いのちの水 第677号(毎月1回発行) 2017712日発行 


主をたたえよ。日々、私たちを担い、救われる神を。(詩篇6820


 

目次

小さき群れよ、恐れるな

十字架-草にすわる、銀河鉄道

苦しみから光へ-詩篇56

・休憩室-この頃の星

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リストボタン「小さき群よ、恐れるな」

 

 人生とは、何かをおそれつつ歩むことだ。人間やこの世のさまざまの出来事を恐れつつ生きるか、それとも神をおそれつつ歩むか、のいずれかになる。

 人間やこの世のことを恐れるのは、だれにでもあって、すぐにわかる感情である。

 悪意をもって向う者、暴力をふるったりする人間、マムシなどの毒へビ、あるいは猛獣などを恐れるのは自然の感情である。

 だが、他方、神をおそれるということの深い意味は、なかなかわからない。人生をいくら生きてもなお、わずかしかわかっていない。

 それほど奥深い意味のあることゆえに、聖書においても、繰り返し、この二つのおそれについて言われている。

「(人を)恐れるな。」、「神をおそれよ」と言われている。

 「主をおそれることは、英知のはじめである。」(蔵書17

 イエスは、12弟子たちをこの世に送り出すときに、「恐れるな!」と強調されている。

 主は、弟子たちに、「オオカミの群れに羊を送り込むようだ」と言われた。

 たしかにこの世は、純真な者、正しく、真実であろうとする者を苦しめ、滅ぼしてしまおうとする力が働く。

 子供同士であっても、また職場やだれもがもっている人間関係のなかで、何らかの不正を見いだしたときそれを指摘すると、激しい敵意がふりかかることがある。

 戦前などでは、戦争自体に反対などと言えば、逮捕されるほどであったし、江戸時代から明治のはじめ頃までは、キリストを信じるだけで、強大な国家権力が襲いかかってくる-オオカミのように呑み込もうとするーということがあった。

 

 「人々を恐れるな。… 体を殺しても魂を殺すことのできない者を恐れるな。

むしろ体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。…

 二羽のスズメの一羽さえ、あなた方の父あなた方は髪の毛までも数えられている。

だから恐れるな。」(マタイ福音書102631より)

 

ここでは特に、キリストに従っていったがゆえに受ける迫害について書かれている。キリスト教信仰を持っていると言うだけで、世界の各地で現代では想像することもできない苦しみを受けた長い時代があった。

 さまざまなこの世の苦しみは、自分にも何がしかの原因-罪があると気づかされることも多い。

 しかし、キリスト教の迫害の時代にあっては、何もわるいことをしていないのに、キリストを信じるだけで苦しめられたのである。

 主イエスは 「体を殺しても魂は殺せないものを恐れるな」と言われ、すずめが空から落ちることさえ神の御意志がかかわっていると言われた。また髪の毛までも数えられているとは、どんなことがあっても、神の守りの中にあるということである。

 不信は恐れを生じさせる。神が全能で愛であると信じていないからおそれが増幅されるのである。

 聖書の最初の部分に、すでに「恐れ」が何から生じるかという重要な問題が記されている。それは間違い(罪)を犯すと神を恐れるようになるということである。

 

…その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。

アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。

「どこにいるのか。」彼は答えた。

「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」(創世記三・810

 

 アダムが、神に「食べてはいけない」と言われていた木の実を、神に背いて食べてしまった。それから神を恐れはじめた。神が園の中を歩いたら、神の顔を避けて隠れたのである。 神は愛であるから、本来なら、つねに共にいていただきたいお方である。しかし、避けて隠れた。神は全てを知っていたが、あえてアダムに「どこにいるのか」と言われた。現代の私たちに対しても、神は常に、「どこにいるのか」と問いかけておられる。

 アダムは神に対して「足音が聞こえたのでおそろしくなった」といった。神のことばに背いたら、急に神が恐ろしくなる。

 誰かに対して嘘をついたり悪しきことをすると、相手に対してある種の恐れが生まれ、顔をあわせることを避けるようになる。

 わたしたちが、何かを、また誰かを恐れると言うときは、神は愛であり、正義の神がおられ、いまも世界を御支配されているということを深く信じていないからである。

 信仰を与えられて何十年を経てもなお、私たちの神への信頼、全能の神を信じるということは、とても不十分なものでしかない。

 主イエスも、弟子たちに対して、つぎのように言われた。

 

…するとイエスは言われた、「あなたがたの信仰が足りないからである。

よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移る。

このように、あなたがたにできない事は、何もない。 (マタイ1720

 

 神への信仰、信頼があるとき、決して動かない、どうすることもできない-といった事態も変る。神が変えてくださると確言された。

 絶えず何かを恐れている私たちのその恐れ-心の奥深くに巣くっている恐れをも取り除いてくださる。

 神へのからし種ほどの信仰があれば-神はできないと思われていることを成し遂げてくださるという。人間の信仰は、神からみればごく小さなものでしかない。

 人間の正義や真実なども神の完全な正義や真実のまえには、なきに等しい。

 同様に、人間の信仰は神の前には、どれもみななきに等しいような小さなものでしかない。

 しかし、そのような取るに足らない信仰であっても、幼な子のような心で主を愛し、主を仰ぐだけで、不純な心、罪深い本性を取り除いてくださり、そのかわりに、聖なる霊を与えてくださる。

 そしてその聖霊が恐れを除いてくださる。

 聖霊はキリストの霊であり、キリストは愛であるゆえ、聖霊も愛そのものである。それゆえ最大の神からの恵みでもあるゆえ、つぎの有名なアメイジング・グレイスの歌詞にも示されている。

 

'Twas grace that taught my heart to fear,

And grace my fears relieved

(Amazing graceより)

 

 (訳文)私に(神を)おそれることを教えてくれたのは、神の恵みだった。

そして、その恵みが、私の(この世のさまざまのことに関する)恐れを取り除いてくださった。

 

 神の恵みの最たるものは、ただキリストを信じるだけで、人間の根本問題である罪を赦し、清めてくださり、聖霊をくださるということである。

 その聖霊が、私たちの人間的な思いを越えて、悪しき人に対する教えを取り除き、恐れから解放してくださる。

悪を行なうような人に対しても、神を思い、祈りの目で見るとき、聖霊の力によって恐れは消えていく。

 この詩からは、アメイジング・グレイスの作詞者、ジョン・ニュートンの偽らざる実感がつたわってくる。

 奴隷船の船長として数多くの奴隷の輸送にかかわり、その過程で重い罪を犯してきたのを実感し、思い返すたびにその罪の重さとさばきへの恐れがあった。

 そうした過ぎ去った罪を人間はどうすることもできない。ただ神の一方的な憐れみにより、恵みによってのみ赦され、魂の平安を得ることができる。

 「恐れるな」と言ってくださる方を、わたしたちは、ただ、信じたらいいのである。神はわたしたちを「あなたはわたしのもの」と言ってくださる。たとえ、死んでもわたしのものだと言ってくださり、いつも、共にいてぐださる。

 主イエスは、エルサレムに入るとき、みすぼらしくめだたない、子ロバに乗って来られた。立派でなくていい。一番にならなくてもかまわない。主イエスはそのような取るに足らないようなものを用いられる。

…小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。(ルカ1232)と言ってくださる。

 苦しい時であっても、この言葉があれば、わたしたちは救われる。たとえ、失敗しても神に立ち帰るとき、神の国をくださる。苦しみの中にあっても神の国を下さる。

 そして、イエスは、「恐れるな」といわれただけでない。ここには証しをすることの重要性が示されている。神がしてくださったことを黙っていてはいけない。キリストに従っての言動によって恥を受けても、主イエスの故に恥を受けることを喜ぶべきである。

 弱さのために、言えない人もいる。また、黙っていることは楽である。しかし、そのようなことはだれにもあり、人間への恐れからくるゆえに、恐れるな!と言われている。

 このことは、単にイエスの12弟子たちに言われたのでなく、どの時代にあっても、現在であってもつねに言われていることである。人を恐れるな。神をおそれよ。と。

 厳しい迫害のなかでも、審問されたときにも、はっきりキリスト者だと公言し、殉教していった人たちが歴史のなかで多く記されている。

 現代の私たちにとって、そのような恐ろしい拷問などに耐えることなど到底できないと感じる。

 しかし、そのような苦しみに耐えることができなかった人であっても、神はその人を厳しい迫害でつかまる前には、多くの人たちに伝え、証ししていった人たちもいる。

 また、そのような殉教者たちを、神が起こしたということを考えるだけでも、私たちの心は引き締まる思いがする。

高い山は見上げるだけでも心が引き上げられる。

 命がけでキリスト者であることを表明した人たち。「わたしは、キリスト者です」このひと言に、どれだけの苦しみをうけたか。その苦しみを経て彼らが信じたキリストが伝えられ、神の言葉がずっといのちのことばとして伝えられ、キリストの福音は伝えられていった。

 「小さき群よ、恐れるな!父なる神は求める者に喜んで神の国をくださる。」このキリストの励ましと約束のことばを私たちもどこまでも心にとどめておきたいと思う。


 

リストボタン十字架-草にすわる、銀河鉄道

 

 一般の人々においても、キリスト者はわずか人口の1%にも満たないという世界的にも特異な状況にある日本においても、十字架といえばキリスト教というほどに、全世界で十字架はキリスト教のシンボルとなっている。

 十字架は国旗にも用いられている。

 スイス、デンマーク、フィンランド、ノルウェー、スエーデン、アイスランド、イギリス連合王国(イングランド、スコットランドの国旗も十字架を含む)、ギリシア、ドミニカ、まだ他にもあるが、さらに、アメリカの国旗は星条旗だが、フロリダ州やアラバマ州の州旗には、十字架が描かれている。

 赤十字病院のマークは、赤十字創始者のアンリ・デュナンがスイス人であったことから、スイスの白十字の赤と白を逆にした赤い十字架となっている。それゆえに、赤十字の十字架、工事現場などにみられる緑十字なども、そのもとは、キリストの十字架にある。

 このように、特定のマークが、国旗、州旗などと十字架が世界的に用いられ、ブラジルでは、高さ40メートル、両手を左右に大きく広げた長さは30メートルの巨大なキリスト像があるが、これも十字架を象徴する姿となっている。

 こうした十字架は、キリストが十字架状にした木に釘で打ちつけられて処刑された残酷な場面がもとにある。

 そのようなだれにとっても見たくもない、その光景を思い浮かべるほどぞっとするような恐ろしい状況である。

 にもかかわらず、それが全世界で知られるようになった。しかもそれは、いまわしい暗いものとしてでなく、神の愛の象徴として仰ぎみられるようにさえなった。

 十字架がそのように深い意味をもって用いられるようになったのは、その十字架はキリストが私たちすべての人たちを、その魂を方向転換させて神のもとに招くためだったからであり、過去二千年の間、そのような大いなる転換をさせていただいた人間が無数に現れてきた。

 それゆえ、この十字架の重要性と不可分に結びついているのが、私たちのさまざまの間違った心やそこからでる悪しき言動-罪である。

 神の完全な清い状態や愛、そして正義-それに比べるとき私たちの日々の心や言動はなんとそこからはるかに遠いことであろう。

 その遠さは、静まることなしにはなかなか分からない。静かに自分を突き放し、主に引き上げられて自分の過去の心の思いや言動を主にあって冷静に見つめるとき、ようやく日頃気づかなかった私たちのまちがいに気づかされることがある。

 このような心の世界は、つぎの詩が簡潔に、余韻深くあらわしている。

 

草にすわる

 

わたしのまちがいだった

わたしのまちがいだった

こうして草にすわれば それが

わかる (八木重吉)

 

 しずかに草にすわる-もし座れるような草原が身近にないなら、室内でも、また山中でも。

 しかし、とくに自然という純粋な神の御手になるもののなかで、静まるとき、神は私たちの過去から現在への状態を浮かび上がらせる。

 そうしたとき、私たちはいっそうキリストの十字架に心ひかれる。

 どうしようもない私たちの弱さや間違い-罪をになって消してくださることをあらわすキリストの十字架。

 国旗や赤十字などとして社会的に広く用いられるとともに、一人一人の静まった魂の奥深くにおいて現れる十字架。

 宮沢賢治の 「銀河鉄道の夜」にも次のように十字架が現れる。

 

…にわかに、車のなかが、ぱっと白く明るくなりました。

見ると、もうじつに、金剛石や草の露やあらゆる立派さをあつめたような、きらびやかな銀河の河床(かわどこ)の上を水は声もなくかたちもなく流れ、その流れのまん中に、ぼうっと青白く後光の射した一つの島が見えるのでした。

 その島の平らないただきに、立派な眼もさめるような、白い十字架がたって、それはもう凍った北極の雲で鋳たといったらいいか、すきっとした金いろの円光をいただいて、しずかに永久に立っているのでした。

 「ハルレヤ、ハルレヤ。」前からもうしろからも声が起りました。ふりかえって見ると、車室の中の旅人たちは、みなまっすぐにきもののひだを垂れ、黒いバイブルを胸にあてたり、水晶の珠数(じゅず)をかけたり、どの人もつつましく指を組み合せて、そっちに祈っているのでした。

思わず二人もまっすぐに立ちあがりました。カムパネルラの頬は、まるで熟したりんごのあかしのようにうつくしくかがやいて見えました。

 (「銀河鉄道の夜七、北十字とプリオシン海岸」)

 

 この描写には、十字架に対して限りなく清く、高いものとされているのが感じられる。

ダイヤモンド、草の露、あらゆる立派なものを集めたような川床を水は流れ、その真ん中に、後光が射している島、その頂上に、目も覚めるような白い十字架、それは金色の円光があり、静かに永久に立っている…。

 十字架の永遠性、何ものにも汚されない純粋さ、その静けさから、この世界全体に声なき声が周囲へ響いている。このような情景は、詩篇19篇を思いださせるものがある。

 私たちも、草にすわり、あるいは部屋にて祈りに静まるとき、十字架の比類ないその意味-神の愛がつたわってくる。

 


リストボタン苦しみから光へ-詩篇56

 

2 神よ、わたしを憐れんでください。

わたしは人に踏みにじられています。

戦いを挑む者が絶えることなくわたしを虐げ

3 陥れようとする者が

絶えることなくわたしを踏みにじります。

4 恐れをいだくとき

わたしはあなたに依り頼みます。

5 神の御言葉を賛美します。

神に依り頼めば恐れはありません。

肉にすぎない者が

わたしに何をなしえましょう。

6 わたしの言葉はいつも苦痛となります。

人々はわたしに対して災いを謀り

7 待ち構えて争いを起こし

命を奪おうとして後をうかがいます。

8 彼らの逃れ場は偶像にすぎません。

神よ、怒りを発し

諸国の民を屈服させてください。

9 あなたはわたしの嘆きを

数えられたはずです。

あなたの記録に

それが載っているではありませんか。

あなたの革袋にわたしの涙を

蓄えてください。

10 神を呼べば、敵は必ず退き

神はわたしの味方だとわたしは悟るでしょう。

11 神の御言葉を賛美します。

主の御言葉を賛美します。

12 神に依り頼めば恐れはありません。

人間がわたしに何をなしえましょう。

13 神よ、あなたに誓ったとおり

感謝の献げ物をささげます。

14 あなたは死からわたしの魂を救い

突き落とされようとしたわたしの足を救い

命の光の中に

神の御前を歩かせてくださいます。

 

 この詩は、苦しい中からの叫び、祈りが書かれている。詩篇はまず詩が作られた後に、メロディに合わせて歌われていたもので、賛美歌や聖歌の歌詞に当たる。なぜ人間の言葉が神の言葉になったのか。詩は人間の悲しみや苦しみ、喜びなどの心の動きが書かれている。一人一人の悲しみや賛美、祈り、あるいは政治や社会的な権力などは、すべて神の支配下にあるというような内容もある。

 このように内容は多様であるが、共通して言えるのが、普遍性があるということである。

 永遠性と普遍性。真理というものはこの二つを持っている。その背後には神がいて、このような叫びや苦しみを通して神の御計画、その真理を示すというご意志がある。

 この詩は全て一人称で善かれている。最初に「私を憐れんで下さい」とある。このひと言は、ヘブル語では、ホンネーニ(私を憐れみたまえ)・エロヒーム(神よ)という(*)

 

(*) ホンネーニは、ハーナン(憐れむ)という動詞の命令形に、「私を」を意味する語がついた形である。ヤハウェの短縮形の一つである ヨと、ハーナン(憐れむ)から作られた言葉 ヨハーナン(主は憐れみ)からヨハネという名前ができた。英語でジョン、あるいは、ジエインという名前も、ヨハネという名前に由来する。このように、ヨハネ、ペテロ(ピーター)、ヤコブ等々のキリストの弟子の名前が、世界に広がっていったが、それもキリスト教が世界に伝えられていったことによる。こうしたところにもキリストとその弟子たちの影響力の大きさが示されている。

 

 このように原語だと短く引き締まった力強い感じがある。

ギリシャ語ではキリエ・エレーソンで新約聖書にも出てくるし、ミサ曲にも含まれている。

 「主よ、憐れんでください!」という叫びは、新約聖書のなかに、キリストに対しての祈りや叫びとしてしばしばみられるが、その源流は、旧約聖書のとくに詩篇にある。

 この簡潔な一言が全体を表している。追い詰められて苦しいとき、何も考えられないほどの苦しみや悲しみのきわみには、この一言の叫び、祈りで足りる。

 そのひと言しか言えない苦しみを主は深くわかってくださる。

 またこの一言が言えるということが大きな祝福である。詩篇がなんとなく、よく分からないというのは、訳語の問題もあるが、詩篇は生きるか死ぬか、というギリギリのところで書かれていることが多いので、私たちも追い詰められた状態になるほど、詩篇の言葉がしっかりと浮かび上がってくる。

 

 3節に絶えることなくわたしを踏みにじります。とあるが、「絶えることなく」という部分は、口語訳聖書で「ひねもす」と訳されていた。しかし、現在は、このような言葉を使わない。

敵対する者があって、虐げられている状況にある。現代でも小さな子どもながらもいじめにあい、存在を踏みにじられ生きてけないということがある。しかしいくら制度を変えても、学校をきれいにしても、根本的に力を与えるものにはならない。

 できるだけよい制度にすることはもちろん大切であるが、制度をいかに整えても、悪に耐える力は生まれない。また悪しきことをする人間への祈りなども生じない。

 そのような心の力は制度や教育では生まれないのである。

 そうした、困難や悪の力の攻撃に耐える力は神から来る。

神様どうか憐れんでください!と、真剣に祈って、それによって神の力を受けるほど、踏みにじられてもつぶされない。それは詩篇に記されている魂の実感である。

この詩の作者は、踏みにじられている恐れのただ中から、神様によりたのみ、神の御言葉を賛美できるということを知っている。このように恐れや敵対するもの、その他人間以外にも、山積する仕事や、病気に追い詰められたりということがよくあるが、そこで神様によりたのみ、そこから賛美できる。そして神により頼むほど、踏みにじられても、肉に過ぎない者は何もなしえないという確信へと導かれていく。

 

 5節の後、なぜ段を落として書かれているかというと、当時知られていた讃美を引用して書いているからである。苦境の時に神の言葉に寄りすがって乗り越えようとしている。今の私たちもそうで、聖書の言葉や詩篇や讃美歌によって、苦しいときに人間の言葉でなく、神の言葉になんとか寄りすがって、それを乗り切ろうとする。人間の言葉や励ましも、もちろんそれなりに意味があり、大きな力にもなるが、死が迫って来ているなど、本当に追い詰められたときには、人間がどんなに頑張っても難しい。神様に心を向けて、その人が神様からの何らかの憐れみや励ましを受けなければいけない。その橋渡しをする人は確かにいる。死の間際の人には言う言葉がない。しかし、憐れんでくださいと共に祈ることはできる。

 

 こうした苦境のときに、神の言葉によって乗り越えていくことは、イエス御自身もすでになされたことである。イエスがこれから神の子として御言葉を伝え、最終的に十字架につくという険しい道を歩く最初に何があったかというと、サタンの試みにあった。(マタイ四)

 サタンの試みに対して、ご自分の言葉で言わないで、聖書にこう書いてあると、神の言葉を引用して、神の言葉によってサタンの誘惑を乗り越え、勝利していった。

 私たちも何によって勝利、前進していくかというと、人の言葉でなく神の言葉によってである。何か苦しいことがあったときに追い詰められたら、酒や娯楽によって一時しのぎをしようとする。しかしそれは一時逃れとなり、前進する力は与えられない。そしてそのような方向に深入りするとき、前進ではなく退歩となり、さらなる闇に落ちていくことも多い。

 

 6節はわかりにくい。これは彼らはいつも私の言葉をねじ曲げて、それによって自分の言葉が苦痛になるということである。(英語訳では They are always twisting what I say.

 悪の力、この世の力は、絶えず言葉によっても、行いによっても真理を攻撃しようと待ち構えている。これは職場でも日常でも起こることである。この詩の作者の逃げ場は神であり、神の言葉である。しかし、真理に敵対する者の逃れ場は偶像-人間や権力、策略、暴力、武力等々 である。

 

 9節はこのような表現はこの箇所にしかないので、よく知られている。「嘆き」は「さすらい」とも訳される言葉である。非常に耐えがたいような動揺、嘆き、さすらいを神様だけが知ってくださっている。

 人間はいくら家族でも、深い悲しみは分からない。身近な人ほどかえって分からないこともある。そのような悲しみを神様はひとつひとつ数えて、覚えてくださっている。

 悲しみの涙、その一滴一滴すらも、その意味を知ってくださっている。私たちは他人の苦しみを数えるなんてとてもできず、ぼんやりとしか分からない。死に瀕している人の絶望的な気持ちなど、表面的にしか分からない。

 しかし、私たち自身の力やことばでなく、神の言葉をもって、絶望の淵にある方々に、神への橋渡しをすることはできる。神は全能であり、いかなる苦難にも耐える力や希望をも与えることのできる方だからである。 これはキリスト者の役目である。

 「涙を蓄える」、あるいは「嘆きを数える」、あるいは書き物に書いてくださってると、さまざまな言い方ができたということの中に、この詩の作者は実感として、神の自分への愛を深く感じ経験していたことをうかがわせる。

 そこが詩篇の非常に重要なところで、心の世界を数千年を経てもいきいをと伝えてくれている、いわば霊的世界のよき化石のようなものである。

 「あなたがたの名(あなた方そのもの)が天に書き記されていることを喜べ」(ルカ十・20)と主イエスも言われた。

 

 何かよいことができても、自分がやったのだと思うことが人間の自然の傾向である。その心は、自分を誇る倣慢へと向うことが多い。

 しかしそのよきことをする能力を与えてくださっている神様が、覚えて使ってくださったのだと考えるとき、倣慢ではなく感謝の心が生まれてくる。

 そして、そのようなことが病気、老齢化のために、できなくなっても、神様はまた別の所で使ってくださると委ねていくことができる。

 またもう死ぬというときにでも、神様は覚えてくださっていて、御国へと連れて行ってくださると思うことができる。

詩篇の比類のない価値は、神様との一対一の霊的な関わりが、そのまま何千年も通して見えるという点である。私たちは心を開いて年月を超えて魂の世界を受け取れば良いだけで、そのためには、特別な知識も学問も必要ではない。

 

 9節から10節はどれだけの月日が経ったかは分からないが、神を呼んだら必ず敵は退くという確信へと導かれたことが記されている。

 1112節に書かれていることに、以前は必死に寄りすがって何とか引っ張り上げられていたが、それからだんだん力が与えられてきて、本当にこうだと言えるようになった。本当にこのように救われたら、自ずから感謝が溢れるから、何か献げたいと思うのが当然のことである。

どんな人でも神様への献げ物は何らかの形で-祈り、他者のために何かよいことをする、献金あるいはよい本などを闇にある人たちに送る、みじかなところでの奉仕等々。

 

 1314節に、最後にもう一度自分の経験を総括した。「命の光の中に歩む」とあるが、このような表現は旧約聖書には、ほかにはほとんどみられない。

けれども、新約聖書においては、このことは中心的な重要性をもって語られている。そうしたキリストの時代をはるかに見ることができたのは、この詩の作者が、神からの洞察力を与えられたからであり、言い換えれば、神からの啓示によって知ることができたのであった。

 「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネ八・12

 暗き現在の世の中にあっても、キリストに罪赦され、そのキリストにしたがっていくときには、聖霊が与えられ、神の国のこと、御支配のことが見えてきて、この世に光があることが分かり、どんなにこの世が暗くても明るさが見えてくる。

そして命の光といわれているように、そのような光を見る恵みを与えられた者は、永遠の命をも与えられる。

この詩の作者の背後に神がおられ、この詩人にこのような体験をさせた。それゆえに、この詩は、永遠性、普遍性をもっている。

 人間が作った詩であるにもかかわらず、神の言葉なのである。そしてキリストの命の光を持つという重要な約束にとつながっている。

 この詩の作者においては、冒頭にあった、「神様、私を憐れんでください!」という魂を込めた叫びから、かぎりなく霊的な世界が広がっていった。

 現代の私たちにおいても、耐えがたい苦しみや悲しみのときにおのずと生じる「主よ、憐れみたまえ」(ホンネーニ・エロヒーム)という単純な叫びから、かぎりなく広い世界-神の国へと道がつづいている。

 


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 この頃の星々

梅雨空が続き、夜の星を見る機会は少なくなっている方々が多いと思われますが、時折の晴れた夜空に見えるのは次の星々です。7月の15日頃、夜8時ころです。

 まず最も明るくただちに目にとまるのは、南西の空に輝く木星です。木星はもう長い間、夜空に強い光を見せてくれていましたが、もうじき、見えなくなります。木星は去年の11月の中旬には、早朝に東の空に上ってくるのがみえていました。

 そして、南には、夏の代表的な星座として知られるさそり座がみえ、その一等星のアンタレスの赤い輝きが目立つころです。そしてそのアンタレスの左側に土星がみえています。

土星は木星よりも輝きは弱いので、何も目印がないと、星座になじみのない場合には、なかなかわかりません。しかしこのころには、南の赤い星のアンタレスが見つかるとその左にあるかなり明るい星なので見つけることができます。

 

 金星は、7月半ばころには、早朝3時ころには東のそらに、明けの明星として強い輝きを見せるようになっています。

これから数ヵ月は、明けの明星として強い光を地上に投げかけてくれます。聖書の最後の書である黙示録の終りの部分で、再臨のキリストを象徴するものとして、明けの明星が記されています。2000年ほども昔から、迫害のもと、明けの明星を見て、闇の包むこの世の全てを変える王として再びこられる御方として仰ぎ見ていたのが浮んできます。

 


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