2011年9月
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本文
水野源三の詩 から(*)

平和

住む国も
話す言葉も
考える事も
それぞれ異なる
何十億の人々が
父なる神さまの
みもとに立ち返るように
朝に祈り
夕に祈る

(*)水野源三(一九三九〜一九八四)九歳のときに、赤痢にかかり、命はとりとめたが全身が動かなくなり、言葉も出なくなった。後にキリスト信仰に導かれ、まばたきをもって、母親が示す五十音図の単語を示して詩を作るようになった。この詩は、「み国をめざして 水野源三第四詩集」262頁より。

・祈りは個人的なこと、身近な人に向けられたものもあるが、他方、この詩のように、狭い部屋で寝たきりのようになっている状態にあっても世界の人たちが神のもとに立ち返るようにと祈ることができる。
主イエスが、「御国が来ますように、神のご意志が天に行われているように、地上でもおこなわれるように」と祈れと教えられた。その主イエスの祈りの精神は、この詩においても流れている。
私たちもまた、その祈りの心がいつも流れているようでありたいと願う。



百舌は
秋の朝を喜び
赤とんぼは
秋の空を喜び
こすもすの花は
秋の陽差しを喜び

秋にやさしくやさしく
包まれている私は
神さまの
恵みを喜ぶ

・寝たきりの身ゆえに、窓から見える数少ない風物からではあるが、作者は秋の自然から喜びの声を聞き取った。多くのものに触れたからといってより多くの神からのメッセージを聞き取るということではない。どんなに小さくとも、狭い範囲であっても、神とともにある静けさがあり、聖なる霊が宿っているときには、取るに足らないような身近な自然、日常的な事物からも神による喜びを聞き取ることができる。
○芭蕉の俳句から

閑かさや 岩にしみ入る蝉の声

・この俳句は、すでに学校教育でも広く取り上げられているからだれでも知っていると思われる。
この俳句が作られたのは、芭蕉が、山形県の立石寺を訪ねたとき、夕刻であった。
「…岩に巖を重ねて山とし、松柏年ふり、土石老いて苔なめらかに…佳景寂莫として心澄みゆくのみ覚ゆ。」とある。
このような自然の深い静まりのただなかに蝉が鳴いており、それは付近一帯の岩にしみ入っていくのを実感したのであろう。
このような昔の詩人が作った俳句は現代の自分とは関わりあるものとは思われていないことが多い。
しかし、岩にしみ入るとは、そのような山中の特殊な場合だけでない。
私たちの心も岩のようなもので本来なかなか良きものが入っていかない。しかし、そこに主にある静けさがあるとき、岩のごとき魂にも周囲の自然から、また聖書のなかから、あるいはキリスト者の集まりの中からもさまざまのよきものがしみ入ってくる。
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(347)若葉の一つ一つに
神は
復活の約束を
聖書のうちばかりでなく
春の若葉の一枚一枚に書き記しておられる。(マルチン・ルター)

・次のように言うこともできるだろう。
神は、夜空の星の一つ一つに永遠の光の存在と、罪清められたのちの姿をも書き記し、野草の花の一つ一つに救われた魂の姿を書き込んでいる…と。
自然の事物は、神のさまざまの思い、ご意志、その約束を書き込んだものであり、一種のバイブルなのである。

(348)神のために生きる
…魂のために、真理に従い、神の言葉に従って生きていると言った百姓の言葉を耳にすると同時に、おぼろげではあるが、意味深い考えが群れをなして、今まで閉じ込められていたところから、急に飛び出して来たかのようであった。
そしてそれらの考えは、みな一様に、一つの目的に向かって突進しながら、その輝きで彼の目をくらませつつ、彼の頭の中で渦巻きはじめた。…
百姓の言った言葉は、彼の心に、電気の火花のような作用を起こして、これまで一時も彼をはなれたことのない、断片的な地のない、ちりぢりばらばらのおびただしい考えを、突如として変形させ、ひとつのものに結合した。(「アンナ・カレーニナ」トルストイ著588頁 河出書房)
・これは、この著作の終末部に近いところで、主人公が次第に神への信仰に目覚めていくところである。長いあいだ、この主人公(レーヴィン)は、自分とは一体何であるのか、何のために生きているのか、ということがわからずに生きてきた。それが分からなかったら生きていくのは不可能である。ところが自分はそれを知らない、だから生きていくことはできないのだ…と考えていた。
そのような精神の暗闇でさまよっていたとき、ようやく光が射し込んだのである。生きていくとは、真理そのもの、神の言葉に従って生きていくことだ、そのために自分はこの世に存在しているのだ、ということがはっきりとわかってきたのである。
細かい字で三段組みで600頁を越すこの長編の目的は、この最後のところにある。この生きる目的を知らずに、あるいはそれに意図的に背を向け、自分の欲望や自分の意志によって生きていこうとしたとき、いかに深刻なさばきを受けていくか、それがアンナの生涯―最後は列車に飛び込む―で象徴的に示されていく。
この長編の最初の扉に書かれている言葉は、「復讐は我にあり、我これを報いん」(ローマの信徒への手紙12の19)である。神のために生きようとしないときには、必ず神によって裁きを受けるということなのである。
そういう裁きを受けることなく、ただ信じるだけで与えられる救いを皆が受けられるようにと、キリストは来られ、十字架にかかられたのであった。