福音 №447  20258

生きよ

 

 初めに神は天と地を創造された。地は混沌として、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」すると光があった。神は光を見て良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。 (創世記1:15

 なぜか「天地創造」の記事が読みたくなって、線の引いていない聖書協会共同訳で創世記1章、2章を読んだ。何度か読むと感極まって、今度は朗読して録音した。

そして、手元にあった手帳に、

「神さまがおられるから、それだけでうれしい。」と書き込んだ。

 

この頃youtubeで、138億年前の宇宙の誕生とか、ハッブル宇宙望遠鏡から送られてくる映像とかを時々見るが、私にはそれらの星々の美しさと、その中で地球が創られていくさまが響き合って、

神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを分けられた。

神は言われた。「地は草木を生えさせよ」

神は言われた。「鳥は地の上、天の大空を飛べ」

神は言われた。「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう」

神は、造ったすべてのものを御覧になった。それは極めて良かった。

と、一つ一つの言葉があまりにもリアルに迫ってくる・・・思いがする。

 

♪世のはじめ さながらに あさひてり 鳥うとう

  みことばに わきいずる きよきさち つきせじ

昔、四国集会の早天祈祷会でよく歌ったが、そこに集った先輩たちは、この讃美歌をこのように実感しながら歌われていたのだと、いまやっと気づかされた。

悟りにぶき者、神と、多くの人に赦されて今日まで導かれてきたのだと、身に沁みる。

 

*創世記1章で読むたびにうれしくなるのは、2930節。

神は言われた。「私は全地の面にある、種をつけるあらゆる草と、種をつけて実がなるあらゆる木を、あなたがたに与えた。それはあなたがたの食物となる。また、地のあらゆる獣、空のあらゆる鳥、地を這う命あるあらゆるものに、すべての青草を食物として与えた。」そのようになった。

人も動物も、草や果樹を食べて生きるように造られた。初めから弱肉強食の世界ではなかったのだ。その人が神に背き、神の顔を避けるようになって、「この地は神の前に堕落し、不法に満ちた」ノアの時代、「人が心に思うことは、幼い時から悪いのだ。」「動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える」(創世記9:3)と、肉食ははじまった。

 

 私は文鳥のクーちゃんをとても可愛がっている。この頃はあまり飛ばなくなり、止まり木から落ちたりするので、手のひらで餌を与えたり、両手をあわせ水道の水で水浴びさせたりする、なのに、今夜のおかずは鶏のから揚げだったりするから、考え始めると何とも辛い。鶏だってどんなに可愛いことだろう。

食べ物一つとっても、多くの動物を食べて、血を流して私は生きているのだと気づくと、生きるって重いことだと身につまされる。生きることの意味を問わずにはおられない。

主よ、人は動物を食べて、犠牲にしてまで、なぜ生きるべきなのでしょうか。

聴き入っていると、動物どころか、御自身を食べよと言われるイエスさまの御言葉がよみがえった。

イエスは言われた。「よくよく言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。私の肉はまことの食べ物、私の血はまことの飲み物だからである。私の肉を食べ、私の血を飲む者は、私の内にとどまり、私もまたその人の内にとどまる。生ける父が私をお遣わしになり、私が父によって生きるように、私を食べる物も私によって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べて死んでしまったようなものではない。このパンを食べる者は永遠に生きる。」ヨハネ福音書6:5358

 

そうなのだ、私たちが生きるということは、動物を食べようがベジタリアンになろうが、ヴィーガンになろうが、そのようなことではない、もっともっと深いことなのだ。神様は草の実や果樹の実で満足しないヒトに、動いている命あるものを食べることを許容された。それでも、ますます罪におぼれ滅びに向かうヒトに、ついに「私を食べよ、そして生きよ」とイエスさまを与えてくださった。

生きるということは、神に向かって生きることなのだ。

「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を証認されたからである。」ヨハネ627

 ナザレのイエスは神から遣わされ、死に至るまで、十字架の死に至るまで信の従順を貫かれた。そして、人間は誰であっても、悔い改めて福音を信じ、「天の父の子となる」ことができると教えてくださった。

今も聞こえる「生きよ」との御声こそ、父なる神と御子イエスさまの愛の証しなのだ。

「わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」エゼキエル18:32

「わたしを求めよ、そして生きよ」アモス5:4

 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。」ヨハネ11:25

神を信じ、イエス・キリストを信じる喜び、信じるだけで、それだけでうれしい。