福音 №451 2025年12月
「信じる喜び」
「聖書を読むこと、祈ること、主イエスと共に歩むこと」
自分で考えたのか、どこかで読んだ言葉なのか分からないけれど、最後の日までそうありたいと願っている。
なぜ突然こんなことを書くかというと、先日友人を病院に訪ねて話していると、「私も主人もとても元気だったから、死ぬなんて考えなかった。何にも考えないで、毎日しなければならないことがいっぱいあって、それをこなしているうちに、二人とも病気になって、主人は亡くなって、自分はこんな不自由な体になって、どうしてこんなことになったのか分からない」と言うのだ。その人は本当に良い人で、自分に与えられた務めを一生けん命こなしてきたのを知っているから、「どうしてこんなことになったのか分からない」という気持ちがよく分かる。なすべきことを為し終えて、穏やかな老後を迎えるはずだったのに。
聖書を読むことがモットーの私には、これは神様が介入なさっているとしか思えなくて、病院の庭を杖をついて、腕を組んで、ゆっくり散歩をしながら「でも大丈夫。ほら、青い空やこの可愛い小菊の花もみな、神さまの愛を告げている。信じていよう」と言った。すると意外にもまっすぐに、「うん、信じる。明日から廊下だけでも午前と午後と2回は歩くようにするね」と答えてくれて、うれしかった。
「聖書を読むこと、祈ること、主イエスと共に歩むこと」。キリストを信じて生きる人たちが、この3つのどこに重心を置いているかは一人一人違うだろうが、私は「聖書を読むこと」で神さまのご意志を知らされ、少ないながら信仰の仲間も与えられ、この50年、どうにか道を誤らず、日々新たにされ、この世にはない喜びの内を歩めているのだと思う。
何人かの方と一緒に聖書を読み始めて、その集会ではいつも旧約、新約のバランスを採りながら読んできたと思うが、ごく初めの頃からそのような読み方をしていたのだと、杣友豊市さんからの古い古い手紙が出てきて分かった。
「狭山集会の、旧約を素読して、新約を学ぶ方法は賢明なことだと思います。旧約は新約を知る上に広く大ざっぱに読んでおけばよいのであって、新約はそれを「生きる」ことです。つまり、吾々は新約を生きているのであって、旧約はその道路であったわけです。こうしたことを思いつつ進むうちに、聖書を学ぶ面白さを感じています。」
ともかく、継続は力である。読むのも形だけのような日も長かったが、それでも、朝食の前に夫と聖書を読み続け、この頃(今はルカによる福音書)は、一つ一つの記事が深い真理を啓いてくれるようで、やっぱり聖書ってすごいなあ!神の言葉って生きてるなぁ!と感動する。
昨日の朝は18章9節から「『ファリサイ派の人と徴税人』のたとえ」と「子供を祝福する」だったが、まっすぐ読むと、「ぐうの音も出ない」とは、このことだと思った。
聖書を読む人は暗記するほど読んでいる箇所だけれど、何のことはない、神さまに義(正しい)としていただけるのは、ただ信じる、子供のように信じる。信じる心とは「罪人のわたしを憐れんでください」と祈らずにはおられない「低さ」なのだ。
「『ファリサイ派の人と徴税人』のたとえ」の書き出しは、イエスさまらしい誰にでもわかる易しい言葉で、流石だとうれしくなるが、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。」とあり、うれしくなって、次に涙がにじんで、イエスさまはどうしてそんなに見抜いておられるのかと辛くなって、そこまで人の心に光をあてられるこのお方は、「信じる」よりほかにすべがない。そのような神を、キリストを信じるとは、何という恵みだろう。「信じるだけでうれしい」。病院で寝ていようが、元気に動いていようが、私たちには「信じる」という最高の喜びがある。
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「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。」新共同訳(ローマ書3:21-22)
20年も前、確か福岡での無教会全国集会で、この「イエス・キリストを信じることにより」とは「イエス・キリストの真実によって」なのだと聞いて、自分の頼りない信仰より、イエス・キリストの真実によって神の義が与えられるなら、何とうれしいことかと思った記憶がある。それが、協会共同訳では「神の義は、イエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに現わされたのです」とあり、なるほどと思っていた。
ところが、2年前から千葉恵氏の「山上の説教・講義」をYouTubeで聞くようになり、山上の説教は「福音」であるという語りに目を開かれ(山上の説教における福音と倫理・方舟64号)等、いろいろと読み続けるうちに、ローマ書3:22は「イエス・キリストを信じることにより」でも、「イエス・キリストの真実によって」でもない、
「神の義はイエス・キリストの信を介して〔神が嘉みする〕信じる者すべてに明らかにされてしまっている。なぜなら、分離はないからである。」という訳に導かれた。「区別(差別)はない」は4世紀以来の誤訳であり、「パウロはそこで神によるご自身の義とイエス・キリストの信との間に『分離はない』その信義不分離の啓示を報告する」、「今日まで例外なしに人の前のことがらとして人が持つ心的状態の信仰をめぐって『区別』がないと誤訳されてきたことは・・・多くの混乱をもたらしている」とあり、私にはなかなか難しいが、ともかく分かるまで読もうと日々努力していると、その説明の中にハッと光が射す言葉が必ずあり、今まで分かったようで分からなかった言葉が開かれる度に喜びがあふれ出すのだから、止められない。いつか、その真理の言葉を自分にも人にも分かるように書きたいと思うけれど、とりあえず難解なままで、差しくる光を記します。
福音の基本的な理解:「ナザレのイエスはガリラヤの野辺を歩きながら「時は満ち、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信ぜよ」と語り、「神の子の信によって」死に至るまで信の従順を貫き、人間は誰であれ「天の父の子となる」ことがその本来性であると宣教した。福音はこの人間本性を普遍的に告げ知らせる善き報せであるに相違ない。この運動は言葉と働きにおいて神の国を自ら持ち運んだイエスの御跡に従い、福音がユダヤ人のみならず異邦人にも人間の本来性を伝え命を持ち運ぶ者となるその一助となることを使命とする。」