福音 №446  2025710

憐れみ

 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。マタイ9:3636

 

 聖書を読むことを覚えて良かった。神さま、イエスさまの憐れみで胸がいっぱいになる。イエスさまが人を憐れまれる時、その人が悪人か善人か、正しい人か正しくない人か問われることはない。群衆が弱り果て、打ちひしがれていたがゆえに、深く憐れまれたとある。父なる神さまがそうである(マタイ5:45)ように。

 イエスさまはこのように憐み深いから、憐みのお方だから、何があっても大丈夫だと思う。「助けてください」とすがる者を決してお見捨てにはならない、だから大丈夫だ。これがイエスさまの与えてくださる平安なのだと、今わかる。

 

 イエスさまのたとえ話を読んでいて、なんだか腑に落ちないところがあれば「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐み深いものとなりなさい。」(ルカ6:36)というイエスさまのお言葉を当てはめて読むと、もやが晴れるように美しく見えてくる。そして気づく。そうか、イエスさまのたとえ話が、どこか現実とかけ離れているように思えるのは、神さまの憐れみが分からないからなのだと。

 「金持ちとラザロ」というたとえ話がある。(ルカ16:1931

ある金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。金持ちは毎日ぜいたくに遊び暮らしていたが、ラザロの困窮に心をかけることはなかった。特に追い払ったとも書かれていないので、すぐ傍にいるラザロに、無関心だったのだろう。

やがて二人とも死んだ(人間は死ぬものであり、死んだ後のことも勘定にいれてこの世を生きなければならないのだと、聖書は教えてくれる)が、「この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロが、はるかかなたに見えた。」とある。死んだ後、陰府の炎の中でもだえ苦しむ金持ちは、アブラハムに、せめて「ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください」と言うが、アブラハムの答えは、「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。」であった。

何とも衝撃的な言葉である。確かに私は今、神を信じ、キリストを信じ、平安と希望と喜びという最高に良いものをもらって、日々感謝している。でも、それで一人満足して、うれしいうれしいと喜んでいるだけなら、後の世では「良いものをもらっていたお前は苦しむのだ」と言われると知って、このたとえ話は本気で読まなければと、目を覚まされた。

 神さまのなさり方は、いつも決まった道、全く決まった方法である。

「主はその腕の力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のままで追い返されます。」ルカ1:5153(マリアの讃歌より)。

この世で贅沢をした金持ちは低くされ、悪いものをもらって苦しんだ貧しいラザロは、高く上げられた。それだけである。ラザロは神を信じたとか、祈ったとか、善い人だったとか、アブラハムのそばに連れて行かれた理由は何も書かれていない。ただ一つ分かるのは、ラザロは誰かの助け、憐れみを必要としていたということ。もう一つ分かるのは、金持ちは自分の良いもので満足して、すぐ傍にいるラザロを助けなかった、憐れまなかったこと。金持ちは憐れみを必要とせず、憐れまれることも憐れむこともなく、ラザロは憐れみなしに生きられなかったということ。憐れみの威力を侮ってはならない。 

もう一つのたとえ話。

「仲間を赦さない家来」のたとえ(マタイ18:21)は、あまりにもリアルで怖くなる。ある王の家来は、王に1万タラントンの借金があった。今の日本円で言うと6百億~3兆円にもなるらしい。王は妻も子も持ち物もすべて売って返済するように言うが、「どうか待ってください」としきりに願う家来を王は憐れに思い、彼を赦しその借金を帳消しにしてやった、とある。これこそ神の無限の憐れみであり、キリストの十字架の愛であることはすぐに分かる。ところが、この家来は、友人のわずかな借金も許せない。許したら損をするように思う。自分は憐れみによって生かされているのに、人を憐れんではいけないように思う。それが正義だとさえ思っている。でも、何があっても忘れてはならない、私は神の憐れみによって、今日も生かされているのだと。

 「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」と、イエスさまのお声に耳を澄ませて聴き入ろう。

 

もう一つのたとえ話、「種を蒔く人」のたとえも、神の憐れみを語っていると知らされた。

種蒔きが種を蒔くと、ある種は道端に落ち、ある種は石だらけで土の少ない所に、ある種は茨の中に落ち、鳥に食べられたり、水がなくて枯れたり、茨にふさがれたりして、実を結ばなかった。ところが、ほかの種はよい土地に落ち、芽生え、育って実を結び、30倍、100倍にもなった」とある。

このたとえ話の解釈もいろいろあって、読み手によって得るものも様々だろうが、ある時「良い土地とは‘‘憐れみ‘‘です。あなたの氏素性がいかようであれ、能力があろうがなかろうが、自分は神さまの良い地だと信じる、神さまの憐れみを信じる、信じて一生けん命励むなら必ず、30倍、100倍の実を結びます。」と聞いて、その言葉を何度も味わい、今も思い返し、そうか、神さまの憐れみを信じること、「憐れみへの信」こそが良い土地なのだと、胸躍る思いがする。神は憐み深い、だから私たちは生きていける。ハレルヤ!