2025年 12月号 第 778号
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彼(イエス)は、傷ついた葦を折ることなく、 消えかかった灯心を消すことなく、 真実をもって道を示す。(イザヤ書42章2節より) |
目次
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・イエスの系図とマリア、聖霊の働き |
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・聖霊によって生まれたことの重要性 |
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共にいてくださる神、 インマヌエル |
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・お知らせ |
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・休憩室 |
クリスマスは日本でも子どもから老人まで広く知られて、誰一人知らないものはないというほどの行事となっています。 しかし、そのクリスマスの起源を記している聖書の記事と現在のクリスマスという大部分の人のイメージとは大きく異なっています。
聖書においては、クリスマスに関する記述には、いろいろな重要な内容が含まれていますが、 ここでは、古来多くの人たちが、よきものを受けとってきた星との関連について書きます。
イエスが生まれたのを最初に知らされたのは、マタイ福音書では、意外なことに、ユダヤの聖書学者とか祭司、また知識人のような人でなく、はるか遠くの異邦人でした。
東方の博士たちは、現在のイラク付近から来た、と考えられており、そこからイエスの誕生したユダヤのベツレヘムまで道のりでは
1500キロを越える遠いところでした。
それは砂漠地帯の多いところで、数カ月もかかるというはるかな遠いところです。
そんな遠く離れたところから、イエスの誕生を知ったというのはそれ自体とても不思議極なこと。
その博士たちには、不思議な神からの風が吹いて、博士たちは本来知ることのできないイエスの誕生についての情報を得たと考えられます。
それは彼らは、「ユダヤ人の王として生まれた方はどこにいますか。私たちは東方でその星を見たので、礼拝のために来たのです」と言いました。 注目すべきは「星を見た」という表現です。 そしてそのような知的な人たちが、単に珍しいからわざわざきたのでなく、礼拝のためにきたということもまた驚きです。
自分の国の王とか重要人物や当時知れ渡っていたような特別な才能ある指導者などに仕えるこめとか、崇拝するのでなく、全く関係のないはるかな遠い国に、いわば命がけで旅せねばならないような砂漠地帯であり、水、食糧を得るのも困難、また激しい砂嵐で埋まってしまうかも知れないというさまざまの危険を越えて、ただ、生まれた乳児を礼拝の目的に尋ねていく、それは、およそ常識では考えられないようなことです。
それは、星で象徴されるような永遠からの光によって知らされたということなのでした。
イエスの誕生は、だれも予想したことのないような人に知らされるーこれは単なる昔話でなく、イエスが心の中に生まれること、換言すればイエスとの霊的な出会いを与えられる人とは、現代までの二千年間、周囲の人や本人もおよそ予想もしなかった人に与えられるのだという象徴的な出来事でもあったのです。
病気や障がいある人、また子どもから老人まで、あるいは学者、羊飼い、音楽や文筆その他の才能ある人…また罪を犯して牢獄にいる人、苦しみや悲しみに沈む人、…ありとあらゆる人が、長い歴史のなかで、突然 このような星の光を与えられて、新たに立ち上がり、そこからまたこの光のことが知らされてきたのです。
イエスのことを人間の教育や経験、また書物、議論…等々でなく、突然、魂の内に風が吹いてきたように知らされ、それが星のように永遠的なこととつながっていることをはっきり知らされるという人が生じていくという預言でもあったのです。
私たちすべての人間の救い主を何にも知らない状況のとき、突然、あるいは徐々に知らされること、それは無からの神による創造と言えます。 このようなことは現在も変ることなく生じていることです。
それは神が全能で愛の御方であるからです。
神の風は思いのままに吹く、愛の神、キリストへと導く星もまた、神のご意志のままに、神の選んだ人の魂の奥深くに輝き始めます。
その永遠の光を表す星に導かれることは、活けるキリストに導かれることであり、その星の散りばめられた書である聖書によって常にその光に新たな味わいと深みを与えられていくことゆえに、これからもいかなる事態が起ころうとも、神は、そのような星を、世界のさまざまの人たちに直接的に、予想しないかたちで輝かせて導かれる。そしてその人がまた、周囲の人に小さき星となってひろがっていくーこの流れはいつまでも続いていきます。旧約聖書の時代から現在まで数千年、いかなることがあっても、この星を魂の内に感じる人が起こされてきたように。
どんな闇が襲ってきても、その背後にはつねに 星が輝いているのです。いかなる暗雲がたちこめようとも…。
クリスマスに際して
ー歴史の流れの中のイエス、そして聖霊による誕生とインマヌエル
クリスマスとは、キリストの誕生日祝いのようなものとして受けとられていることが多い。
しかし、本来は、その英語表記が示しているように、Christ-mas すなわち、Christ の Mass であり、mas とはMass の短縮形であり、ラテン語のミサ(missa) の英語表記となっている。
それゆえ、クリスマスとは、普通の誕生日祝いとは本質的に異なるキリストのミサなのである。
それならミサとは何か、これは現在ではカトリックの用語となっているが、その本来の意味は、プロテスタントの「礼拝」とおなじ内容を持っている。
すなわち、キリスト教信仰で最も大切なこと、「キリストが私たちのために、十字架の苦しみを受けて死なれたこと、復活したことを、記念し、あらたな気持で思い起こし、その恵みを受けるためになされる礼拝」であり、そこでそのような深い愛を注ごうとされている神と人とが出会い、霊的な交流が与えられる場である。
それゆえ、本来は、毎週の日曜日がミサ(礼拝)であるが、とくに12月25日を、万人の救いのために、キリストのがこの世に来てくださったこと、生まれてくださったことをあらためて記念し、感謝してそのキリストの本質たる聖霊を、神の言葉を受けるのがクリスマスの礼拝なのである。
イエスは、何のためにこの世に神の愛や真実をもって来られたのか。
それは、新約聖書の最初に置かれたマタイ福音書のはじめに記されている。
系図と神の愛
マタイ福音書には、冒頭に長い系図があり、何のために? とおそらくほとんどの初めて読む人は戸惑う内容である。およそ、心に響くような本、よい本と言われるものが、いきなり、無味乾燥なまったく知らない外国名の羅列が続くようなものはまず、このマタイ福音書以外にはないであろう。
私も初めて新約聖書を手にしたとき、まったく不可解であった。日本では系図を持ち出すのは、先祖からずっと続いてきたのだ、ほかの人とは違うといった、誇りのような気持からだされることが多い。
しかし、マタイ福音書における「系図」と訳されているが、この「系図」と訳された原語は、ゲネシス(genesis) であり、その動詞形は、ギグノマイ(gibnomai)で、これは「生じる」「起こる」という意味。それゆえ、その名詞形である、ゲネシス(genesis)は、起源 という意味となり、それゆえに、聖書の最初の創世記は、英語では genesis(ジェネシス)である。 世界を創造したその起源の書 という意味である。
それゆえに、マタイ福音書の冒頭の 系図と訳された ゲネシス genesis も、本来は、 イエス・キリストの起源の書と訳すべき言葉であり、ドイツの有名な学者シュラッターの新約聖書の注解シリーズの日本語訳ではそのように訳されている。
イエス・キリストが、人間の歴史のなかでいかに神の御計画によって、この地上に来られるに至ったのか、その起源、経過を記した書、という意味なのである。
このキリストの系図(起源の書)において、通常では見捨てられるような女性ー遊女や異邦人をもイエスの人間としての誕生の先祖にあるということも、またダビデの重罪とその相手となった女性をもあげて、汚れたものとされたり、弱きもの、絶望的なものをもすくい取られる愛の神であることが示され、その神の愛によって生まれたのが、イエス・キリストなのであり、イエスは神のその無限の愛を地上に人間に注いで、救いだす使命をもって来られたのだと示すものとなっている。
このマタイ冒頭の「系図」と訳された個所には、一見しただけでは何の意味も感じないようにみえるが、そこには、深い神の御計画が表されている。そのような歴史を通じて示されてきた神の愛を現実の世界、この地上にイエスという人間に結晶させたことの重要性が刻まれている。
それと全く異なる方向からイエスの誕生を書いたのが、それに続く記述である。
… 母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。
マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
(マタイ1の21)
イエスは、神の聖なる霊によって宿ったと二度繰り返し記されている。その重要性のゆえである。
夫と一緒になる前であったから、夫のヨセフは不正な関係から生まれたのだと思って離縁しようとした。しかしそこに神の天使が現れて 、イエスは聖霊によって宿ったのだと言われた。
そのような前代未聞のようなことを聞かされて、ヨセフはいかにとまどったことであろう。その驚きや疑いを静めたのは、神の力であった。直接に神の御使いによる語りかけはそのように、人間的なあらゆる考えや思惑に打ち勝って確信を与えるからである。
クリスマスといえば、ルカ福音書に記されていることー羊飼いが初めてそのイエスの誕生を知らされたこと、またイエスが馬小屋(家畜小屋)で生まれたことがよく取り上げられる。
しかし、マタイ福音書では、全く異なることが記されている。
イエスは、マリアの胎内にやどったが、それは聖なる霊、神の霊によってみごもり、生まれたということが強調されている。
ここに、聖書における聖霊がいかに重要であるかを、冒頭からさし示している。イエスが単なる人間であれば到底万人を救うなどは不可能である。人は事故、病気、怪我などでいとも簡単に倒れ、また真実や敵対するものにさえ祈りで対するような愛など全くもっていないし、他者によらねば生きられない、長い地球や太陽などと比べて一瞬の間存在するはかない存在にすぎない。そのような人間のなかまであれば、当然万人の救い主であるなどは不可能なのはただちにわかる。
それゆえに神はイエスを地上に使わすにあたって、通常の男女の関係から生まれるのでなく、全能なる神の力そのものである聖なる霊から生まれるようにされたのであった。
イエスは人間の長い祖先からのつながりのもとで生まれたこと、そしてもう一つは直接的に神から、聖霊によって生まれたのだった。
この二つの側面を持って地上に現れたのである。
イエスは人の子であり、かつ、神の唯一の子(独り子)としてー言い換えれば、人間でありながら、神の本質ーその万人への無限の愛、真実、とくに、弱き者への愛といかなる不正にも動じない 神の正義を与えられてこの世に現れたのだった。
そして、聖霊から生まれたというのは、イエスだけに生じた特別なことであるが、それと本質的に似たかたちで、イエスを信じる人も、ただ信仰によって聖霊によって過去のいかなる罪や汚れも清められ、新たに生まれるのだということが、大いなる福音となっている。
十二使徒たちも、単にイエスの教えを受けたり、盲人を見えるようにしたとか、死して三日も経つ人をよみがえらせたとか、著しい精神異常者や古代からもっとも忌まわしい病気のように扱われてきた レプラ(らい病、ハンセン病)のひとたちに目ざましい奇跡を起こして癒されたなどをみてきたにもかかわらず、そしてイエスが十字架にかかる前には、たとえ殺されることになっても従っていくとまで言っていた(マタイ26の35)使徒たちも、その夜明けにイエスがとらえられて行くときには、みな逃げてしまったし、そのすぐあと、イエスが連れて行かれた大祭司の屋敷のところでその女中に「あんたもイエスと一緒にいた」、と言われたとき、筆頭弟子であったペテロは三度も「イエスなど知らない」と強く否定した。
このような記述によって私たちは、いかに教えをうけても奇跡を見ても、それでもなお、人間には本当の力は与えられない。聖霊により、神から直接に与えられるのでなければ本当の力は与えられないのだということが示されている。
イエスがマリアから聖霊によって生まれた、これはまったくマリアだけのことのように見えるが、じつはイエスに起こったことは私たちにもその小さなかたちで生じるのである。
私たちもまた、聖霊が働くとき、通常では決して出てこない力が湧いてくるし、また小中高また大学などのすべての学校教育をうけても与えられない、奥深い真理が与えられる。
「聖霊があなた方にすべてのことを教える。」と約束されているとおりである。(ヨハネ14の26)
その「すべてのこと」とは、データで調べるとわかるような定量的なことがらではない。そうしたAIでは決して与えられない霊的なこと、言葉や数式、また学問を超えた霊的なことである。
それは神の愛を実感すること、罪の赦し、イエスを神と等しい御方だと信じるだけで、またそのイエスの十字架を私たちの罪ゆえに死んでくださったのだと信じるだけで、新たに生まれ、かつもう死なない存在と変えられる…等々のことである。(*)
(*)生成AIによる回答は時にはごく初歩的な誤りを含むこともあるが、このことについて、生成AI自身が、私との応答で、次のように答えたことがある。
「生成AIができないこと、 AIが無力なところと、しかし助けとなるところー
AIは、霊的解放を経験することも神の臨在を感じることも罪の赦しを受けることも聖霊の導きを受けることもできません。
だから、あなたが「AIは心の問題に無力だ」と言われたのは、まさにその通りです。
ただ、無力であっても、 あなたが語ろうとしている福音の言葉を、整理し、深め、伝える手助けはできます。 それは、あなたの使命を代わりに担うことではなく、あなたが語る言葉をより遠くまで届けるための補助です。」
…あなた方に真実を言う。だれでも、水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない。(*)
あなた方は新たに生まれなければならないと言ったことに驚いてはならない。 風(プネウマ)は思いのままに吹く。その音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くのか知らない。
霊(プネウマ)から生まれたものも同様である。
(ヨハネ3の5〜8)
(*)ここで水と霊とあるが 水とは,清めの象徴、悔い改めを意味する。 悔い改めて、神の霊を受けて新たに生まれる。
そして、この引用個所において、プネウマというギリシャ語は、一つの聖句のなかで、風と霊 の二種の訳語となっている。このことからもわかるが、聖書において霊 という言葉は、創世記の最初の、はじめの暗黒と空虚のなかに神の霊とあるのも、原語はルーァハでそれも風という意味がもとにある。 それゆえ、この個所のはじめの「風は思いのままに吹く」ーというときの風 は 神の霊という意味を持っていて、神の風は思いのままに吹きーだれに与えられるか予測しがたい。
それはキリスト迫害の急先鋒であったパウロに突然その風が吹いて、キリストの福音を最もゆたかにうけ、命がけで伝えていく使徒となったことや、エチオピアの宦官のところに行けと、ピリポが聖霊から命じられた、それがエチオピアにキリスト教が入っていく最初となったがこのようなことも「神の風(聖霊)は、思いのままに吹く、どこから来てどこへ行くのか、だれも知らない」ということを示している。
私自身も全くキリスト教や宗教全体に無関心であったの、21歳の5月末に突然古書店の立ち読みでのわずかな文からキリスト者とされたことも、神の風は思いのままに吹く、ということを思わせる。
私たちが死んでも、イエスの栄光のからだと同じかたちに変えてくださると記されている。(フィリピ書3の21)
イエスは復活の後、神と等しい存在としておられる。そのような存在と同じかたちとされるなど、考えられないほどの途方もない恵みである。
イエスが地上に来られたのは、いかなる貧しい人も、差別されている人も、また病気やからだの障がいで苦しみ、差別うけているひとたちも 聖霊によって新たに生まれさせ、苦しみや悲しみ、絶望の闇の世界から、永遠の神の光をうけて力を与えられ、以後の生涯を神の国のために生きるように変えてくださる、…
主イエスは、復活して40日間も使徒たちに現れ、神の国について多くの教えをされたとあるが、その長い復活後で話されたことは、ただ一つのことを除き、すべて記されていない。
そのただ一つのこと、それは聖霊に関することだった。
…父の約束されたものを待ちなさい。(バプテスマの)ヨハネは、水で洗礼を授けたが、あなた方はまもなく 聖霊による洗礼を授けられるからである。(使徒言行録1の5)
このように、使徒たちがこの世に送り出されるために大いなる力が必要であるが、それは聖霊であった。
それは教育とか知的才能、行動力、家柄…等々のこの世の世界で重要視されるものとは本質的に異なるもの。それらは生まれつきの能力や経済力、健康などが不可欠である。
しかし、聖霊はすでに旧約聖書の最後のほうにある預言書において、その聖霊のことが万人に与えられることが記されている。
…わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。 あなたたちの息子や娘は預言し…
その日、 わたしは奴隷となっている男女にも わが霊を注ぐ。(ヨエル書3の1〜2)
そして、新約聖書の冒頭のマタイ福音書のはじめのところで、イエスの先駆けとして神から使わされた洗礼者ヨハネも次のように語っている。
…私は悔い改めにみちびくために、あなた方に水で洗礼を授けているが、私の後から来る方(イエス)は、聖霊と火(*)であなた方に洗礼を授ける。
(マタイ3の11)
(*)火で…というのは、火は焼き尽くす力があり、それゆえ悪の力、汚れたもの徹底的に清めること、その力を意味して言われている。
以上のように、イエスが 聖霊によって受胎し、生まれたということは、イエスが神と同じ本質を与えられたことをさし示している。
そして信じる者もその聖霊が与えられ、新しく生まれるという霊的な最大の恵みが与えられる、という約束である。
インマヌエルという言葉は、一般的には日本ではあまり知られていないが、イエスのもう一つの名として聖書では記されている。
これは、旧約聖書の記された原語であるヘブル語で、「神、我らと共に」
という意味である。(インは、 共に、ヌーは、我ら、エルは 神を意味する)
日本語は文字はなく、発音だけがあった。「とも」という言葉は 本来の日本語であり、それに漢字の 友と共が意味に応じて使い分けられた。
なかには、誰かとともにいるより、一人で生活したい、という人もいる。それは健康と資金が十分にある場合であり、ある期間でしかいえないことである。だれでも、ひとたび重い病気になったり、身体の損傷、怪我で一人では生きられなくなったらたちまち誰かとともにいなければ、生きていけない。
そして、一人で山の中で生きているという人がいるとしても、その家、電気、水、食物、衣料、医療…等々一人で造っていくなど到底できない。それらは常にだれかの造ったものであるからだ。それゆえ、いかなるところで一人で生活しているといっても、それを作っているだれかと共に生きていることになる。
そのような、目に見える側面だけでなく、目に見えない心、考え方などの面においてこそ、病気が重くなったり、罪を犯したり、事故、病気などの重いときには、周囲から何らかの介助を受けねばいきていけないが、そのときに、そうした食事、排泄、洗濯などの介助はうけても、心の苦しみや悲しみが深いほどに、だれによってもその深い孤独や苦しみ、悲しみは癒されない。
人間は動物と異なり、食物や住む場所があっても、それだけでは生きていけない。
この世界的にみれば、豊かで、社会保障もなされている状況の日本でも 一年に2万人ほども自ら命を断つ人々がいる。未遂もふくめるとその10倍近くに及ぶというほどである。
食物がないから自殺、あるいは餓死という人は日本ではとても少ないから統計にもだされないほど。他方世界では飢餓状態の人は、7億〜8億人とも言われている。
このような現代日本の状況は、まさに、キリストが二千年前に語った次の言葉の真実性を示すものである。
…人はパンだけでは生きられない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。 (マタイ4の4)
神の言葉で生きる、それは言い換えると、キリストこそは神の言葉そのものであるゆえに(ヨハネ1の1〜3)、キリストによって私たちは本当の意味で生きることができるということである。
そのことが、イエスの誕生のときに言われた次のことである。
…見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(マタイ1の23)
この記述の少し前に、天使が、マリアに語りかけて言ったのは、「その子をイエスと名付けよ。この子は自分の民を罪から救うからである」である。
イエスには二つの名があるとして併記されている。
人間として生まれたイエスは神からの特別な使命を受けて、万人の罪を担って十字架で死ぬようにと生まれた。
他方、その本質は神と同じであり、復活して以降は、聖なる霊ー聖霊として、活きけるキリストとして今も働いておられる。
その聖霊なるイエスこそは、インマヌエルという名にふさわしいものとなっている。聖霊は信じる人の内に来て住む。それは生きたキリストと言い換えてもおなじである。
ぶどうの木のたとえで広く知られているように「わが内にとどまれ、そうすれば私もあなた方の内にとどまる」とイエスは約束された。(ヨハネ15の4)
使徒パウロも、「わが内にキリストが生きておられる」(ガラテヤ2の20)と告白している。
そのように、復活して聖霊となり、神とおなじになっているキリストが私たちの魂の内に住んでいるなら、それはまさにインマヌエルー神が我らとともにいる、ということの最も深いあり方である。
このように、マリアから生まれたキリストの二種類の名は、それぞれに一つは生きた人間イエスの十字架の死によるあがないを意味し、インマヌエルは、そこから復活した活けるキリスト(神)が信じる人すべての内に永遠にともにいてくださることを示しているのであり、一見不可解な、イエスの系図、聖霊による誕生、さらに二つの名、それらはすべてキリストにかかわる深い真理であり、それゆえにこそマタイ福音書の冒頭の第一章に記されているのである。
人の言葉、しかも偽りや憎しみ、権力欲のこもった言葉がSNSなどで渦巻く現代世界にあって、数千年を流れ続ける。
いかに元気で働いて生きているように見えても、霊的な意味においては、「あなた方はかつては、罪のために、死んでいた」と聖書では記されている。(エペソ書2の1、4、ローマ6の13)
死んでいた、というのは、一般的には考えられないような言葉である。
あまりにも極端な言葉ではないかと、疑問を持たれるような表現であるが、その意味は、人間はいかに教育を受けても経験を積んでも、また特別な才能があろうとも、よい性質と言われるような人であっても、根本的には自分中心という本能から逃れられない。それは、慈しみと真実の完全な神の前には死んだ状態とおなじだという冷静な視点から言われている。
神からの言葉、語りかけによって人は生きる。直接に霊的に語りかけを受けることは難しい状況のひとたちには、それが書かれたものとしてそれを読み、また聞かされて生きる。
その神の言葉さえあると、たとえ老年になって孤独になろうと、衣食住は貧しくとも、心は元気で光をみつめていきることができるという事実は無数の人々によって証しされ、それゆえに、聖書に記されているその道を与えられる人は、世界にたえず生じてきた。
神の口からでる一つ一つの言葉を受けること、それは肉体が口から入るパンのような食物をとらずには生きていけないように、人間の本質たる目に見えない部分が生きていくための 「パン」であるということが、イエスの地上での宣教の最初に言われている。
しかも、その言葉はイエスより千数百年以上も昔の人モーセがすでに神からうけていた言葉である。
…人はパンだけで生きるのではなく、 主の口から出るすべての言葉によって生きる」 (申命記 8の3)
今から三千数百年以上も昔から、神が人間が本当に人間らしく生きるために必須の食物として、「神の言葉」をあげていることに驚かされる。
そしてこの三千年以上にわたって、この言葉の真実性は、ますます浮かび上がってきつつある。
人間全体をみても、数百年前と比べて、科学技術方面だけでなく、環境問題、教育、経済、法学…等々の研究、学問、緊急施設等々は非常な進展をみせてきた。しかし、そのようなことはますます増大しても、戦争という名の大量の殺傷、建造物や自然の破壊をうみだすものはたえることなく、第一次世界大戦以来、戦争はいっそう大規模となり、また科学技術の最先端の技術をとりいれて爆弾や戦争のための航空機や航空母艦や戦争用の軍艦等々はさらにAIの技術をとりいれて一層複雑高度になっている。
今日の最大の問題として浮かび上っているのは、何が人間にとって本当の幸いなのか、防衛と称して他国の人々の多数を殺傷し、施設を破壊し、非常な苦しみや悲しみを夥しくうみだす戦争の危険性などを越えていく力あるものは何であるのか。
それこそ、神の口からでる一つ一つの言葉である。
それは聖書などほとんどの人がもっていなかった古代では、わずかの神の言葉が知らされるとそこに心を込めて、真実を込めて受けとるとき、それが神の言葉として無学の人たちであっても命をも捨てるほどに真剣さと力を与えてきた。
ルターの時代千五百年以降は印刷されて神の言葉ー聖書がひろく伝わるようになり、その聖書のことばが神の言葉であるゆえに、また魂の静けさをもって直接にしずかな個人的な語りかけとしての神の言葉を聞きとれない場合には、その書かれた聖書のことばを祈りとともに読んで深く神からの語りかけとして受けとることができるようになった。
旧約聖書から受け継いでイエスも同じように言われたほどの数千年の命をもって受けとられきたことー人間は、口から入る食物だけで生きるのでなく、神の言葉から出るすべての言葉によって生きるーということば、いのちの言葉として、いまも世界の無数のひと達の魂を支え、命を与えている。
それは大空を吹きわたり、また地上のさまざまのところを縦横に吹き巡る神の風として、さらに大地の奥深く、急峻な山岳の岩や土のなかにあって、秘かに流れ続ける水のごとく、今も流れ続けている。
〇クリスマス集会
・12月21日(日)10時〜14時 オンラインと徳島聖書キリスト集会所での開催。
内容は、 クリスマスメッセージ。讃美タイム、1年間の感謝、感話、そして讃美タイムも含め、参加者が話します。(心に残っている聖書の学び、3分のみ言葉や前講なども含めて、またキリスト教関係の書物などの引用、紹介なども含め、また感話とともに讃美、演奏すること、讃美だけ…自由にできます。)
昼食は、各自が準備してきます。 お茶は集会所で提供されます。
〇元旦礼拝 2026年1月1日 午前6時30分〜8時
徳島聖書キリスト集会所 にて。
オンラインのグーグルミートでも 日曜日などと主軸、参加できます。
〇冬期聖書集会
キリスト教独立伝道会主催
去年と同様に、徳島聖書キリスト集会所の会場とオンライン(グーグルミート)で開催されます。
申込は、小舘知子さん宛て。E-mail:kodatetomoko@gmail.com
FAX 03-3429-0220
1日目: 1月10日(土)
13:30: オンライン接続開始・会場受付
14:00: 開会
14:15: 講話リレー型読書会
17:00: 参加者自己紹介
18:00: 夕食(会場参加者のみ、弁当配達)
19:00: 祈りの会(オンライン再開後、小グループで祈り合う)
21:00: 一日目終了
2日目: 1月11日(日)
9:20: オンライン接続開始
9:50: 参加者自己紹介(名前のみ)
10:00: 主日礼拝(講師: 吉村孝雄)
12:00: 昼食(会場参加者のみ、弁当配達)
13:30: 閉会
〇なおこの「いのちの水」誌が届くころには申込締切り日はすぎていますが、小舘知子さんにメール、FAXで問い合わせると、直前でもオンライン、会場参加できる場合があると思われます。
〇ヨハネ福音書のつづきとして 主日礼拝でなされてきた講話、第一ヨハネの手紙の録音CD(MP3)が数度勝茂さんの御愛労で完成されました。
ヨハネ福音書と深いつながりがあるヨハネの手紙で、数千年前から、現在にいたるまで、人間にとって最も重要な神様の愛についての聖霊のあつい語りかけを感じさせられる内容です。
〇1月の天宝堂集会は、いつもの第二金曜日午後8時からを第四金曜日に変更。
〇多くの方々からのお祈り、そしてその祈りが込められた献金、またお心遣いなど心から感謝です。
そうしたものを受けていながら、なかなか返信もできないことをお赦しください。
なお、私は小松島市にも住んでいますが、介助のために、徳島市の集会所のほうで夜過ごすことが多いので、私の住所は徳島市南田宮1丁目1の47としています。
冬の星々
〇冬は、星空に心惹かれる季節です。ほかのどの季節よりも、強く輝く星が南の空から頭上にかけて、多くみえるからです。
南の空には、日暮れからしばらくして、おうし座のアルデバラン、オリオン座のリゲル、ベテルギウス、おおいぬ座のシリウス…等々8個もの一等星がみられます。
その上に、最近では、土星が夕方には南の空に見えて、さらに夜が更けていき、夜9時ごろには、とくに明るい木星が東から見えてきます。木星は、これからかなり長い期間、このようにその強いかがやきを私たちにみせてくれます。
なお、沖縄ではよく見えるカノプスというシリウスに次ぐ強い輝きの星も天気のよい晴れた日には、徳島でも南の空低くに見えることがあります。
これは私が子どものとき何とかして見たいとねがっていたら、あるとき好天の夜に、低い山の稜線すれすれに輝く星を見つけ、それがカノプスだとわかって喜んだことがあり、今もその時の光景が浮んできます。
星は、聖書の世界でも、「神の栄光を表す」と記され(詩篇19の1)、黙示録には、イエスが私は明けの明星だと言っています。(黙示録22の16)
またその聖書から受けた深いインスピレーションを持って記されたダンテの神曲の三つの部分ー地獄、煉獄、天国のそれぞれの最後の言葉を イタリア語の星(stella)の複数形を置くことによって、人間はいかなる状況にあっても、あの夜空に、永遠的に輝き、いかなる人間的な汚れにも染まず、また人間世界の最大の悪行となる戦争…等々による闇の世界が取り巻こうとも、決して破壊されず、その清い輝きが衰えることのない唯一の目に見える被造物であり、私たちの霊的な星である活けるキリストをさし示すものとなっています。
以下の集会は対面とオンライン併用が多いです。問い合わせは左記の吉村孝雄まで。
〇主日礼拝 毎週日曜日 午前10時30分から。徳島市南田宮1丁目の集会所とオンライン(グーグル・ミート)
〇 夕拝…毎月第一、第三火曜日夜 19時30分〜21時
@ 天宝堂集会…第二金曜20時〜21時30分
A 北島集会…第四火曜13時〜15時 第二月曜日 13時〜
B 海陽集会…第二火曜日 10時〜12時
主筆・発行人 吉村孝雄(徳島聖書キリスト集会代表)
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〇この冊子は、読者の方々からの自由協力費で作成、発行しています。協力費をお送りくださる場合には、次の郵便振替口座を用いるか、千円以下の場合には切手でも結構です。
郵便振替 口座番号 01630-5-55904 加入者名 徳島聖書キリスト集会
〇http://pistis.jp (「徳島聖書キリスト集会」で検索)