いのちの水 2025年10月号 第7766号
| 霊(聖霊)の結ぶ実は愛であり、喜び、平和…、 (ガラテヤ書5の22より) | 
目次
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| ・心に残った御言葉から | ||
| 小舘 知子(東京) | 本間 勝(神奈川) | |
| 「祈りの友・合同集会」、 | 
「ほんとうの平和」とは何であるのか。
それはイエスがすでに二千年前にはっきりと告げた内容がそれである。
… 私は、平和(平安)をあなたがたに残し、私の平和を与える。
私はこれをこの世が与えるように与えるのではない。」 (ヨハネ14の27)
それは、人間の努力や才能、経験、歴史や民族などに関する知識…といったものではない。キリストから直接に与えられるのであって、それゆえに、「私の平和」と記されている。
また、次のようにも記されている。
…「キリストの平和にあずからせるために、あなたがたは招かれている」
(コロサイ3の16)
私たちが、神とキリストのことを知らされたのは、自分の心の平和を与えられてこの世のもので一時的な満足をするためでなく、キリストの平和(主の平和)を受けるために、神から招かれて信じるものとされ、その平和で心満たされ、さらにそれを他者に証しし、伝えるためであった。
実際、私は、いまから58年ほども昔に、一冊の古びた新書版の本のわずか1ページにも満たない部分を読むことによって それまでいかにしても与えられなかった魂の深い平安(平和)を与えられた。
そして、その平安、平和はそれから60年近い歳月が経ったが、変ることなく実感している。
この世の何らかの重要なことは、みな資格が必要だし、そのための知識、理解力、健康、生まれつきの能力、お金、また努力、家庭環境…等々、さまざまのものが必要である。
しかし、ほんとうの魂の平和、平安を得るためには、そうしたものはすべて必要なかった。
それは、まさにいまから数千年も昔に記されていたことがそのままあてはまることを私自身が体験したのだった。
…渇いている者、金のない者への招き。水、穀物、ぶどう酒、乳を「代価なし」で受けよ。
なぜ満たされないものに金を払い、労するのか
神に聞き従えば、良い物で満たされる。
耳を傾け、神に来て聞け。そうすれば命を得る。
(イザヤ書55の1〜3より)
ここで、神からの賜物、それで満たされるシャーロームを伝えようと、預言者は水、穀物、ぶどう酒、乳…等々を用いて表現し、神から与えられるものがいかに私たちの魂の深みで満たすものであるかを語りかける預言者の情熱を感じさせるものがある。
ここで、平和(*)という言葉について今までにも書いたが再度記しておきたい。
それは、平和、あるいは和平という言葉は、本来中国語であり、この漢字の言葉は、平らで和する ー仲良くするというニュアンスがある。
それは当然、人間の生まれつきの性質とか、家庭環境とかが大きくかかわってくる。
(*)なお現代の中国語では、日本語の平和はあまりつかわれず、あらゆる方面で広く用いられているのは 和平 という言葉。私は40年ほど前に中国語の聖書翻訳を知るために中国語を学び初めて 小辞典では 平和という言葉さえ掲載されてなくて、和平だけ。しかし、日中大辞典で初めてその二つが掲載されていたが、平和 の説明は少しであり、中国語では和平こそが、日本で平和ということばに相当するというのを初めてしらされた経験がある。)
しかし、聖書で現れる、平安、平和の原語は、シャーローム であり、中国語の平和とか和平という漢字でその内容を考えるのは本質からはずれることになる。
シャーロームとは、シャーラム(完成する、満たす)という動詞の名詞形で、神の賜物で満たされた状態を意味している。
その具体的表現が、すでに旧約聖書からさまざまに、とくに預言書や詩編でもあらわされている。
詩編23篇はその最も知られた例である。
…主はわが牧者
私には乏しいことがない。
主は私を緑の牧場に伏させ、憩いのみぎわに伴い
魂を生き返らせてくださる
死の陰の谷を通るとも 恐れない。
あなたが私とともにいてくださるから。
私を苦しめる者を前にしても あなたは私に食卓を整えてくださる。
命のある限り ?恵みと慈しみはいつもわたしを追う。 (詩編23より)
あらゆる苦しみ、迫害に直面してもなお、主がともにいることを実感し、しかもその実感は生涯いかなることが生じようとも 変ることがないという確信をも伴うほどの確たる実感であった。
これこそ、まさに 魂が神からの慈しみ、真実、悪の力に打ち勝つ永遠の力を与えられて満たされている状態である。
この詩はダビデの詩と伝えられているが、それは今から三千年ほども昔である。 そのような古代には部族や近隣の国などからの攻撃もあり、福祉制度も病院もまた便利な数々の電気機器も、乗り物もなく、雨も降らず、害虫がはびこるとき農作物も壊滅的となり、厳しい飢饉や水不足で現代人には考えられないような苦難も数々あったはずである。
そのような中にあっても、この詩には、にじみでる実感がある。それが人間の本質につながる深い実感であるゆえに、三千年という歳月をいかなる災害や伝染病の蔓延、また部族争い、戦争等々にも呑み込まれずに、現代まで深い地下水のごとく、また大空に輝く星のごとくにその輝きを失うことなく、現在の複雑きわまりない私たちの魂にまで流れ込むのである。
そしてイエスは、意外なことに次のように述べた。これは、以後の多くの人々、とくに日本の人々も どうしてイエスがそんなことを…といぶかしがる内容でもあった。
…わたしが来たのは、地上に平和をもたらすためだと思ってはならない。
平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」
(マタイ10の34)
これは、みせかけの表面的な平和でなく、本当の平和のためには、霊的な戦いが生じることを示していて、イエスご自身がその激しい戦いを十字架に至るまでなされた。
イエスも伝道の生涯の出発点において、サタンの誘惑に出会い、そこでその強力な闇の力との戦いに直面した。その戦いの武器とは何であったか。
それが神の言葉であった。
…悪魔がイエスに近づいて来て言った。
「お前が神の子なら、これらの石がパンになるように命じてみよ。」
イエスは言われた。
「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と書いてある、(マタイ4の4)
これは、旧約聖書の申命記8章3節からの引用であり、イエスは、自分の考えであえて反論せず、ずっと伝えられてきた神の言葉を用いてサタンを退けたのだった。
このように、人を現実に殺害したり傷を負わせたりするのでなく、神の言葉によって悪の力に打ち勝つことは、イエスが最初から示したことだった。
これこそは、究極的な真理の人であり、神と同質の本質を与えられたキリストのことばであり、方針だった。
そしてこれは、現代というきわめて複雑多様な世界においても、そこに秘められた悪の力を根本的に打ち勝つのは、神の言葉なのである。そして神の言葉そのものでもある活きて働くキリストの力である。
またその活きたキリストの別の表現でもある聖霊の力による。
こうした真実の助け手、導き、そして不滅の力こそがキリスト者の真正の武器なのである。
こうした武器は数千年前からずっとさび付くことなく、金も権力も健康、能力などなくとも、ただキリストの十字架のあがない、そして死に打ち勝つ復活の力が存在することを信じるだけで、万人が、「ほんとうの平和への道」を歩むことができるようになる。
…胸には正義の胸当てを着け、 足には平和の福音の備えを履け。
これらすべてのものの上に、信仰の盾を取れ。悪しき者が放つ火の矢を、みな消すことができる。
救いの兜をかぶり、
また霊の剣、すなわち神の言葉を受け取りなさい。 すべての祈りと願いをもって、霊に助けられて祈りなさい。 (エペソ6の14〜17より)
この世の平和は単に戦争がない状態を期待する。
日本は80年間、実際に外国で武力をもちいての殺傷に加わらなかった。
しかし、それで日本には何も問題がないのかというと決してそうでないのは、さまざまの犯罪や自殺者が年間2万人を越えているし、自殺未遂はその10倍ほどもあろうと推定され、また小中高生徒という若年層の自殺は世界的にも、最も高い水準となっていることは、近年多く報道されている。
戦争しなくとも、このような状況であり、戦争しないから平和だ、などと安心してよい状態では決してない。
イエスの平和をもたらすためでなく、剣をもたらすためだと、という驚くべき言葉は、私たちを「ほんとうの平和」から妨げているのは、自分中心の考えやそこから生まれるさまざまの欲望、金や名声、権力等々に人間は支配されている。
そうした闇の力を滅ぼして真実な清いもの、慈しみ、美しきものへの心が生まれるために、そのような闇の力を神の霊的な力で滅ぼすために来たのだと。
実際に、イエスが十字架にかけられて恐るべき苦しみを受けて死なれたのは、そのような闇の力、罪を犯させようとする力を神の正義と愛、真実の力によって滅ぼすためであった。
そしてそのイエスの十字架を信じるだけで、その人の魂をとらえていた闇の力が追い出され、以前はみえなかった神の真実や愛にもとづくはたらきがいろいろと魂の目に入ってくるようになる。
ー神との深い結びつき
真実な祈りは、神との目に見えない交流、語り合い、言葉をこえた霊的交流である、
それは神の愛によるうながしによってなされることであるゆえ、特定の人への祈りであっても、神から受けた愛をもって祈ることであるゆえに、他者にも広がる。
どこかで神からの愛が注がれるなら、それは永遠の泉からきたものなので、その祈られる相手の人間だけではとどまらない。
本当の愛(神よりの愛)であればあるほど、それはたった一人への愛であっても、その愛は広がる。
神の愛は、境界がない。ゆえに、時間や空間をも越えていく。
私は一冊の本の立ち読みでキリストの十字架による罪のあがない、赦しという福音の根源を知らされて、今日に至っている。
それは、考えても とても不思議なこと、わずか半ページにも満たない内容によって生涯の方向が決定的に変えられたのだから。
こうした神のわざの背後には、本を書いた矢内原忠雄(*)の、キリスト教に無縁な人が圧倒的に多い日本人に対する愛と祈りがあり、その矢内原の信仰の背後には、内村鑑三や信仰の友による祈りがあり、また独立した集会を持つようになってからは、そこに集まる集会員の方々の祈りがつねに矢内原に注がれていたのを感じる。 戦後、東大総長を6年間 お
そして私が、矢内原の書いた一冊の本のわずかの部分で信仰を与えられたのも、神のはたらきであるが、そのはたらきは、すでに述べたように矢内原に注がれていた多くの人たちの祈りによる祝福の一端であったと感じる。
矢内原への主にある愛は、時間を越え、場所を越えてキリスト教など全く関心もなく知識もなかった私にも届いたのだった。
(*)矢内原忠雄 (1893?1961)愛媛県生まれ。1937年、『中央公論』に「国家の理想」を発表し、国家の正義と弱者保護を主張。さらに、南京事件を批判する講演が問題視され、東京大学教授を辞任。戦後、6年間、東大総長。
それから60年近い歳月を経ても、その福音の真理はいっそう深まり、私の日毎の平安と力となっている。
私は、その本の著者、矢内原忠雄という人物がいかなる人か全く知らなかった。彼の人柄や経歴などもみていなかったし、その古書での一冊を見たときも、彼の経歴など見た記憶もないので、その人柄によって影響されてキリスト教信仰を与えられたのではなかった。
ただ深く、私の魂に射し込んだのは、そのような人間的なものでなく、神の言葉、それ自体が突然に私の心の深くに入ってきたのだった。
神の言葉は、それほど人間の根本に働く。
私はいままでの歩んだ道のどのときも、その十字架による罪の赦しがつねにあった。
いかに欠点多くとも、また、困難なこと、悲しむべきことが生じても、あとから、あれは自分の罪のゆえだった、本来のあり方でなかったーとわかっていくことも多くあるにもかかわらず、神の言葉が私にも託されたということは事実だった。
祈りは風のように
祈ることは、霊そのものである神にうながされてなされるとき、それは、神からの風を受けてなされる。
神は霊である。霊とは中国語の訳語であるが、原語はルーァハであり、それは、「風」を意味している。(*)
それゆえに、「神は霊である」というのは、「神は風である」と言い換えることもできることになる。
たしかに、神は風のごとき存在であり、どこから来て、どこへゆくのかだれも分からない。目に見えないが、驚くべき力を表すのは、台風、竜巻などの場合でも広く知られている。
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(*)次のような個所では、ルーァハは 「風 」と訳されている。
〇彼らは神の声を聞いた。日の涼しい風の吹くころに…」 (創世記3の8) 〇主が大風を海に向かって起こされたので、大嵐が海に起こり… (ヨナ書1の4)
〇風よ、四方から吹いて来て、この殺された者たちの上に吹きかけ…(エゼキエル書 37の9)
(ここは、ルーァハを「息」と訳すこともあるが、四方から吹いて…と続くので、風と訳すのが自然である。)
〇主が命じられると、嵐の風が起こり、波を高くした。」 (詩篇 107の:25)
〇神は東風を天に向かって吹かせ、西風をその力によって導かれた」(詩篇 78の26)
〇「神はノアと箱舟にいたすべての生き物を覚えられ、地の上に風を吹き渡らせ、水は引き始めた(創世記9の1)
主イエスご自身も、神の霊を風にたとえたがゆえに、その霊に導かれる人もまた 風のごとし といわれた。
次の主イエスの言葉で、風と霊 は同じプネウマというギリシャ語であるが、日本語訳では、風と霊 というように訳し分けている。
「風(プネウマ)は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこから来て、どこへ行くかは知らない。霊(風)(プネウマ)から生まれる者もみな、それと同じである。」(ヨハネ3の8)
この広く知られたイエスの言葉では、プネウマ は神の別の表現として用いられている。神の働きは風のごとしであって、どこから来てどこへ行くのか分からない。 そのわざは誰も予測できないし、それがどのように影響していくのかだれも予測できない。
同様に、そのような神の風によって生まれる人もまた、同様で、だれがそうした風なる神の働きでどのように変えられるのか、またその後 どのような働きをするのか、だれも予測できない、神秘なこととなるーといった意味を含ませている。
なお、中国語の「風」という漢字が意味するのは、単なる空気が動くという物理的な意味だけでない。それは、「気風」とか「風格」「風味」といった言葉に現れているように、目に見えない霊的なものをも包含している深みのある言葉であった。
ヘブル語(ルーァハ)やギリシャ語(プネウマ)は、いずれも風、息、霊といった意味を持っている共通点がある。また、風と霊、息について、ラテン語 スピーリトゥスは、息や霊といったニュアンスがもとにある。(風というのは別の ventus である)
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また、それは無線の放送局のようなものでもある。
目に見えない電波によって洪水のように膨大な情報が世界に放出されている。
それらによって世界の人々の魂は揺さぶられ、静まることが難しい状況へと引っ張られつつある。
それと対照的に、永遠の昔から、目に見えない発信元(神)があり、それが今日に至っても、一貫して発信されつづけている。
その出されているメッセージを受けとるためには、特別な無線に関する機器、電気、場所…あるいは専門的な知識や経験、知的能力の高さ…等々なにも必要でない。
ただ、幼な子のような心もて、真実に求めるだけで足りる。
病気の苦しみとか家族が家から出てしまってどうなったかわからない…周囲の人たちからひどくいじめられ、暴言や差別的言動を受けて、もう仕事ができない…等々。
そんなときに、神さまを信じていない人でも、もう祈るだけだとか、祈りたい気持だ、といった気持になる場合も多いようである。
そのように祈らずにいられない状況となって、何か目に見えない存在に心を注ごうとする、それは神のかたちを与えられている人間だからこそである。
けれども、そもそも神がそのような目に見えない存在に心を注ごうとする心を人にあたえたのは、本来はいつも祈ることが期待されているといえる。
苦難のときとは逆の、喜びのとき、また心楽しいとき、仕事に忙しいとき、また車の運転中であっても、祈りはできる。
そして、祈りは神への愛の具体的現れであり、主イエスがもっとも重要なことは神を愛し、隣人を愛せよと 言われたその戒めに合うことでもあった。
神への祈り、他者への祈りこそは、神を愛し、隣人を愛するということの別表現なのである。
月に寄すー死の迫るときに受けた慰め(*)
あなた(月)は再び、茂みと谷を 静かに霧のような輝きで満たし、
ついには、私の魂をも 完全に解き放ってくれる。
私の野原の上に 優しくあなたのまなざしを広げる、
まるで友の穏やかな目が 私の運命を見守るように
An den Mond
F・llest wieder Busch und Tal Still mit Nebelglanz,
L・sest endlich auch einmal Meine Seele ganz;
Breitest ・ber mein Gefild Lindernd deinen Blick,
Wie des Freundes Auge mild ワ ber mein Geschick.
(*)ゲーテ作「月に寄す」の原文の冒頭部分。(ドイツ語)ドイツ戦没学生の手紙 岩波新書 150頁 1938年発行、1987年 第7刷
ここに引用したのは、第一次世界大戦において一人のドイツ兵が書き残した手紙に引用されていたゲーテの詩。
死の迫りくる状況、周囲に大怪我や死んだ人たちと日々出会うような過酷な生活のなかで、何が魂を休ませるのか、その一端がここに見える。
トルストイの「戦争と平和」の中にも、ナポレオン戦争のゆえに、大怪我をして地面に倒れていた一人の兵士が、敵軍の司令官たるナポレオンがたまたまその兵士のそばを通りかかった。
起き上がることもできない重傷で、死が間近に迫っているほどの怪我をしていたの兵士は、仰向けに横たわっている目に映じた、大いなる青い空に深く感じたことの意味が特に記されている。
自然の純粋な清さ、美しさ、また永遠性といったものは、そうした人間が生きるか死ぬかという極限的な状況にあって初めて人はそうした永遠的な清さ、美というものこそが、戦争という闇の総体のようなもののただ中でも、光を放っていて、魂の中まで射してくるものだということをはっきりと知らされた。
この自然の世界の清らかさや永遠性といったものは、いかなる人間も作ることができない。
いかに生成AIなどが発達しようとも、青く澄んだ広大な大空そのものや星や月などを作り出すこともできないのは言うまでもないことであり、そこからくる深い慰めや語りかけ、感動というものも、主によって行かされている魂だけがそうした自然現象の中に、神の愛、慰めや励ましを感じ取ることができる。
クェーカーとは、キリスト教の一つの流れであり、
1624年生まれのジョージ・フォックスにより始められた。
黙して聖霊を受けることを最も重視し、礼拝も沈黙の礼拝が主体で、聖霊に語りかけられたと感じた人がそのことを証しとして語る、という一般のキリスト教の教会とは異なるかたちをとっている。
その沈黙の礼拝から与えられて 語りかけられた静かなる細き声に従う力をも同時に与えられるほどに、神からの語りかけを聞きとる祈りに集中した。
その祈りのうちに、武器をもって他者を殺害することの間違いをはっきりと啓示され、イエスの入れた「剣をもってするものは剣によって滅ぶ」ということばをその沈黙の祈りの中で確たる真理として聞き取り、それを実践し、非暴力、非戦を貫いた。
また、当時のイギリスのキリスト国教会の教職者制度に従わなかったり、真正の王は神だ、として、王への誓いの儀式を拒否したり…そのため、イギリスで厳しく迫害され投獄される人が多数生じた。一部の人たちは遠くアメリカ大陸へと逃れたが、そこでも迫害された。 しかし、彼らは、 インデアンと呼ばれていたアメリカの原住民に対しても、宣教のために武器を持たずに近づいて働きかけたが、キリスト教の各種の教派でもクェーカーが唯一であったと記されている。
クェーカーの特質とそのアメリカでの歴史、黒人への関わり、戦争に関しての姿勢などについて「クェーカー300年史」(キリスト友会日本年会刊 一九六一年)はとても優れた書である。
著者のハワード・ブリントンは、物理学者であったが後にキリスト教、哲学の研究に力を注ぐようになった。
なお、この書の巻頭には、エリザベス・ヴァイニングが序文を書いている。
このヴァイニング夫人は、 クェーカーのキリスト者で、戦後、アメリカから来日して、皇太子(現在の上皇)の教育にかかわったことで知られている。
また、新渡戸稲造は、五千円札にも使われていたが、彼は日本人で最初のクェーカーのキリスト者であった。
(なお、クェーカーは1947年にノーベル平和賞を受けた)
―心に残っているみ言葉 高橋貴美子(北海道)
…神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。
もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。
(ヨハネの黙示録21の3〜4)
三年前に余命数ヶ月と言われていた70代の友人Kさん宅に行った時、庭をぐるっと案内してくれました。またその時彼女は「私はキリスト者でよかったわ。今またマタイ福音書から読み進めているのよ。」と言ってくれました。
そのKさんが、その一年後に ご自宅で召され、親族のみの葬儀でした。
その時の説教をその夫(牧師)が最近メールで送ってくれました。その牧師さんは、日本キリスト教会の北海道巡回牧師をしている方です。
そのKさんは召される直前、午前0時ごろ。眠るのが不安な様子が続いていて、在宅ケアをされていたご夫君が、腕をさすってあげていた時に突然、か細いが真実のこめられた声で「神様の言葉を伝えてください。」と牧師である夫に頼んだそうです。
その時、彼はこのヨハネの黙示録を思い、「いろいろとわからないことは、みんな神様に委ねて安心しなさい。神様はあなたも私も全部ご存知の上で受け入れて下さっているんだから。その神様が共にいてくださる。共に住んでくださる。その確かなしるしがイエス・キリストなんだからね。」と話したそうです。
彼女は黙って聞いてくれていて、それが最後の会話だったそうです。
このK牧師はコロナ流行の時だったこともあって、自宅で息子さん、娘さん、親戚の方何人かと葬儀をして、この時の説教をしたんですけれども。たぶん息子さん、娘さん、そこに集った人に本当に伝えたかったことだと思います。感動しました。
別に牧師さんということじゃなくても、死の間際にいる人に「安心していいよ。イエス・キリストの救いの約束があるんだよ。」と共に祈ることができるのは、なんという信仰の大いなる恵みでしょうか。(医師)
(ここに掲載したのは、主日礼拝の聖書講話の前に、心に残る御言葉3分の中で語られたものです。)
―仕えることのふしぎ
小舘知子(東京)
父が亡くなって一人暮らしになった母が、週末はうちに泊まりに来ます。初めのうちは優しくできたのですが、だんだん母への対応が雑になってきました。
外を歩くときも最初は腕を組んでおしゃべりしながらゆっくり歩いていたのですが、最近は、「もう少し早く歩いて」とか「背筋を伸ばして」とか言ってしまいます。足腰のためとか首が下がらないためとか、私なりに母の今後を心配してリハビリのつもりなのですが、母にとっては面白くありません。
楽しいはずのお散歩がなんだかつまらない気分になってしまったりします。熱中症予防のために「水をたくさん飲んでね」と勧め、「水は飲みたくない」という返事が返って来ると、「それでも飲まないと」と強いるような言い方になります。
細かな日常生活の中にこのようなやり取りがいくつもあって、そうしているうちにものの言い方がぞんざいになってしまいました。それだけでなく、のそのそ歩いて道を塞がれると邪魔だと感じてしまう事もあります。このような心は正しくないとわかっているのですが、イライラしてしまいます。母は緑内障で視野が非常に狭くなっていて早くは歩けないのです。それを知っていながらイラっとしてしまうのです。自分ではどうすることもできません。
そんなある時、「仕えなさい」というイエス様の言葉をふっと思い出しました。仕えるとはどういうことなのだろうかとこのところ考えていたからだろうと思います。私は今まで人に仕えようと思ったことは一度もありません。
仕事の責任を果たすとか、人のために骨を折るとか、そういうことはして来ましたが、人に仕えた経験はありません。人が人に仕えるなど、奴隷でもないのにおかしな感じがします。けれどもイエス様は全ての人に仕えなさいとおっしゃいました。それで私は、仕えるという事について考えていました。
私の前をのろのろ歩いている母の背中にイラっとした時、突然「仕えなさい」というみ言葉が浮かびました。「母に仕える」ということが思い浮かびました。
これまでの六十年間思ってもみなかったことです。親を敬うということすらできた例のない私です。それなのに、この言葉が思い浮かんだ時、そうしたいと思ったのです。
不思議なことです。敬う事からも仕えることからも遠く離れた所にいる私が、この言葉が浮かぶと同時に母への慈しみが生まれ、仕えたいと思ったのでした。その瞬間にイラっとした気持ちは潮が引くように消え、心には喜びがありました。戒めに従おうという意気込みではなくて、母を愛して仕えたいという喜びの感覚でした。
何とも不思議なことで、これはみ言葉の力に違いないと思います。み言葉が訪れて、私の知らないうちに私の心を変えてくださったのです。鮮やかな御業です。 しかも驚いたのは、「仕える」ということと喜びが一致していた事です。仕えるのは自分を滅する事であり、嫌なこと、辛いことと思い込んでいました。ところが、仕えたいと望んだ時の心は喜びに満ちていたのです。理屈で説明しきれない驚くべきことです。み言葉には計り知れない力があることを知りました。
(登戸学寮寮母)
(これは、今年8月17日にキリスト教独立伝道会派遣の伝道集会のときに、小舘 美彦、知子ご夫妻が来徳したときのお話しの一部です。ご夫君の講話は、独立伝道会の次回発行の定期刊行物にて掲載される予定です。)
ークエーカーの祈り
本間 勝(神奈川)
「火の後に、静かなる細き声ありき」(列王記上19の12)
2014年夏、敬愛する加納貞彦・孝代夫妻に同行して、米国ニュージャージー州カンバーランドの、クエーカー(*)のお宅に10日間ほど滞在した。
渡航目的はカンバーランド郡大学での講演で、加納貞彦さんは日本国憲法の紹介を、私は東京空襲の被災体験を語った。
反戦・非戦主義のクエーカーの方々は拙い英語のスピーチを熱心に聞いてくれた。
〇 滞在中に日曜日が二度あり、二度とも、家主夫妻に誘われてクエーカー教会の日曜礼拝に出席した。
驚いたことに、説教も、お祈りも、聖書朗読も、讃美歌もなく90分間 ただ黙祷のみであった。
黙祷中に啓示を受けた人があると立って証をしたり賛美を歌ったりすることもあるそうだが、私たちが出席した折には二回共そうした事はなく、90分間ひたすら黙祷のみであった。
聞こえてくるかもしれない「静かな細い声」に一生懸命耳を澄ますという様子であった。
〇食前の感謝も「黙祷」であった。家族と客が全員食卓を囲んで、両手をつないで静かに黙祷する。
〇 輪の中の誰かに、キリストの啓示が与えられると、全員に伝わり、皆が祝福される。
それ以来、我が家でも、又、麦の会の仲間で食事をする時も、クエーカーに習って全員で手をつないで黙祷することにしている。
気が付くと、輪の中に、主が共に居て下さる。
(これは、心に残る御言葉3分として、主日礼拝(2025.09.14)の聖書講話の前に語られたことばです。)
第13回
「祈りの友・合同集会」
この「祈りの友」の合同集会は、例年と同様に、9月23日(休日)に、徳島聖書キリスト集会を会場として開催されました。
以下のようなプログラムでなされ、参加者は会場、オンライン合わせて53名。
オンラインによって、北海道から九州までのいろいろな地域からの参加者が祈りのために集められて真実な祈りが捧げられ、祈りにより、聖霊による交流が与えられて感謝でした。
〇日時…9月23日
11時〜16時
開会礼拝 黙祷
・讃美「天の神 祈ります」 讃美歌21の354
・開会の祈り 司会者
・開会挨拶 吉村 孝雄
2、祈りに関する聖書からのメッセージ
@香西 信(岡山)
岡山聖書集会 代表
A清水 勝 (大阪)
高槻聖愛キリスト集会代表
B那須 佳子(大阪)
高槻聖書キリスト集会代表
3.12時〜13時
昼食、交流の時間
4、 祈りに関しての感話メッセージ 各10分
@永井 信子(東京・八王子市)
A富永國比古(福島・郡山市)
B西澤 正文(静岡・清水市)
5、自己紹介と近況報告
13時30分〜14時
6.15時〜16時
5 午後三時の祈り(全員) ・賛美「祈りの友の歌」
7.15時50分〜16時
閉会の祈り
〇「祈りの友・合同集会」の録音CD
「祈りの友・合同集会」の内容の全部を録音したのCDが作成されています。(MP3形式なので、普通のCDプレーヤでは聞けないのですが、DVDプレーヤーではきくことができるのが多いです。)
ご希望の方は、1枚500円(送料込)です。切手が簡便です。お家に残っている未使用の古切手でも可です。
〇第52回 瀬棚聖書集会の開催について
・北海道の南西部の日本海沿いの地域である、瀬棚という場所で、来る11月26日(水)から28日(金)までの三日間に開催されます。
初日の26日(水)は午後8時からの開会式、自己紹介などがあります。
今回の瀬棚聖書集会もオンライン併用で、今までのスカイプが廃止されたのでグーグル・ミートが用いられます。これはすでに徳島聖書キリスト集会では主日礼拝や家庭集会などで用いています。
参加希望者でグーグル・ミートをつかったことがない方は、徳島聖書キリスト集会の吉村孝雄まで、左記の電話、メールなどで問い合わせください。担当者によってパソコン、スマホでどなたでもできるように詳しく説明がなされます。
以下の集会は対面とオンライン併用が多いです。問い合わせは左記の吉村孝雄まで。
〇主日礼拝 毎週日曜日 午前10時30分から。
徳島市南田宮1丁目の集会所とオンライン(グーグル・ミート)
〇 夕拝…毎月第一、第三火曜日夜 19時30分〜21時
@ 天宝堂集会…第二金曜20時〜21時30分
A 北島集会…第四火曜13時〜15時 第二曜日 13時〜
B 海陽集会…第二火曜日 10時〜12時

〇 http://pistis.jp (「徳島聖書キリスト集会」で検索)