*

 

* My firm belief is that He reveals Himself daily to every human being but we shut our ears to the 'still small voice.'Young India-May 25, 1921) 「見えざる力」5P(「THE UNSEEN POWER INDIAN PRINTING WORKS  LAHORE 19455月発行)

 

 この原書は、いまから50年近く前に、購入したもので、ガンジーの肉声がうかがわれるので、私にとって貴重な書となった。

 この聖句は、私自身が、矢内原忠雄のキリスト教の本で十字架のあがないの信仰を突然与えられたのち、その大きな内面の変化を受けてさまざまの思いをもって、京都の東山の疎水べり(「哲学の道」)のサクラの木にもたれて 夜の京都市外を見つめつつ黙想していたとき、初めて その「静かなる細き声」を感じたことは、私にとって今日に至るまで、信仰の根本にあり続けている。

 そして その少し後に大学食堂で見いだしたのが、このタイトルの講演会だった。

 それは、矢内原忠雄記念講演会 であって、講師は、 理学部教授 富田和久「静かなる細き声」…とあった。そのような不思議なことがあったので、初めてのキリスト教に関する講演会に参加したのだった。

 それが無教会の北白川集会に加わることにもつながり、今日まで無教会という流れのなかにあって、さまざまの恵みを受けてきた。

 

  ガンジーが引用したのは、旧約聖書の列王記上1912であり、この短い聖句のなかに、彼の力の源泉がわかる。この引用した文は、パキスタンの大都市ラホールで出版されたこの書の本文の冒頭におかれていることも、ガンジーにおけるこの聖句の重要性からである。 それは祈りの内に啓示される神からの静かなる細き声に聞くという単純なことが彼の力の源であり、同時に、非暴力で闘う力も与えられたのだった。

 このような力を与えられる道は、暴力、軍事力とは全く対照的な静かな、なんの武力も権力をも必要としない道であり、しかも本来、万人に与えられていることである。 

 


 

リストボタン神とキリストの真実

 

 この世において、人間は実に偽り多い。考える能力も、その視野も、また時代や周囲の制約もあり、また、健康なとき、病気で重くなったとき…そうしたときに、同じ人間でも実に考えや感じることが変化しやすい。

 意図的に偽りを言うことも、最近ではインターネットを通じて無数の言説が発信されているが、そのようなことはごく最近のことで、かつては、そうした偽りの情報のようなものを発信して多くの人が信じるのは、特別の権力者しかできなかった。かつてのヒトラーや日本の戦前の天皇、軍部や政府高官たちも、まちがった言説を公表することから免れなかった。

 学識あり、また有名人であっても、学者であっても、さらに経験豊かであっても、なお、人間は無限に広がるこの世界、自分や個々の人々の心に浮かぶ無限の多様性をもった状況に対して真実を常に洞察し、語るなど到底できない。

 そのような中で、ただ一つ存在だけが、どこまでも真実な存在といえる。

 それが、天地万物を創造し、かつ無限の深さをたたえているその愛や真実、清さ、美…等々をもっている神である。

 その神が私たちの魂の奥深くにきてくださるとき、そのようなものは存在しないとかそんなことは、単にその宗教にかぶれているのだとか特異な精神状態になるからそんなことを言うのだ…等々の反論などいっさいを越えて、神様の真実を実感できるようになる。

 そしてその神様の真実は、信仰を与えられて60年ほどを経てもなお、私はいっそうそのことの深い意味をその間の体験とともに知らされてきた。

 

 次の詩は、水野源三(19371984年)のもので、彼は、幼くして、熱病にかかり、声も出せなくなり、見ることと聞くこと以外はできなくなって 寝たきりの生活となった。

 そのような毎日が縛られた状態であり、大いなる不幸であり、どこにも喜びもありえないような状況だと一般的には思われるであろう。

 しかし、彼の書いた詩には、そのようて苦しみ呻き、悲しむといった詩でなく、神様への感謝と喜びが、健康で多くの仕事をこなしている人よりはるかに深い魂の喜びを日々感じているのをはっきりとうかがわせるものが数々みられる。

 

神様の真実はかわらない

 

 来る年も来る年も

  さわやかな初夏には

 スズランの花が咲くように

 神様の真実は変わらない

 神様の真実は変わらない

 

 来る年も来る年も

  澄み渡る秋には

 リンドウの花が咲くように

 神様の真実は変わらない

 神様の真実は変わらない

 

 花のとき過ぎゆき、

  人のこころ移り

 約束を忘れ去るとも

 神様の真実は変わらない

 

 

有難う

 

 何度も有難うと声に出して

 言いたいと思い

 今日も日暮れぬ

 

 

主のいつくしみが

 

 主のいつくしみが

 深く深く思われる

 主の慰めが

 強く強く感じられる

 悲しみが心に満ちるとき

 主の恵みが

 溢れるように感じられる

 

 

もしも私が苦しまなかったら

 

 もしも私が苦しまなかったら

 神様の愛を知らなかった

 もしも多くの兄弟姉妹が苦 しまなかったら

 神様の愛は伝えられなかった

 もしも主イエス様が苦しま なかったら

 神様の愛は現れなかった

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 車もまだ一般的でなかった田舎で、毎日が狭い和室の中であっても、このような清い喜びが与えられていたという事実を知って、神様の真実、その愛が実感されてくる。

 ローマ帝国時代の迫害を受けて乳児を持つ若い女性が捕らえられ。尋問された。

「もしお前がキリスト者だというのを否定したらそれでいっさい拷問もなく、お前の赤ちゃんとも平和な家庭を続けられる。両親も喜ぶぞ…」と繰り返し言われた。

 しかし、その年若き女性は、それを決然と拒否して「私はキリスト者です。今まで長い間、主によって愛を受け、導かれてきた。そのような愛の神が必ず、わが子や両親をも導いてくださいます。」と確信をもって語ったのだった。

 このような 二つの状況にみられるように、前者は現代、後者は二千年近くも昔であっても、そこには共通のことがある。

 それは神様(主イエス)が、限りなく真実であり、その真実からあふれでる神の愛である。

その真実と愛によって水野源三や 迫害を受けた女性たちが、安楽な生活を受けているいかなる人にも勝って魂に喜び、平安(平和)を受けていたのがうかがえる。

 このように、苦難や絶望、逃れの道なきような圧迫…等々がいかに押し寄せてこようとも、大いなる防波堤というべきものが、こうした人たちには与えられていたのがわかる。

 その防波堤とは活けるキリスト、いまもなお、二千年前と同じく心から信じて歩むときには現れて、私たちにその何にも代えがたい平安や喜びを与えてくださる。

 

 この神様の真実ということ、ヘブル語では「真実」は、エムーナ、あるいはエメス である。これは祈りや讃美歌のあとでよく用いられている、アーメンと同じ語源である。

 アーメンというと、日本人にとっては大多数が無縁であり、無意味なことばとなっている。

 しかし、全世界を通して古代から、もっとも多く使われてきたことばの一つといえよう。

 祈りは世界中でなされ、賛美も歌われているからで、それらの終わりに、アーメンと祈り、賛美するからである。

 そのアーメンということばは、真実 という意味をもっているゆえに、福音書でもしばしば現れるが、とくにヨハネ福音書では、イエスが繰り返し言われ、しかも二回繰り返してよく知られているが、重要なことを話すときなどに用いている。

 しかし、これは新共同訳の日本語聖書では、本来の意味の「真実」ということばとは意味の異なる 「はっきり」 と訳されているために、このことばを用いるときには、特別に重要なことを言っているということがわからなくなっている。

 こうしたイエスのことばは、「はっきり」 ということばの意味する明瞭性でなく、真理を告げているのである。 はっきりというのは例えば、学校などで教師の質問に うまくこたえられないとか小声でぼそぼそ 言ったりするとき、はっきり言いなさい と叱られるときのように、日常のたいしたことでないことでも よく使われることばにすぎない。

 しかし、この個所の原語の アーメン、アーメンとは 旧約聖書以来、とても重要なことばであることは、例えば次のようなイザヤ書での使用例を参照するとただちに判明する。

 

…この地で祝福される人は、

真実の神によって祝福され、

この地で誓う人は真実の神によって誓う。

初めからの苦しみは忘れられる。(イザヤ書 6516

 

ここで真実と訳され繰り返し用いられている原語(ヘブル語)が「アーメン」なのである。

 この個所は、そのすぐあとに、「新しい天と地の創造」という、黙示録にもあらわれる重要な内容の導入となっていて、一定の具体的な時間のさきに生じることを意味しているという以上に、真実の神であればこそ、弱き罪深き人間にたいしても、それを赦しかれらの魂の奥深きに全く新しい霊的世界を開くのだということも暗示されている。

 イエスが、心の深い部分において誇ることなく十分の弱さ、醜さを知っているものには、神の国が与えられる、それゆえに祝福された人となる と言っている。

 そしてこのイザヤ書の アーメンなる神 という表現そのものが、黙示録に引用されている。

 

…アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が、次のように言われる。

       (黙示録 3の14

 

この個所では、神のことを、まず アーメン(真実)、そして、ピストス(真実)、アレーセース(真実)と、3種類の真実ということばを重ねて言っている。

 この黙示録の著者が、神の本質をいかに深く真実そのものだと 体験、そして啓示されていたかを示すものとなっている。

 

…はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。(ヨハネ 6の47

 

 このようなヨハネ福音書で繰り返し現れる原文の表現は、単に明瞭度を意味する 「はっきり」ではない。意味が異なるからである。

 

…「まことにまことに汝らに告ぐ、信ずる者は永遠の生命を有つなり。」

 このように文語訳では、原文の アーメンが二度繰り返し言われていることを 「まことに、まことに 」と訳して、正確に訳に反映させているので、原文でのイエスのことばに込められた真実性を強調するその力がつたわってくる。

 このように、新しい訳だからといって その訳が常によいとは限らない。

 英文でも次のようになっている。はじめの二つは アメリカのプロテスタント英訳の代表的なもので、その次のは、カトリックの代表的な英訳。

 

Very truly I tell you NIV,NRS  非常に真実に 私はあなた方に言う

 

In all truth  I tell you  NJB) 完全な真理をもって 私はあなた方に言う

 

 このように、訳文も原文のイエスの アーメン、アーメンの意味を汲み取って訳している。

 これらを併置することで、いっそう 日本語の新共同訳が 「はっきり」などと訳しているのが、いかに重みを感じさせない訳になっているかが浮かび上がる。

 

 …はっきり(アーメン、アーメン)言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。(ヨハネ1620

 

 これは、彼らの師であったイエスは、十字架での刑死となるが、その三日後には、復活して永遠の活けるキリスト、聖霊となり、弟子たちにまったく新しい力が与えられ、命がけで福音伝道に生きるようになる。

 そのような新しく生まれ変わるのだという重要なことを言われている。

 このような重要なことを語るゆえに、アーメン、アーメンと繰り返して語り、真実を、真実を込めて言う というイエスの強い意志が感じられる。

 


 

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