いのちの水 2025年 11月 第777号
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暗闇に住む民は 大きな光を見、 死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。(マタイ4の16) |
目次
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・疲れた者、重荷を担う者 土屋めぐみ |
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アーモンドの花、命
地上世界で最も悲劇的な出来事は、戦争である。
それが大規模となるほどに、世界の多数の国々、また民族やあらゆる年齢層、健常者から病気の重症者とあらゆる人々にそのような苦しみや絶望的な悲しみをも生み出していく。
それは、未来に良き働きを社会になすべく使命がある青年から、老若男女、健常者、病者、障がい者…あらゆる状況の人に及ぶ。さらにそれは、人々の衣食住にかかわる必須のものを提供する農林、漁業や科学技術に関する会社、工場…等々などにも破壊的な影響をもたらす。
そうした戦争は、そのはじまるきっかけはごく少数の自分中心の考えで自分の権力欲、支配欲にとりつかれた者が始めるのである。
そしてそのような権力者が命じて、大量の人々が、もともと敵でも何でもない隣国の見知らぬ人々の命を奪い、生涯を壊してしまう重症を負わせ、その大切な家族関係、住居や施設を破壊するという、普通なら凶悪犯罪であるはずのことを集団ではじめてしまう。
このように おびただしい人々が、本来何の関わりもなかった人々に対する数知れぬ悪行をはじめて、大規模な戦争となると、数千万という人々が殺害され、さらに重症者や家族の深い悲しみや絶望という癒されがたい魂への傷はその後も何十年となく続く。
戦争とはまことに、ありとあらゆる悪の総体である。どこを見ても深い闇でしかない。
しかし、そのようなまったくの闇のただ中でも、神はそのような中でこそ、その真価を発揮するような永遠的な光を見させる。
ここでは、その一例を示す。
それは、ヒトラーの悪魔的な悪行のただ中、絶望してドイツから決死の思いで逃げ出してエルサレムに移住したドイツ生まれのユダヤ人に関してである。
その名は、シャーローム・ベン・コリン。
彼の作になる「しるし」という詩がある。これは、曲がつけられて世界教会協議会(*)や、ヨーロッパで開かれたエキュメニカル(**)な各種集会で寄せられた世界の各国からの讃美集の一部が用いられたが、それらのものを、内容として作られた讃美歌集から、その一部が日本語でも出版された。
それが日本キリスト教団出版局からの「つかわしてくださいー世界のさんび」1、2の二冊である。
我々のキリスト集会ではもうかなり以前から繰り返し讃美に用いてきた親しみ深い讃美歌集である。
この讃美歌となった原詩は、第二次世界大戦のユダヤ人迫害によってドイツを追われたユダヤ人作家が、そのユダヤ人虐殺の恐るべき状況にさらされているさなかに作った作品である。
いかに迫害や戦争が激しくなろうとも、冬の厳しい寒さのただ中に、アーモンドの花が咲くように、神からの永遠の命はわが内に与えられてある。
この主の命こそは、いかなる闇にも勝利する力なのだと。
(*)世界教会協議会 World Council of Churches(WCC)1948年。本部 スイス・ジュネーヴ。世界のキリスト教諸教会の一致と協力を促進する「エキュメニカル運動」の中心的機関。プロテスタント、東方正教会、聖公会など約340教会、120か国以上が加わる。カトリック教会もオブザーバーとして加わる。
(**)キリスト教各派の一致を目指す運動、あり方
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しるし
友よ、アーモンドの枝が 再び花咲き芽吹く、
それは愛が残り続けるしるしではないか。
命は消え去ることはなかった、 どれほど血が叫んでも…。
この滅びることなき命があるのを軽んじてはならない、
最も暗い時代にあっても。
戦争は幾千もの命を踏み砕き、 この世界を滅ぼす。
しかし命を象徴する花は、勝利を示しつつ、
風にそよぎながら咲き続けている。
友よ、アーモンドの枝が 静かに花を咲かせつつ揺れていることは、
命の勝利のしるしとして
私の内にとどまり続けている。
(Das Zeichen 1942年、シャローム・ベン・コリン作 原詩はドイツ語)
これは、簡略化された歌詞で、次のような讃美歌となった。
アメンドウの花が
咲さきました
痛みのなかでも
希望のしるし
花のいのちは
よみがえる
世界に愛は
のこってる
戦はすべてを
うちこわし
傷跡のこす
地のうえに
アメンドウの花を
感謝しよう
主イエスの愛の
しるしです
(「つかわしてくださいー世 界の讃美」1の34)
1942年、シャローム・ベン・コリン(Schalom Ben Chorin, 1913〜1999)はこの詩を書いた。彼はドイツ生まれのユダヤ人宗教思想家・作家。師として仰いだ マルチン・ブーバーと同様に 生涯を通じてユダヤ教とキリスト教の対話、交流に尽力した。
この詩の題名は、「しるし」(Das Zeichen)
戦争と自らの民族の絶滅に関する恐ろしい報せが次々と届く中で、 彼は、1935年にナチス・ドイツから逃れてエルサレムに移住してきた。
そのとき、彼は、絶望し希望を失いそうになるとき、悪しきしるしばかりの状況のただ中で、よきしるしを アメンドウの花を見て、そこから静かなる細き声、天来のメッセージを聞きとって慰められ、励まされたのだった。
あめんどう(アーモンド)(*)は、真冬の時期から春にかけての時期に花を咲かせる。
私は30年近く前の2月下旬に、エジプトからシナイ山登頂を経て イスラエル南部から死海、そしてガリラヤ地方への旅の途中、シナイ山の麓にある、聖カタリナ修道院の庭で、真っ白い花が咲いていたアーモンド(あめんどう)の花を見たが、ほとんど草木の見えないような荒涼たるその修道院の周辺と生き生きしたアーモンドの白い花との鮮やかな対比がいまも鮮明に残っている。
(*)あめんどうは、英名ではalmondで、日本語の表現は、ポルトガル語 (アメンドア)に由来。江戸時代にポルトガルからamendoa(アメンドワ)が持ち込まれたとき、その発音が日本語化されて「あめんどう」となった。
コリンは、イスラエルに逃れてきたのち、イスラエルで最初の改革派共同体(*)とシナゴーグを創設し、キリスト教とユダヤ教の対話の建設者となった。
。
(*)改革派ユダヤ教に属する信徒の集まり。19世紀にドイツで始まったユダヤ教の一派で、伝統的な正統派に比べて礼拝や教義を簡素化し、近代社会に適応しようとした共同体。
あめんどうの花は、預言者エレミヤの時代(紀元前六百年前後)に、すでに、時代の時期を象徴する花であったのがうかがえる。
…主の言葉が私に臨んで言われた。
「エレミヤよ、何を見るか」。
私は答えた、
「アーモンドの枝を見ます(シャーケード shaked)」。
すると主は言われた、
「よく見た。私は私の言葉を成し遂げようと見張っている(ショーケード shoked)」(*)。
(エレミヤ書1の11〜12)
(*) この「アーモンド」の原語 と 「見張る」 の原語は ヘブル語での表示は同じで、発音が異なるだけである。
ここには深い言葉の関連がある。
アーモンドは、冬のさなか、どんな厳しい冬であってもその季節を見守り、時がくればその花を咲かせようとしている。
同様に神は、ユダの国の人々を見つめていて彼らが神の言葉に従わないその状況を変えないならは、厳しいさばきが注がれる。
しかし、彼らがその苦しみの中から真に神に立ち帰って真実に道を歩もうとするなら大いなる祝福が与えられる。
このような神の裁きと共に神の愛による救いの確実なこと、それを告げる神のことばの確実性を、厳しい冬があっても時がくれば確実に花を咲かせるアーモンドと結びつけて語ったのである。
アーモンドの白くて清い花ーそれは通常はやさしく語りかけるような雰囲気がある。
しかし、神はその花のなかに、エレミヤの今後の歩むべき厳しい歩みをも重ねた。
神のさばきと愛を告げ知らせるという困難なつとめをエレミヤに与えたのだった。 このように、荒れ野という自然のただなかに花咲く可憐なやさしいものも、この世界の動きとその背後にある神のことばの力という大いなるものを指し示すのである。
それは、現代の私たちの世界でも変ることがない。
新聞、テレビ、そしてインターネットなどの世界には無数の情報が洪水のごとくあふれている。
しかし、それらの大多数は 永遠からの響きをもっていない。
いかなる事態が生じようとも、変ることなき天来の響き、それは、数千年の昔から現在の激動の、科学技術の進展で昔とは比較にならない大きな変化をしつつある現代にあっても、変ることなく続いている。
しかも、それは移り変わりの激しい政治、社会の状況や難しい学問やインターネット技術、大学など高等教育の有無などいっさい関わりなく、私たちが静まって魂の耳を傾けるとき、大空の青さからのその空に浮かぶ悠然たる雲や遠くの山々からも、さらに、エレミヤに神が示したように、ごく身近な動植物からも 私たちへのメッセージは常に注がれているのである。
イエスも、「聞く耳のある者は聞け」(マルコ4の9)と神からの語りかけを聞こうとすることの重要性を言われた。
また、ユダヤ人たちの経典でもある旧約聖書には、その最初のほうにある申命記という文書に、次のことばは繰り返しあらわれる重要なものである。
…聞け、イスラエルよ。主はわれらの神、主は唯一である。(申命記6の4)(*)
(*)申命記というわかりにくい名称は、日本語訳より先にあった中国語訳の聖書に取り入れられた訳語だからで、モーセが神からうけた命令(神の言葉)を再び申す という意味を持ち、神の言葉を再度 語り、人々の心に刻みつけるという意味がある。
そして、その耳を傾けるべき神の本質は、次の聖書の言葉にあるように、やはり神がモーセに直接に伝えた真実と愛であり,これは万人に通じ、いかなる時代においてもその真価が減じることのないものである。
…主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、
幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。
しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を子、孫に三、四代までも問う者。」
(出エジプト34の6〜7)
この今から三千年ほども昔に神がモーセに与えたとして伝えられてきた言葉は、現代のイスラエルにもそのまま言われている。
彼らが自ら歴史のなかで迫害されとくにヒトラーによって六百万人といわれる多数が犠牲となったが、それ以外にも数々の迫害や困難、冷遇されてきた。
しかし、そのイスラエルの人たちが、ヒトラーの迫害が終わってパレスチナというイスラエルの民と深くかかわる土地にかえってから、神の愛と真実に反する仕打ちを長く住んできたアラブ人たちに行い、その地域から多数のアラブ人を追い払い、土地を奪っていく。
それに対抗して、アラブの諸国もイスラエルが独立した直後に、軍事力でイスラエルを殲滅しようと大挙して戦争を始めてしまった。その後も今日に至るまで、双方の対立が止むことなく、それは世界の動向にまで影響を与えるほどとなってきた。
そのような相互の復讐といった様相を帯びた戦争が長く繰り返されてきたが、その過程では、アラブの国の一つ、エジプトはイスラエルと和解したことがあった。
当時のエジプト大統領 サダトは1979年、イスラエルのベギン首相と「エジプト・イスラエル平和条約」を締結して和解を目指そうとした。
しかし、アラブのイスラム原理主義者たちは、そのイスラエルとの和平条約は、アラブへの裏切りとみなし、サダト大統領を殺害してしまった。
そしてまたイスラエルのラビン首相は、過激なユダヤ人によって暗殺されてしまうという状況で、暴力には暴力の応酬が広がることになった。
このようなパレスチナ地域の長期間にわたる戦争、紛争状況は、まさにとくにイスラエルが、聞くべき神の言葉を数千年来聞かされているにもかかわらず、それをエレミヤの時代のユダの民のように、神の言葉を無視し、人間的な感情や支配者の権力欲で人々を支配してきたゆえである。
今日の問題の根本的な解決は、なにごとも武力で脅迫し合うことから方向転換し、神の愛、正義に心を向けることなのだということなのである。
このことは、すでに述べたように、三千年ほども昔、彼らの経典である旧約聖書に明確に記されていることなのである。
そして、この旧約聖書からすでに繰り返し神のことばとして、「神に立ち帰れ!」が言われてきたが、このことばは、数千年を経た 現在も、そしてこれからも、イスラエルやアラブのひとたちにとどまらず、神からの人類全体への真理のメッセージとしてその語りかけは消えることなく続いていく。
祈りの翼、
翼を持つことば
私はもう50年余りも前に、古代ギリシャの詩人、ホメロスのイリアスを読んでいて、「翼をもつたことば」という表現に初めて接して、それが印象的だった。
その言葉が二千五百年ほどもの歳月を越えて翼をもって私の心に届いたのだった。
翼は、鳥だけが持っているというのが普通の感覚である。
しかし、私たちには、目に見えない翼が与えられている。
私たちの信じる神は、全能だからどこにでも瞬時に達することのできる存在である。その神の愛と真実なる本質を与えられて地上に人となって現れたのがキリストである。
そのキリストを救い主と信じて救われ、魂の平安を与えられたとき、私たちもいかに小さくとも目には見えない翼を与えられたことになる。
翼ーそれは祈りでもある。真剣な祈りであれば、遠くまで達する。神様の力と愛によって祈るとき、その翼としてのはたらきは一層力あるものとなる。
イエス様の真実な祈りは二千年の歳月を越えて、現代の私たちにまで達した。
イエスの祈りやその語られたことば、そしてその存在自体が、無限のつばさをもった存在として一人一人の深い心のうちにまで来てくださる。
旧約聖書においても、神のことばはさまざまの人に与えられてきたが、その中でとくに世界の歴史にも大きな影響を持つようになったのが、モーセであった。
彼は、ヘブライ人であったが、エジプトの王子として育てられていた。しかし、ある時、同胞がエジプト人から苦しめられているのを見てそのエジプト人を殺害して助けたが、それが発覚したと知り、エジプトから逃れて遠いミデアンの地に達して地元の女性と結婚し、平穏な羊飼いの生活をしていた。
そのようなモーセに、神の言葉はつばさをもった言葉のよう彼の魂に届き、歴史的にきわめて重要となった使命が伝えられたのだった。
こうしたつばさある言葉がモーセに与えられなかったなら、イスラエル民族は、エジプトにおいて、奴隷状態として酷使され、生まれた男の赤子はナイル川に投げ込まれるといった状況ゆえに滅びさってしまったはずだった。
その民が、神の遣わした預言者モーセによって神の全能の力の一端が与えられ、大国エジプトから、何も武器弾薬もない奴隷状態の民を助け、導き出した。
そして神の言葉が与えられるシナイ山に達したとき、次のように神は語った。
…あなたがたは、私が鷲の翼に載せて私の所にこさせたことを見た。
(出エジプト記19の4)
神ご自身が鷲の翼に乗せて導き出したとあるが、これは比喩的表現で、神は全能ゆえ、神ご自身が霊的、かつ完全な翼をもっているゆえ、神ご自身が見えざる翼となって人々を運んだのである。
人間よりはるかに下等な動物とみなされている鳥類、さらには昆虫の一部にも、驚嘆すべき能力のある翼や羽を持っているものがある。トビ類は羽を上下前後に驚くべき繊細な動きと速さで動かし、その反作用と翼の形状による揚力によってあのように長時間の飛翔、滞空、水平飛行などができ、しかも、とくにトビなどはその飛ぶ姿そのものが優雅、かつ美しく、青い大空を背景として悠々と飛ぶ姿は、全能の神の御手による驚くべきものと感じさせるものがある。
私自身、翼があるなど、比喩的にも考えたこともなかったが、全能と愛の神がおられることを信じるようになって、人間にも 目に見えない翼が与えられていると感じる。
それは祈りという翼であり、聖なる霊(聖なる風)が存在して生きて働いていることを知らされてきたからである。
私たち人間は、動物とことなり、見えないものを想像して、その想像力が生き生きして力あるときには、実際にその場に行ったような感動をもうける。優れた文学作品などを読んでうける感動もそれと似ている。
神はいまから60年近く前に、突然私の心の深いところに 目には見えない翼によって来てくださったる。
神は、はるか昔から、同様に、思いがけない人、だれもまた本人自体、予想もしていない人のところにもその全能の翼をもって飛んで来られる。
そして、その人の生涯の方向を全面的に転じさせる。
そしてひとたび、活ける神を信じるようになったときから、祈りという翼によって私たちは遠くの人たちの心に近づくこともできる道を与えてくださった。
神様のお心にさえ近づくことができるゆえに、人間に対しても、いかに遠くにいる人であってもその祈りが切実で真剣なほどに、相手の人の心に近づく。
じっさい、その具体例として、聖書における詩篇は、三千年ほども昔につくられたものであっても、現代の私たちの心に、翼を持つ言葉によって達している。
神の霊的な翼とは、どんな遠くでも、またどのような障壁があってもそれをも越えて一瞬にして運ぶ神の全能を意味する。
また、目に見えないところー人間の心、精神、あるいは魂といった深い部分にさえ神の翼あることばは達するのである。
他方、悪意ある言葉、闇の力そのものもまた、そうした特別な力をもって一時的ではあっても、悪の翼を広げ、人間精神の深くに入り込み、さらにはそれが周囲の人間にも広がっていくことも歴史をみると、数多くある。
それが戦争であり、ヒトラー、スターリンのような いかに多数の人々が死んでも、また重傷を負って、生涯苦しまねばならなくなっても、何の痛みも感じないような人間をも生み出すことがある。
しかし、神の翼によって守られ、それに乗せられて運ばれるときには、そうした悪の大気が充満しているときにあっても、そのただなかを汚されずにとおっていくことができる。
また神の翼は、次のようなはたらきももっている。
神の愛の光は、この世界には、目には見えないが広がっている。そのひろがりは、翼とも言われている。
ニワトリなどの鳥類はその翼は弱きもの、愛するものを覆って寒さや敵から守るという愛の象徴ともなっている。
旧約聖書の最後におかれている預言者には次のような言葉がある。
…わが名を畏れるあなたがたには、義の太陽がのぼり、
その翼には、いやす力を備えている。(マラキ書4の2)
「その翼には癒しがある」とは、太陽の光線が地上に降り注ぐように、神の救いと癒しが人々を翼のように愛をもって覆っていることを示す珍しい表現である。
義の太陽、霊的な太陽は、この世に満ちている悪の力を滅ぼす正義に満ちていて、悪を滅ぼしたのちに、その光は、翼のように世界を覆い、その愛による癒しを与えるという預言であり、これがそれから四百数十年年ほど後に現れるイエスを預言するものとなった。
聖書には神の愛を指し示す表現として、つぎのようなさまざまのことばが記されている。
…主なる神は、太陽であり、盾である(詩篇84の11)、
…主はその羽であなたを覆う(同91の4)
などと、どのようなことばによっても表し得ない神の本質を何とか伝えようとする詩篇作者の思いが感じられてくる。
いったい、この世界のどこに、太陽の光のような強力な、そして不滅で、全生命をはぐくむような愛があろうか。
人間の愛はいかに熱烈であっても たちまち消滅、または変質していく影のようなはかないものにすぎないのと大きな対照となっている。
こうした神の愛を伝えることばは、それもまた、翼をもったことばとして 過去数千年を通じて、全世界に行き渡り、現在も大きな翼で人々を守り続けている。
私は子どものとき、父が副業としてニワトリを数百羽飼育していて、一部は家が山を登ったところにあったため、放し飼いにしていた。そこでプリマスロックという白黒の模様のある品種を飼って卵を生み、ヒヨコが生まれ、それを育てていくのをつぶさに観察する機会が与えられた。
聖書における翼の記述が 神の愛と守りを象徴的にあらわすものとして 二千数百年から三千年ほども昔の詩的文書にしばしば現れるのも、目に見えるその姿が見えざる神の愛をほうふつとさせるものがあるからであろう。
やはり、人間は動物を目で見て、肌で触れ、その声を聞きつつ、育てるということは 本質的に重要なことであるが、残念なことに現在の教育は、そうした生きた自然の姿に触れることなく、命の脈動のない、データの膨大な集積の産物にすぎないコンピュータ、インターネット、生成AIなどによる結果の言葉や画像等々に接するばかりである。
しかし、そのような状況であればこそ、神はつばさのように私たちを守るーそしてどんなところにもそのご意志によって入っていき救うことができるーこれは現在もますますその必要性が痛切なものとなってきつつある。
神の愛は、翼をもち、最も弱い、見捨てられた人、また死に至る重い病の人、だれ一人語りかけてくれる人もいない孤独にある人の魂にも達するし、そこでいのちの水を与え、また、どこまでも魂の深みまでも吹き込む大いなる風でもある。
心に残っている御言葉 「疲れた者、重荷を負う者はだれでも…」
土屋 めぐみ(千葉)
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。」
(マタイ11の28)
「私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。」 (同30)
「あなたの重荷を主にゆだねよ。主はあなたを支えてくださる。
主は従う者を支え 永遠に動揺しないように計らってくださる。」(詩篇55の23)
二か月ぐらい前のこと。とても心に引っかかって気になり、あれこれ悩む事柄がありました。
みことばをくださいと、まず力づけてくれるであろうみ言葉を次々と一生懸命に、心に思い浮かべます。
その中で、特に心に残ったみことばがこの二つでした。
それと同時に、思い出したことがありました。以前、徳島で行われた「無教会・キリスト教全国集会」の時に初めて見た手話讃美のことです。
曲名は忘れてしまったのですが、その動作は今でもはっきり覚えています。それは、自分の足下にある重い荷物を両手で持ち上げ、左の肩に持って行く動作でした。 皆さん晴れ晴れとした表情だったので、持ち上げるというより、躊躇せずに自分の重い荷物を肩のほうに放り投げるという感じでした。 それを見て、ハッとしました。
自分の重荷を自分で抱え続けるのではなく、神様のほうに放り投げてしまうのだと見えたのです。
半信半疑のような中途半端ではなく、思い切って神様に放り投げるという動作を見て、神様に委ねるということは、自分の心を全てお任せするということなんだと教えてもらったようでした。
神様はイエス様をこの世に遣わしてくださいました。そのイエス様は、心の貧しい人や寂しい人、困っている人に寄り添って、温かい愛を教えてくださいました。イエス様は、苦しい十字架の上でとりなしをしてくださいました。
そして、イエス様が天に帰られた後は、聖霊を助け手として私たちに残してくださいました。
また、今までも私にとって大きな問題に直面していた時に、神様は確かに助けてくださいました。そういう神様だからこそ安心して、今、自分の抱えている重荷を神様に投げてしまおうと思えてきました。
自分の力を頼みとして、今の状況を何とかして変えようとするのではなく、パウロも
「しかし、働いたのは、実は私ではなく、私と共にある神の恵みなのです。」
(Tコリント15の10)
と言っているように、神様が働いてくださるのだから、重荷をすっかり預けて信頼していようと思えました。以上です。
大塚正子(北海道)
「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶ。
主は彼らを苦しみから救ってくださった。
主はまっすぐな道に彼らを導き…
主は慈しみ深く
人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。」
(詩篇107の6〜8)
私が20数年前に主人の発病でうろたえていた時に、ひたすらに御言葉を探しました。そしてその中で、しおりに書き出していたものがあります。
その中で2つの御言葉のしおりが今も私の聖書に差し込まれています。
このことを通して前にお話ししたかもしれませんけれども、私は詩編107編を読み、見事にこの御言葉が、私に神様がくださった御言葉だったことを再度思うことができました
この107編を声出して読んでいるうちに、これまで神様が一方的な愛を恵みを私にくださっていた、そしてここまで来たということを本当に心から思いました。
しおりにある御言葉は、箴言5の21「人の道は主の目の前にあり、主はその道筋のすべてに心を配っておられる。」もう1つは 第一コリント15の58「堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。」
この2つのしおりが今も私の心に残っているみ言葉ですけれども、これを通して この107編が本当に私は示されたことがありました。箴言は本当に実践的な倫理的な書であって、そして詩編というのは信仰の書であるという文字を目にした時に、私は本当に実践的な御言葉を求めて、この御言葉を選んでいたということが今、本当にはっきりと私に示されました。そして詩編を通して読むうちに、神様から何で今頃気づいたのかと言われそうだけれども、信仰を持たない友にも心から神様に守られてきたことを伝えられ、そして一人でも多くの方に神様の御業をお話ししていきたいなという心が溢れてきました。以上です。
〇第52回 瀬棚聖書集会の開催について
・期日… 11月26日(水)午後8時〜28日(金)まで。
・場所…瀬棚という地名の集会で、それは北海道の南西部の日本海沿いの地域である地域での開催ですが、そこから17キロほど内陸部に入った今金地域にある日本キリスト教団利別教会にてもオンライン集会と一部対面の集会となっています。
初日の26日(水)は午後8時からの開会式、自己紹介などがあります。
今回の瀬棚聖書集会もオンライン併用で、今までのスカイプが廃止されたのでグーグル・ミートが用いられます。これはすでに徳島聖書キリスト集会では主日礼拝や家庭集会などで用いています。
参加希望者でグーグル・ミートをつかったことがない方は、徳島聖書キリスト集会の吉村孝雄まで、左記の電話、メールなどで問い合わせください。担当者によってパソコン、スマホでどなたでもできるように詳しく説明がなされます。
また、申込と共に、直接に、グーグル・ミートのことも、次の野中さんに問い合わせることもできます。この瀬棚聖書集会に参加希望の方は、この集会責任者であるつぎの野中さんあてに申込ください。

申込されると、当日のグーグルミートのアドレスが野中さんから送られることになりますので、当日はそのアドレスを用いて、いつもの日曜日や家庭集会に参加するのと同様な手順で瀬棚聖書集会に参加することができます。
〇9月23日に、徳島聖書キリスト集会所とオンラインで開催された「祈りの友・合同集会」の録音CDが数度勝茂さんの御愛労によって作られています。
それを希望の方は、吉村まで申込ください。送料ともで五百円、古い未使用の切手でも可です。
「祈りの風」誌にもその記録はありますので内容はだいたいわかります。
しかし、録音では、その方の声音、話し方、現在の健康状態もある程度反映されますので、はなされた方の現在の状況を思い浮かべつつ聞くことができます。
参加してない方、祈りの友会員でない方からの希望もあります。
〇最初の文に紹介した、「あめんどうの花」という讃美の曲、歌を聞きたい方は、連絡あればメールで送ることができます。
〇クリスマス特別礼拝は、12月21日(日)の午前10時からの開催です。
〇発送作業日の変更
今まで、第二水曜日の午後に「いのちの水」誌や「野の花」などの発送作業を有志の方々とともにやってきましたが、いろいろな都合から今後は、原則として第二日曜日の礼拝終了後におこなうことになりました。

「祈りの友・合同集会」の録音を聞いて
9月23日の秋分の日に毎年おこなわれてきた「祈りの友・合同集会」の全部の内容の録音CDを今朝、妻を徳島市の集会所から、小松島市のデイサービスに送っていく途中で聞いていて、運転中であっても、心に深くとどいてきました。
当日に語っておられる方々の祈りが、運転中でも水の流れのように、あるいは霊的な風のように心に入ってきたのを感じたことです。
10月に「祈りの風」という「祈りの友」会報ができたので、それはすでに読んでいたのでしたが、印刷されたものには、その人の声音、身心の痛みや疲れなどは直接的には現れないけれど、録音では、とても身体が病気で苦しい状況にあるということが実感されることがあり、また長年ともに歩いた配偶者が召された方の言葉には、その喪失感と共にそこに注がれる主の愛によって歩む姿がにじみでています。
語ること自体が苦痛となっている状況にある方が、精一杯語ってくださるというそのことに、背後で支えておられる主を感じることもあります。
車の運転中に、録音CDを聞きつつ、 祈りの風(霊)は、どのようなときにでも、私たちの心に吹き込んでくるのを感じました。
〇要介護4となった妻の介護のために時間と労力が多くとられるようになり、そのため、従来できていたことが難しくなっていることがいろいろとあり、発送作業日の変更もその一つですが、いろいろと集会の方々に助けられることもあってなんとか続けることができていますのは大きな感謝です。(T・Y)
以下の集会は対面とオンライン併用が多いです。問い合わせは左記の吉村孝雄まで。
〇主日礼拝 毎週日曜日 午前10時30分から。徳島市南田宮1丁目の集会所とオンライン(グーグル・ミート)
〇 夕拝…毎月第一、第三火曜日夜 19時30分〜21時
@ 天宝堂集会…第二金曜20時〜21時30分
A 北島集会…第四火曜13時〜15時 第二曜日 13時〜
B 海陽集会…第二火曜日 10時〜12時
第52回 北海道瀬棚聖書集会 「祈りの友・合同集会」録音CD
主筆・発行人 吉村孝雄(徳島聖書キリスト集会代表)

〇この冊子は、読者の方々からの自由協力費で作成、発行しています。協力費をお送りくださる場合には、次の郵便振替口座を用いるか、千円以下の場合には切手でも結構です。
郵便振替 口座番号 01630-5-55904 加入者名 徳島聖書キリスト集会
〇http://pistis.jp (「徳島聖書キリスト集会」で検索)