福音 №449 2025年10月
「唯信ず」
昭和5年2月10日発行「聖書の研究」(内村鑑三主筆)355号に掲載された「三種の宗教」の最後に、「私は私の絶筆としてこの端文を遺して恥としない。私が生きのこるならばこの信仰を繰返すまでである」と註があります。(内村、3月28日死去)。これをくり返し読んでいると、キリスト信仰の真髄が伝わってきて、誰かに、ぜひ読んでほしいです。でも文語のままでは若い人は読みにくいだろうと、口語で分かりやすく書こうとしたのですが難しく、ChatGPTでの現代語訳を読んでみました。(それを書き写すのもどうかと思いますが)原文と一行ずつ確認しましたが問題はなさそうなので、先に現代語訳を写します。その後に、内村の原文も書き写しますので、読める方はぜひそちらをお読みください。
「信仰は美しき儀式でもなければ、麗はしき思想でもない。自己の罪に目覚め、神の恩恵にひかれて『起ちて我父に往かん」といいて彼の懐へと帰り往く事である。神の恩恵に応ずる人の信仰、それが真の基督教である。」アーメン
三種の宗教
宗教には、儀式的なもの、倫理的なもの、信仰的なものの三種類がある。儀式的なものが最も低く、倫理的なものがその上にあり、信仰的なものが最も高い。そして、儀式的なものが一般的であるために、倫理的なものが最も高いと思われることが多い。今日のキリスト教学者が「キリスト教は倫理的宗教である」と唱えて、そのすぐれた宗教性を主張するのは、その一例である。しかし、倫理的なものが儀式的なものより高いように、信仰的なものは倫理的なものよりさらに高い。キリスト教は最高の道徳ではない。贖罪(罪の赦し)の宗教である。キリストにおいて神が人類の罪を滅ぼされた、その事実を示す宗教である。「あなたがた、わたしを仰ぎ見よ。そうすれば救われる」と教える宗教である。
キリスト教は信仰を第一とする宗教である。道徳はその次にある。ゆえに、キリスト教において倫理を第一とすることは堕落である。キリスト教が盛んなとき、それは信仰が盛んなときである。そして、それが倫理的に盛んなときもまた、信仰が盛んなときである。キリスト教が倫理を目的とするとき、信仰は衰え、倫理もまた衰えるのである。
現代人の好むものは二つある。一つは芸術であり、もう一つは倫理である。そして、キリスト教において芸術を好む者はローマ・カトリックに行き、倫理を愛する者はプロテスタントに行く。カトリックは芸術的崇拝であり、プロテスタントは倫理的願望である。しかし、福音、すなわち信仰のキリスト教とは、キリストとその十字架である。キリスト者すべては、キリストとその十字架において立つ。彼の礼拝も道徳も、すべてここに完成されている。ただキリスト、ただ十字架、そしてただこれを信じることである。現代人はこの単純さに耐えられない。倫理学者はこれを迷信と同じものとして見る。しかし、信じる者にとって、これは神の知恵であり、神の力である。
人が自ら神を求めるとき、彼は芸術的に、あるいは倫理的に神に近づこうとする。しかし、神が人を求められるとき、人は信仰によって神に至るほかに道はない。信仰とは、神が備えられた救いの道に自分をゆだねることである。信仰には手段も方法もない。ただ信じるだけである。信仰は美しい儀式でもなければ、麗しい思想でもない。自分の罪に目覚め、神の恵みに引かれて「起きて、わが神のもとに帰ろう」と言い、神のふところに帰っていくことである。神の恵みに応える人の信仰、それが真のキリスト教である。
三種の宗教(原文)
〇宗教に儀式的なると、倫理的なると、信仰的なるとの三種類がある。儀式的なるが最も低く、倫理的なるが其上であって、信仰的なるが最も高くある。そして儀式的なるが普通であるが故に、倫理的なるが最も高くあると思わるるが常である。今日の基督教学者が基督教は倫理的宗教なりと唱えて其優秀の宗教なるを主張するが其一例である。然し乍ら倫理的なるが儀式的なるより高きが如くに、信仰的なるは倫理的なるより高くある。基督教は最高道徳でない、贖罪教である。キリストに在りて神が人類の罪を滅ぼし給へる其事実を示せる宗教である。「汝等我を仰みよ。然らば救はれん」と教うる宗教である。信仰第一の宗教である。道徳は其次である。故に基督教に在りては倫理的なるは堕落である。基督教が盛なる時は信仰的に盛なる時である。そして其れが倫理的に盛なる時も亦信仰的に盛なる時である。基督教が倫理を目的とする時に信仰は衰へ、倫理も亦衰へるのである。
〇現代人の好むものは二つある、其一が芸術であって其他のものが倫理である。そして基督教に在りて、芸術を好む者はローマカトリック教に行き、倫理を愛する者はプロテスタント教に行く。カトリック教は芸術的崇拝であって、プロテスタント教は倫理的願望である。然れども福音即ち信の基督教は、キリストと彼が十字架に釘けられし事である。基督教信者の全部はキリストと彼の十字架に於いてある。彼の礼拝も道徳も凡て茲に完成されたのである。唯キリスト、唯十字架である、そして唯之を信ずる事である。現代人はその単純に堪へない。倫理学者は之を迷信と同視する。然れども信ずる者には是れ神の智慧また能力たる也である。
〇人が自ら神を求むる時に彼は芸術的に又は倫理的に彼に近づかんとする。然れども神が人を求め給ふ時に人は信仰を以って神に到るより他に途がない。信仰は神が備え給ひし救いの途に自己をまかす事である。信仰に手段方法は何もない、唯信ずである。信仰は美しき儀式でもなければ、麗しき思想でもない。自己の罪に目覚め、神の恩恵に牽かれて「起て我神に往かん」と云いて彼の懐へと帰り往く事である。神の恩恵に応ずる人の信仰、それが真の基督教である。
〇病床中の主筆曰ふ、今度私が死んだとして、私は私の絶筆として此端文を遺して恥としない。私が生存るならば此信仰を繰返すまでである。