福音 №445 2025年6月
「アッバ、父よ」
イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。マルコ福音書10:13‐16
イエスさまは、神の国に入るのは「子供のように神の国を受け入れる人」だと言われる。神の国は、聖書をよく読む人、教会に行って洗礼を受けた人、信仰を持っている人たちのものだとは言われないで、手を引かれてイエスさまのもとに来た子供たち「このような者たちのものである」と言われる。さて、この年になって子供のようになれと言われても・・・と考え込んで、
「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」とイエスさまに言われて、「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。」と答えたニコデモ(ヨハネ福音書3章)を思い出して、自分でも笑ってしまった。新たに生まれるよりは、子供のようになることの方が、まだ可能性がありそうだ・・・と。
それにしても、子供のようにとは、子供のどこを指していうのだろう、子供は確かに偽善的ではないが、岩崎ちひろの絵のように、みんなが純粋無垢だとも思えない。だいたいこんなことを考えることが子供らしくないのだと思って・・・ふっと気づいた。
そうだ、子供らしくならなくていい、子供であればいい。私たちは神さまの子供で、神さまのことを「天のお父さま」と呼ぶように教えてくださったのは、イエスさまなのだから。そうだった、私たちが日々祈るとき「天のお父さま」と呼びかけるが、それは「私はあなたの子供です」と、父なる神さまの愛に答えていることではないか。
イエスさまは可愛らしい、小さな子供たちを抱き上げてくださるばかりでなく、重くて抱えきれないような、しわだらけの者だって、きっと抱き上げ、手を置いて祝福してくださる。そう気づいて、「おとうさ~ん」と一心に呼ぶと、視界が開けて神の国の喜びが見えるようだった。
神さまと人、それはまっすぐな関係で、私たちが幼子でありさえすれば喜びとなる。しかし、人と人はそう簡単ではない、親子と言えども「親ガチャ」という言葉が生まれるほど複雑怪奇なことはいくらでもある。夫婦然り、友人然り。
そのような人間関係を正しく突き抜ける道はあるのだろうかと考えていたとき、ある人からメールが届いた。以前のメールで、息子さんのお嫁さん(Aさん)が難しいガンになり、お孫さんたちのお世話をしながら途方に暮れているさまが読み取れたが、今回は、ガンの転移も見つかり、いよいよという状況の中で、
「Aさんは若く、幼い子供たちと、まだまだたくさん思い出を作らなくちゃいけない。もういい加減たくさん生きて、たくさん恵みをいただいた私が代わってあげたい。でも、Aさんの人生は、神さまがAさんのために創ったスペシャルメニュー。・・・ぐるぐると、そんなことを考えています。」とあった。
人生「親ガチャ」だけじゃない。いつどこの国に生まれ、どのような試練に遭うか、いつどのような状況で死んでいくのか、すべて私たちが計画するわけではない。そんな中にあって、「Aさんの人生は、神さまがAさんのために創ったスペシャルメニュー」と信じられるなら、それこそ、天のお父さま(神さま)を信頼する子供(人)の心ではないか。そうか、「子供のように神の国を受け入れる」とは、こういうことなのだ。
「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます。」1コリント10:13
とパウロは言う。それが、どんなに悲惨に、絶望的に見えても、それは「耐えられないような試練」ではないという。
これを言うのは、どうみても耐えられない、試練のスペシャルメニューを生きたパウロである。にもかかわらず、その試練を耐えられないものではなかったとパウロに言わしめたものは何なのだろう・・・そのような時に備えられた「逃れの道」とは。
ゲッセマネの園で、父なる神さまに「アッバ、父よ」と呼びかけられたイエスさまを思う。
*「アッバ」はアラム語で小さな子供が親しみを込めて使う言葉で「お父さん」に近いものです。これは旧約には見られない、非常に親密で個人的な神との関係の表われです。
イエスさまは血の汗を流し祈られる時も、「アッバ、父よ」とすがられた。父なる神さまがいついかなる時も共にいてくださる、それこそが「逃れの道」であり、この道があるからこそ、私たちも与えられたスペシャルメニューをきっと生きることができる。
しかし・・・神さまの御心を生きるイエスさまが、神さまを「お父さん」と呼ぶのは何の不思議もないが、福音書を読めば読むほど神さまの御心とかけ離れた者が「お父さん」としがみついて良いのだろうか。私の罪も愚かさも何もかもご存知で、それでも「わが子よ」と愛してくださるのだろうか。
私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどれほどの愛を私たちにお与えくださったか、考えてみなさい。事実、私たちは神の子どもなのです。1ヨハネ3:1
私たちが正しく生きるから神の子と認めてくださるのではない。私たちが神の子となるために、神さまはその独り子、イエスさまを最高のプレゼントとして私たちにくださった。イエスさまは「さあ、わたしの十字架はあなたのためだ。わたしと共に死に、私と共に生きるがよい」とご自身を与えてくださった。父なる神さまと御子なるイエスさまの計り知れない愛によって、私たちは神の子とされたのだ。喜びの日も涙の夜も、神さまの創られたスペシャルメニューの人生だから、「お父さん」と、何があってもしがみついていよう。