いのちの水 2025年年 5月月号 第771号
キリストがすべてであり、 すべてのものの内におられる。 (コロサイ書3の11より) |
目次
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・編集だより 独立学園から水族館へ (来信より) 村上龍男 |
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・報告 近畿無教会キリスト教集会 |
あなたは私を見たので信じたのか。
幸いなのは、見ずして信じる者。(ヨハネ20の29より)
この聖句は、ヨハネ福音書の最後の部分にある。ほかの弟子たちが、復活したイエスに出会ったと証言しても、弟子トマスは、その手に触れてじっさいに十字架に付けられたイエスだと確認しないかぎり、復活など信じないと言い張っていた。
そこにイエスが入ってこられて、手などに触れさせた。そして、イエスは言われた。「信じない者にならないで、信じる者になれ」と。
そのイエスに触れ、直接にイエスからの言葉をうけて、初めてトマスは、イエスは神だ、と大いなる霊的飛躍をして信じるに至った。
そしてそのあとで、イエスが言われたのが、今日の御言葉である。
これは、昔の疑い深いトマスという弟子に言われた言葉だ、現代の私たちとは、復活のイエスの手に触れるなどないから関係がないと思いがちである。
しかし、ヨハネ福音書はとくに、当時のことを述べていても、それは じつは、それ以後の人間全体にあてはまることが言われているということが実に多い。
何か見える証拠を見てから、神にかかわることーイエスが神の子すなわち神の本質と同じ御方であること、復活や、神の愛、真理、神の正義、…等々を信じるのか、それとも、そうしたことの証拠を見ないで信じるのかが問われている。
ヨハネ福音書の最後の部分にこのことがトマスを用いて強調されているが、それはそのまま現代の私たちへの強調の言葉となっている。
すでに、イエスよりも千数百年をこえる昔、アブラハムは、神からの呼びかけを受けて、遠い異国ーカナンの地へと行くように命じられた。それが神の言葉であり、必ず祝福の道だと信じてアブラハムは旅立った。
目的地がたしかにすばらしいところだ、乳と蜜の流れる祝福地であるということの具体的な証拠を見たとか経験したとかいうのでなく、「見ないで信じた」のだった。
そのことから、世界に大いなる祝福の種が蒔かれることになった。
まだ見ていないこと、 望んでいる事柄を確信すること、ーそれが信仰であると、ヘブル書11章の最初に書かれている。
自分は今後どうなるのか、死んだら消えてしまうのか、自分の犯してきた心の罪、言動の罪はどうなるのか、この世に深く巣くう悪はどうなるのか、この世界は最終的にどうなるのか、永遠の真理などあるのか…等々についてだれもまず証拠を見てから信じることはできない。
神の愛が万事をよくされる、ということを、見ないで信じるかどうかが問われている。
この世界には、毎日のニュースを見てもわかるように、暗い気持ちになることが実に多い。戦争、災害、犯罪、虚偽、…等々。
しかし、そうしたいわば悪しき風がふきつのるような状況のただなかで、目に見えない世界においては、全くこの世とは異なる神からの風が吹き続け、また魂をうるおすいのちの水が流れているのに気づかされる。
このことは、2千頁をこえる聖書の全体にわたって 記されているが、その冒頭から、このことが見られる。
第一章の最初には、まったくの闇と空虚の中に、聖なる風(*)が吹き続け、またそこに 光あれ!との神の言葉により、光が生じたことが記されている。
(*)「霊が動いていた」などと訳されてきたが、霊 と訳された原語ルーァハ は、すぐあと創世記の3章の8節では、「風の吹くころ」として 「風」と訳されていることからわかるように、風というのが元の意味であり、人間も息というある種の風を出しているから、息とも訳され、それがなくなると、死ぬので、人間を支えているものとして、 中国語で 霊 と訳され、その中国語訳の聖書が最初の日本語訳聖書の作成のとき、多く参考とされたので、日本語訳でも霊という訳語が採用された。
第二章には、それと別の創造に関する啓示が次のように記されている。
…地上には 神が雨を降らさなかったため、野の草や木も生えていなかった。
しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤していた。…
主はエデンの地に園を造り、人をそこに置いた。…
エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで別れて、四つの川となっていた。…第三の川は、チグリスで、第四の川はユーフラテスであった。 (創世記2の4〜14より)
このように、創世記の最初の部分の内容は、神話的な記述から、現代の私たちには何の関係もないと思われることが多い。
しかし、創世記の1〜4章には、古代の国々に見られる神話とは根本的に異なる永遠性のある、かつ新約聖書のキリストを指し示す個所が多く含まれている。
キリストへの信仰が与えられたときから、この世には目には見えない 霊的な泉というべきものがあり、その泉から水がわき上がっているということに目が開かれる。信仰がずっと続いてきた人々は、この泉からいのちの水を汲みつづけてきたからこそ、信仰が続いてきたのである。
そして、そのことは、はるかな昔に神がきわめて少数の人に啓示されたことだった。
すでに述べたように、世界がいかに混乱と砂漠のような渇ききった死の大地のようであっても 、神は全能であるゆえに、そこに泉を湧きあふれさせることができる。
この世の享楽、さまざまの娯楽などは、みな何か渇いているからそれを一時的に忘れようとして、またその享楽が渇いた何もないところを一時的に埋めてくれるように感じさせるゆえになされている。
聖書においては、人間の根本的な渇きを深く見抜き、その渇きを癒す道を、はるか二千数百年昔から啓示してきたのだった。
聖書の民が生きていた地域は、砂漠地帯がすぐそばにあり、イスラエル南部は広大な砂漠がひろがっているが、首都エルサレムの東方にも沙漠がある。それは、ユダ沙漠といわれ、死海のすぐ西側にひろがり、東西20キロ、南北で80キロ余の砂漠である。
私自身、30年程以前にエジプトからシナイ半島、シナイ山に登り、そこからカデシ・バルネアを経てツインの砂漠地帯、死海南端からガリラヤ湖へと向い、エルサレムの各地の遺跡なども見ることができた。
そこで、強い印象に残ったのは、イスラエルやその周辺の地域での風土が、日本とはまったく対照的だということだった。知識として知ってはいたが、実際に現地に行って、そのことが実際に生死を分かつ重要性をもつほどのことだと知らされた。聖書の民の生活していた地域では、5月から10月が乾季で徹底して雨が降らず、わずか数ミリという。日本では、至るところの山野で、水が流れていて、台風や梅雨のころなど、1日で数百ミリも降ることがある。
そのような乾燥地域であればこそ、そこには、日本とは比較にならないほどの切実な願いのこもった水への気持ちが生じる。
このことは、目に見えない世界における霊的な水への渇きの強さともつながっている。
神は、こうした水への激しい渇きが現実に存在する中で生きる厳しい自然環境のなかで、万人が本来もっている霊的な渇きを重ね合わせ、その根本的な渇きを癒す道を啓示したのだった。
それゆえに、聖書には、荒野における水、また岩からの水 という内容が繰り返し現れてくる。
… 彼らは飢えることなく、渇くこともない。太陽も熱風も彼らを打つことはない。
憐れみ深い方が彼らを導き、湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる。(イザヤ書 49の10)
・砂漠では、日中では、太陽や熱風が死にいたらせるほどでもあるが、そのようなただ中であっても、神は泉へと導かれる。そこに神の愛があるとの実感がこのようなことばにある。
…私(神)は不毛の高原に川を流し、
谷間の野に泉を湧きださせる。
渇いた地を水の源とする 。 (イザヤ書41の18)
・不毛の高原とはすなわち砂漠であり、それにもかかわらず、そこに水の流れを起こし、泉を湧き上がらせる。
これも、そうした自然の風土にあってもおどろくべき導きがあることを示すが、霊的には渇ききって死ぬほどの状況にあってもなお、そこに全能の神ゆえに泉を湧き上がらせて、死んでしまうような状況から救いだす神の力を指し示したことばである。
また次の詩編の中でも最も知られ、また愛されてきた詩もこのことを示している。
…主はわが牧者
我には乏しきことはない。
主は 私を緑の牧場に伏させ、
憩いの水のほとりに伴ってくださる。(詩編23より)
・全能の神への信仰により、神は自分を導く牧者となってくださる。そのときには、この不正や混乱に満ちたこの世にあってなお、「乏しきことはない」といえるほどに深い魂の満たしを与えてくださるという実体験がここにある。
そして、緑の牧場での牧草にあたるのは、命のパン、神の言葉であり、憩いの水際にて、いのちの水を飲んで活かされ、魂の渇きを癒し、深い満足を与えてくださるーこのような現在の私たちにとってそのまま重要なことがすでに三千年ほども昔に啓示されていたのに驚かされる。
現在のAI中心のようにさえ見える世界にあって、そうした科学技術は、魂の飢え渇きを満たすどころか、かえってAIにおいてデータ中心となるゆえに、データ化できない魂の飢え渇きはいっそう深まりつつある。
数値として扱うことのできる世界ばかりを日々凝視するーそれこそ霊的な砂漠である。
聖書の世界の永遠性は、そうした数値化できない愛と真実の神の本質を全面に人類に指し示してきたことにあり、現実にそのことは無数の人間によって証しされてきた。
…主は常にあなたを導き、
焼けつく地であなたの渇きをいやし、
骨に力を与えてくださる。あなたは潤された園、
水の涸れない泉となる。(イザヤ書58の11)
・ここでも、導きの神ゆえに、砂漠地帯のただなかであっても、魂の深い満たしを与えられるという経験がここにあるし、同時にその経験を深く味わっている魂の姿がここにある。
この世の快楽や世間の人からの称賛や豊かな財産、能力…等々は、一時的には人を満たすこともあろうが、必ずそれはさらなる不満、さらなる快楽や財産、権力を求めるようになって、魂が深く満たされるということがない。
こうした旧約聖書で多くの個所でその体験や神からの啓示として記されている 神の霊的な恵みが、あたかも泉のようにあふれるほどに与えられるというが、そのような泉そのものである方が、キリストであり、旧約聖書のさまざまの個所はこの泉そのものであるキリストを指し示すものともなっている。
キリストは、神と同じ本質を持つことは、ヨハネ福音書の冒頭からその重要性ゆえに記されている。
イエスとして人間の姿をとってあらわれる以前から、キリストは存在しており、神とともにあり、神でもあった。そしてその存在しつづけてきたキリストのことを、ロゴスというギリシャ語で表現している。万物はそのロゴスなるキリストによって創造された。創造されたものでそのキリストによらずに創造されたものは何一つなかった。(ヨハネ1の1〜3)
ヨハネ福音書という深淵な霊的福音書の最初にこのように強調されて記されていることは、このことがいかに重要であるかを指し示すものである。
そして,コロサイ書においても、1章の15〜17節に キリストが神と同じ本質をもっていることが強調されている。
…御子(キリスト)は、すべてのものが生じる前に存在していた。天にあるもの、地にあるものー万物は御子によって創造された。
万物は御子により、御子のために、創造された。
御子はすべてのものよりも以前から存在していて、すべてのものは御子によって支えられている。(コロサイ書 1の15〜17より)
このように、神とキリストが同じ本質であることが、ヨハネ福音書の冒頭と同じようにここでも記されている。
このことは、三位一体ということで広く知られている啓示のなかに含まれる真理であり、後の神学者や教会がつくり出した教義などでなく、使徒たちが、神から受けた啓示そのものであればこそ、このように強調されて記されているのである。 (なお、聖霊とキリストが同じであることはここでは引用しないが、さまざまの聖書の個所で記されている。)
旧約聖書における多数の泉、あふれる水の流れなどの個所はすべて 究極的な泉たるキリストを指し示すものであり、それゆえにこそ、キリストは、次のようにいわれたのだった。
…渇いている人はだれでも私のところにきて飲みなさい。
私を信じる者は、聖書に書いてあるとおり、 その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。(ヨハネ福音書7の37〜38)
キリストこそは、神からの完全な愛、真実や全能、美、永遠性等々をすべて受けた御方であり、それゆえに、私たちがそのキリストが内に住んでくださるときには、私たちも小さき泉となり、そこから湧き出るものが他者につたわっていく。それが二千年を通じて世界の至るところで生じてきたのだった。
キリストこそは、祈りの源泉でもあり、美そのものでもあり、力そのものであるゆえに、魂の根本的な平安ともなる。
真実な祈りとは、霊的な力からにじみでたものである。新約聖書の多くの書において、パウロや他の使徒たちが啓示をうけて記したのも日常的に、泉そのものであるキリストからいのちの水を受け、力を与えられていたからであった。
キリストという泉からは、神の愛、永遠的な力、真実、清さ、美、…あらゆるものがあふれて世界に注がれている。そこから神の愛や力を受けて以後の歴史にも多大の影響を与えてきたのが、アウグスチヌス、アシジのフランシスコや、ルター、スパージョン…等々の人たちであり、また、とくに音楽的、美的なものを豊かに受けた人たちが、歴史的にも知られて多大の影響をなしつづけてきたバッハやベートーベン、モーツァルトたちであり、またレンブラントやミケランジエロ、ラファエロ、ミレー等々の画家たちでもあった。
コロサイ書においても最初に、次のように使徒の祈りが記されている。
…私たちはいつもあなた方のために祈り、私たちの主イエス・キリストの父である神に感謝している。…
それはあなた方がキリスト・イエスによる信仰と、すべての聖徒(キリスト者)たちに対してもっている愛についてきいたからである。 …
このことを聞いた時から、私たちは絶えずあなた方のために祈り、願っている。(コロサイ書1の3〜4、9)
使徒パウロは、このような心で絶えず祈りつつ、神の力、キリストの力が信じ始めた人々にさらに強く与えられるようにと願っていたその心が浮かび上がってくる。そして、そのキリストによってさらにコロサイに住む人々が満たされていくために、
「労苦し、内に力強く働くキリストの力によって闘っている。
また、私がまだ直接顔を合わせたことのないすべての人々のためにどれほど、労苦して闘っているか、わかって欲しい」(コロサイ書1の28〜2の1より)
と、二度も「闘っている」という言葉で語りかけている。祈りが闘いである、そのようなことは多くの人々にとって聞いたことがなかったと思われる。
そうした霊的な闘いであったその祈りこそは、遠く離れた人々にも及ぶ力であり、彼らに迫ろうとする悪の力、信仰を崩そうとする闇の力との戦いなのだった。
それは、武器をとって人間を殺傷するという闘いとは根本的に異なる闘いであり、そうした霊的闘いこそ、キリスト者のなすべきことだと知らされる。
そしてコロサイ書の最後の部分で
、「あなた方の一人エパフラスが、あなた方が 神のご意志をすべて確信しているようにと、いつもあなた方のために、祈りの中で闘っている。」(*)(コロサイ書4の12)と書いている。
(*)新共同訳では、「熱心に祈っている」と訳しているが、原文では熱心 ということばでなく、ここで記したように、「祈りの内で闘っている」という表現であり、すでに述べた他の個所での祈りによる闘いが仲間によってもなされていたことを示している。
英訳の代表的なものもそのように訳している。
He is always wrestling in his prayers on your behalf, (NRS、 NIV)
こうした祈りが霊的な闘いであるということ、それを最も激しく闘ったのがキリストだった。処刑される前夜、血のような汗を流して夜通しあらゆる霊的な力を注いで祈り続け、最終的にその闘いに勝利したうえで、十字架に向う力を与えられたのだった。
そのゲツセマネにおける祈りによる闘いこそ、万人の贖い、救いのための道を貫徹するための基となっていたである。
それほどにまで、祈りというのは 深い高みにまで達するものだと知らされる。
私たちの祈りは、そうした深淵な祈りと比べて、およそ比較にもならない小さなものであるが、それでも私たちの小さき祈りであっても、真実なイエスへの信頼をもって祈るとき、小さきものを愛してくださるイエスは、私たちのその小さき祈りをも愛してくださって何らかのよきことを必ずなしてくださると信じることができる。
社会的平和、言い換えると戦争のない状態も、人間の魂の深い部分で、泉なるキリストから平和の根源を与えられるのでなければ、人間はたとえ兄弟姉妹、あるいは親子であってもまた友人であってもふとしたことから仲違い、さらに憎み合うことさえ生じるし、学校や職場その他の領域などで、平和そうに見える人間関係もじつは、表面的なことにすぎないことは日常的に経験されていることである。
魂の平和(平安)は、人間の思想や努力、あるいは地域、経験などでで与えられるのでなく、聖霊の実 として与えられる。(ガラテヤ書5の22)
言い換えると聖霊とキリストであり、魂の平安、平和とは、泉なるキリストから湧き出る良きものを受けることによる。
この真理は、キリストよりはるか昔から、すでに預言されていたことであった。
…さあ、渇きを覚えているものは、皆、水のところに来れ…。
私に聞くならば、良きものを食べることができる。
そして あなた方の魂は、豊かさを喜ぶことになる。
耳を傾けて聞き、私のもとに来れ。
聞いて、魂に命を得よ。…
主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。
私たちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる。(イザヤ書55の1〜7より)
ここで預言者イザヤが最初に、「水に来れ!」とつよく呼びかけている水ーそれは泉なるキリストから流れ出るいのちの水にほかならない。
イエスは、ヨハネ福音書において、このいのちの水の重要性を強調してつぎのように語られた。
…仮庵祭(かりいおさい)が最も盛大に行なわれる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声でいわれた。
「渇いている者はだれでも、私のもとに来て飲みなさい。
私を信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れでるようになる。」 (ヨハネ7の37)
重要な古くからの信仰にかかわる祭の最後の日、しかも立ち上がり、大声で と重ねてその重要性が強調されていわれたのが、いのちの水のことであり、キリストそのものがいの水の源たる泉であるがそれを少しでも与えられると受けた人も小さき泉が内に生まれて、そこから周囲に向って流れ出るようになるという祝福の約束である。
実際に、二千年の歴史を通じて、この新たに生まれた小さき泉から湧きあふれてきたいのちの水によって無数の人々が活かされ、今日に至っている。
私自身 先人の受けたいのちの水から生まれた一冊の書物によって、その源流たるキリストの泉を知らされて今日に至っている。
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(関連個所)
・私は乾いている地に水を注ぎ、乾いた土地に流れを与える。イザヤ書44の3
イザヤ書 48:21
主が彼らを導いて乾いた地を行かせるときも、彼らは渇くことがない。主は彼らのために岩から水を流れ出させる。岩は裂け、水がほとばしる。
知恵の書 11:4
彼らはあなたに渇きを訴えた。すると、切り立つ岩から水が与えられ、その固い石からの水で渇きがいやされた。
エズラ記(ラ) 1:20
お前たちが渇ききったとき、わたしが岩を割って、飲み飽きるほどの水が流れ出たではないか。
イザヤ書 48:21
主が彼らを導いて乾いた地を行かせるときも、彼らは渇くことがない。主は彼らのために岩から水を流れ出させる。岩は裂け、水がほとばしる。
民数記 20:11
モーセが手を上げ、その杖で岩を二度打つと、水がほとばしり出たので、共同体も家畜も飲んだ。"
ネヘミヤ記 9:15
彼らが飢えれば、天からパンを恵み渇けば、岩から水を湧き出させ必ず与えると誓われた土地に行ってそれを所有せよと命じられた。
出エジプト記 17:6
見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。
詩編 78:15
荒れ野では岩を開き、深淵のように豊かな水を飲ませてくださった。
詩編 78:16
岩から流れを引き出されたので、水は川のように流れ下った。
詩編 78:20
神が岩を打てば水がほとばしり出て、川となり、溢れ流れるが、民にパンを与えることができるだろうか、肉を用意することができるだろうか。」"
詩編 105:41
主が岩を開かれると、水がほとばしり、大河となって、乾いた地を流れた。
天は神の栄光を物語り(詩篇19の2)」 土屋聡 2025.5.4
1 はじめに
4月20日はイースターでした。イエス様が復活され、今も生きておられることと、わたしたちに復活の希望を与えてくださったことに喜び、感謝する日です。
木々の芽吹きを見ていて気づいたことがありました。毎年、春になると枯れ木だった雑木林が芽吹いていくいつもの様子なのですが、日々少しずつ変化していることに気づいたのです。若葉の色や大きさが、よく見ないと分からないほどの少しの変化なのに、明らかに昨日より大きくなっていくのです。淡いやわらかい緑の葉の色も昨日より少し濃い緑に変わっていくのです。
私は、木々が芽吹く様子は復活の希望を表しているように思いました。声も聞こえないし、言葉も聞こえない静かな中で、確実に変化し命が大きく、たくましくなっています。若葉が生きて日々成長している姿に、神様の力が働いているように感じられました。
2 新緑は神の国
新緑の木々に囲まれて静かに耳を澄まし、美しさに見とれていると、小鳥のさえずりが聞こえてきました。空にはいっぱいに広がる青空があります。地には美しく清らかに蘇っていく木々があります。新鮮な空気をいっぱいに吸い込み、さわやかな風が通り過ぎていくのを感じていると、この美しい景色は、まさに天国ではないか!神様が私に天国を見せてくださっているのではないか!と感じられました。私は喜びと平安に満たされて、神様に感謝の祈りをしました。
3 示された聖句
身近な木々が芽吹く景色を見て心豊かになり、神様に感謝しているときに、心に浮かんできたみ言葉は、詩編19編2−5でした。
「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。
昼は昼に語り伝え、夜は夜に知識を送る。
話すことも、語ることもなく、声は聞こえなくても
その響きは全地に
その言葉は世界の果てに向かう。」です。
この聖句には「天」や「大空」という言葉が書かれています。空も海も山も木々もすべてを神様が造られた自然です。そして「自然」を「心の目」で見て、「心の耳」で聞いていると、神様が今も働いていらっしゃるように見え、聞こえてくるように思います。この世に居ながらにして、復活したときに見る、天国を見せていただいているように感じられて、私は嬉しくなりました。
5 まとめ
これからも私は、神様の造られた自然を通して、神様が今も生きて働いていらっしゃるのを感じて、神様に感謝して生きて行きたいと思いました。
村上龍男氏(*)からの来信から
今日は眼科の医者に行ってきました、結構元気で引退しましたがやはり年と共にあちこち痛んでくるもので、時々医者通いをしています。
医者という所はどこに行っても待ち時間が長いもので、その時に「いのちの水」誌をじっくりと読むことにしています、毎回頂いたのを何度か繰り返し読んでいます。
読んでいる時には多くの教えを受け納得したり疑問を感じたり、先が楽しみで読んでいますが、しかし読んだ内容をじきに忘れてしまい、中々教訓となっていないのが申し訳なく思います。
今日は2024年7月号を読み返しました、中で本間勝氏の「主は備えたもう」のところで、私も自分のたどったこれまでの生活で似たような思いを感じていました。
ある時の出来事でがらりと人生が変わってしまう …、本間氏ほどの劇的な出来事ではありませんが、お読みいただければありがたく思います。
私の家は代々の田舎医者の家系でした、長男として生まれた私は暗黙のうちに医者になる運命でした、父は終戦近くにフィリピンのレイテ島近くの海で船もろとも沈み戦死していました、しかし母はどこかの無人島にたどり着いていて必ず帰ってくると信じていました、一緒に沈む船から海に飛び込んだ県内の新庄市の方が生きて帰ってきたことも有ったので、余計信じたのでしょう。
母は私を立派な人間に育てていずれ帰ってくる父に見せたかったようです、かなりのプレッシャーを受けていました、私は勉強が嫌いになり真っ平ごめんと勉強から逃げていました。
そして受験したのが大学受験で有名だった鶴岡南高校でした、勉強しない私が受かるはずがなく当然落ちてしまいました、わかっていましたがかなり落ち込みがっかりしていました。
そこで出会ったのがキリスト教独立学園高校でした、私がラジオから聞こえてきた独立学園の自給自足で、山奥の小規模独特の教育、…、に感動して自分も入りたいとそう思いました。
そしてさらに母が独立学園に連れて行ってくれると言う、山形大学の前野先生に出会い、1955年(昭和30年)3月30日、3人で独立学園に行きました。
伊佐領駅(山形県西置賜郡小国町)からすでに残雪が1メートルも積もっていて、そこから8キロメートルを雪の上を歩いて2時間、やっと独立学園に着きました。
途中には小さな集落が2つあっただけ本当に山奥の寂しいところでした。
前野先生から、
「ここが独立学園です」
と言われましたが暗くなった雪の中に立っていたのは、杉皮葺きの見すぼらしい廃屋でした。
正面玄関の両隣は汲み取り式の便所、片方はヤギ小屋と言う恐ろしく臭いものでした、そして裸電球が一つぶら下がっていました。
何故かそのすべてが感動で嬉しく体が震えるような喜びを感じていました。
母は、あまりの見すぼらしさに驚き、私に何度も何度も「大丈夫か、大丈夫か」と聞きました。
そして、迎えてくれた鈴木弼美校長に
「入学は、お断りする、とのはがきを出したのですが届きませんでしたか。
もう定員いっぱいになったから、入学はお断りします。」 と言われました。
私たちは、そのハガキが配達される前に、独立学園に出発してしまったのでした。 しかし、同行してくださった山形大の前野先生が何度も何度も頼んでくれて、とうとう校長が折れて「屋根裏部屋が5人定員だが少しずつ詰めればもうひとり布団が敷けるだろう」と許可してくれました。
これがキリスト教との出会いになりました、はっきりと断られましたが前野先生が根気よく何度も頼んでくれ … それが無ければ独立学園に入ることはできなかったでしょう。
3年の秋でした、私が相変わらず授業以外は一切勉強もせず自然の中で魚獲りや登山、農家の手伝いなどばかりで、卒業後の方針もなくただ無為に過ごしていたのを心配して鈴木校長が「お前は魚取りが好きだからここに入ったらどうか」と勧めてくれたのが山形大学農学部、応用動物学の教授阿部襄先生のところでした。
受験しましたが何一つ回答できず、答案用紙には名前しか書くことが出来ませんでした、自宅浪人して翌年受検し何とか合格して応用動物の研究室で淡水魚の生態を学びました。
阿部教授が就職先に加茂水族館を紹介してくれ、長く苦労しましたが、さまざまのクラゲに出会い、この世に一つのクラゲ水族館を建設することが出来ました。
何とか倒産しそうだった水族館を立て直すことが出来たのは、あの独立学園の生活が有ったからだと思っています。
信仰心はお世辞にも自慢できませんが、いつの間にか私の体の中に住み着いていて、いつも葛藤と言うのでしょうかがっぷり四つの相撲を取っている感じがしています。
いつも「いのちの水」誌は楽しみにしています、吉村先生健康で長生きしてください。…では。
2025,4,16
(*)村上龍男氏は、山形県鶴岡市の加茂水族館(クラゲ水族館とも言われる。加茂とは以前の地名から。)の名誉館長。クラゲの展示種類数で世界一となった。村上さんは、1967年に、当時は経営難で閉館寸前の状態でしたが、館長になり、50年ほども館長としてクラゲを主体とした新たな企画を生み出し、クラゲの飼育方法を確立し、世界では最も数の多いクラゲの水族館となり、今日に至っています。(現在は名誉館長)
(これは個人的な来信でしたが、ご本人の許可を得て掲載しました。主の導きの多様性を知らされます。)
近畿無教会キリスト教集会
5月10〜11日の二日間、京都市修学院の関西セミナハウスにて、近畿無教会キリスト教集会が開催され、北海道や青森などの遠隔地からも含め40名余の参加で祝福された集会となりました。 今回はコロサイ書からのメッセージが三人によって語られました。 私は車いすで妻を乗せたまま参加できてとくに感謝でした。
〇今月号は校正する時間なく入力ミス、重複などあるかと思いますが気づいたところはお知らせくだされば幸です。
主筆・発行人 吉村孝雄(徳島聖書キリスト集会代表)
〇この冊子は、読者の方々からの自由協力費で作成、発行しています。
協力費をお送りくださる場合には、次の郵便振替口座を用いるか、
千円以下の場合には切手でも結構です。
郵便振替 口座番号 01630-5-55904 加入者名 徳島聖書キリスト集会
〇URL:http://pistis.jp (「徳島聖書キリスト集会」で検索)