福音 450 2025年11月
「善いサマリヤ人」
「行ってあなたも同じようにしなさい」
今朝の聖書箇所はルカ福音書10章、「善いサマリア人」だった。夫と輪読して、短く感想を言うのだが、聖書は同じ箇所でも読む度に心打たれることが違うから、いつも新鮮だ。今日は、追いはぎに襲われて半殺しにされ倒れている人を助けるサマリア人の姿に、私にはこれは無理だと、心底思った。
サマリア人は、倒れている人のそばに来ると、「その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』」
倒れている人を見つけたら、どうにかして宿屋に連れて行くことくらいはするだろう。でも、費用を払ってまでその人を(わが子か、家族のように)責任をもって助けるだろうか。そこまでしなくても、人は、自分の力でできることをそれぞれすればいいのだと、思ってしまいそうな気がする。でもイエスは、「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われる。
その時、ああ、これがイエスなのだと分かった。私が何をしようが、良かろうが悪かろうが、野垂れ死のうが、イエスは私に対して何の責任もない。それなのに、放ってはおけないと、私も、Aさんも、Bさんも、Cさんも、世界中の誰一人放ってはおけないと、「あなたの罪はわたしが引き受ける、あなたの身代わりになろう」と、十字架について死なれた。そのイエスが「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われるのだ。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」マタイ11:29と言われるのだ。
「幼子のようにイエスを信じ、イエスと共に歩む時、イエスの歩調から柔和と謙遜が伝わってきて、人の誇りは取り除かれる。「柔和の霊」をいただき、弱く小さな者への憐れみをいただき、強者の不公正や侮辱、迫害にも耐え、その人は平和を造る者になる。」と聞いてうれしくて、イエスの開かれた信、義、愛の一本道が見えてくるようだ。
「必要なことはただ一つだけである」
今朝の(この今朝は10日の今朝、最初のは9日の今朝、毎日今朝があるのがうれしい)聖書箇所は、ルカ10:38‐42「マルタとマリア」。こうして毎日続けて読むと、一つ一つの記事のつながりが見えてきて新しい気づきが与えられることがある。この記事は短いのでそのまま書きます。聖書を読む人は暗記するほど読んでいる記事だけれど、もう一度どうぞ。
一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。」
昨日、「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われた身としては、さあ、何か一つでも愛の業に励もうとはりきっていると、今日は「必要なことはただ一つである」とイエスは言われる。この言葉はマルタに向けて言われているのだから、「もてなし」をしようと思わない人には分からない言葉だと気づく。だが、少しでも誰かを助けたいと一生懸命になると、必ず思い悩み、心が乱れてくるのは誰もが経験することだろう。その時、その人に向けてイエスは言われる。「必要なことはただ一つである」、イエスを見つめ、イエスの言葉に一心に聴き入いるマリアの真実(信仰)をこそ、まず求めなさい。
そうだった。「何を食べようか、何を着ようか」と思い悩む者にイエスは、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と言われた。まず「神の国と義を求める」とは、神との正しい関係をまず求めること。今の私たちにとっては、十字架のキリストを仰ぎ、「あなたの罪は赦された」と、神とキリストの愛の言葉を聞き、ただ信じること。幼子のように信じること。信じて歩む道は、何をどれだけしたか、しなかったかなど問われはしない。
「信と義と愛は一本道である」、「信仰と愛は人の肯定的な歩みの始まりと終わりである」と聞いて、善きサマリア人も、マルタも、マリアも、「愛によって働く信仰こそが大事なのです」ガラテヤ5:6と、笑顔で告げているようで、うれしい。聖書は、少しでも深く読めば、喜びが詰まっているのだと、ますますうれしくなる。
「聖書はイエス・キリスト、すなわち福音をさし示す」
9日の主日礼拝の聖書箇所は、ヨハネによる福音書20章「復活する」だった。イエスが復活されたことが分からないペトロたち、「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」とある。
ルカ福音書24章「エマオで現れる」でもイエスが同じことを言われている。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことをすべて信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
ヨハネ5章では「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しするものだ。それなのに、あなたたちは命を得るためにわたしのところへ来ようとはしない。」39−40、と言われた。
ここでいう聖書はすべて旧約聖書だ。聖書がイエスを証しするとは、イエスの受肉(人となられたこと)、十字架、復活、すなわち「キリストの福音」を証しするということだ。旧約聖書から、キリストの福音は流れ続けていたのだと、「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく信仰による」が成し遂げられたのが、キリストの十字架だったと知らされて「ああ、神の富と知恵のなんと深いことか。」「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。」と、晴れ上がった秋の空も歌っている。