20054

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ことば

208)愛というのは、力であって、使えば使うほどあふれてくる。泉のように汲めば汲むほど湧き出てくるし、使えば使うほど育ってくるものなのです。(「人間としてどう生きるか」渡辺和子著)

ここで言う愛とは、自然のままの人間が持っている親子や友人、男女に生じる人間の愛でなく、神からの無差別的な愛を指している。人間的な愛は、この言葉に言われているような本質がなく、特定の人にだけ自分の感情を結びつけるために相手の態度で大きく左右されるし、裏切られたりすると憎しみになる。さらにこうした愛はそれを持てない人からのねたみを引き起こすことも多い。
神からの愛は、特定の人でなく、だれにでも及ぶ本質を持っていて、それゆえ主イエスは、隣人を愛せよと言われた。神の愛を受けるならそれが可能になるということである。
自分の近くに置かれた人、それがどのような人であっても、また自分の好き嫌いの感情で対処するのでなく、その人が最善になるようにとの願いの心が、神からきた愛だといえる。そのような愛については使えば使うほど、増えてくる。愛に限らず、神が持っておられる真実や正しさ、あるいは清さなども同様で用いるほど、自分の内にもまた相手や周囲にも増えるという本質がある。
キリストの愛はたしかに、無数の人によって用いられ、泉のように世界にあふれてきた。それが世界にキリストのことが伝わっていく原動力になっている。


20053

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ことば

207)人を説得しようとすれば、あなたはまず彼らに物質的「利益」を示すか(これはよくない方法である)、それとも彼らの心を獲得するかでなくてはならない。
これをなしとげる最上の道は、神に聞きいれられる祈りによることである。なぜなら、神はどんな人の心をも、その時どきに、以前とはまるで別物に変えることができるからだ。しかもこの心の変化は不思議なほど突然で、しかも決定的なことがある。
いずれにせよ、あなたはある人のため真剣に、くり返し祈ることもしないで、その人に絶望することがあってはならない。(ヒルティ著眠られぬ夜のために下 二月十九日の項)

Wenn Sie Menschen uberreden Wollen,so mussen Sie ihnen entweder materielle "Interessen"zeigen,was ein schlechtes Handwerk ist ,oder ihre Herzen gewinnen.
Der beste Weg hiezu ist ist das erhorige Gebet; denn Gott kann jedes Herz von Stunde tu Stunde zu etwas andern, als dem bisherigen gewinnen, und diese Ubergange sind oft merkwurdig plotzlich und entscheidend. Jedenfalls verzweifeln Sie an keinem Menschen bevor Sie Gott ernstlich und wiederholt fur ihn gebeten haben.

他人の心を獲得する、それは金や物を与えることで最も容易にできる。しかし、それは一時的なものであり、不純なものがそこにとどまるから、そのようにして獲得した心などは、すぐに変質する。
また相手の気持を惹くような言葉や行動で相手を得ようとすることも多い。それもまた一時的なものにすぎない。
しかし、神が働いて相手の心を変えるときには、それは永続的なものとなる。私たちはそのために祈るという道が与えられている。


20052

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205)あらゆる種類の失意について心の準備をしておきましょう。私はそのような準備が必要であることがわかるのです。
自分がなすべきことをしてその結果は神にゆだねること、これより他に私たちに何ができるでしょうか。また何をするつもりでいられるでしょうか。
神の御心は、天に行なわれると同様に地にも行われるのです。(「ナイチンゲール言葉集」124頁 現代社)

○私たちがなにかをなそうとするとき、その最悪のことが生じるときの心の準備をいつもしておくということである。一生懸命にやったのに、全く理解も評価もされない、あるいは逆に悪く言われるなど、失望落胆するような事態が生じることをあらかじめ覚悟しておくように言われている。
実際、そのようなことが生じるかも知れないからである。例えば、人にキリスト教のことを紹介しようとするとき、そのために悪く言われることがあり得ると心の準備をしておくことである。また、私たちに何ができるかを祈り、考えてなしたあとは、それがどのように受けとられようと、誤解されようとそれをすべて神に預けておく。これは神を信じることから自ずから生じる姿勢となる。
 ナイチンゲール(18201910)は、イギリスの看護婦。イタリアのフィレンツェ生れ。クリミア戦争に際し多くの看護婦を率いて傷病兵の看護に当り、「クリミアの天使」と呼ばれた。

206)…この一つのことをこそ、真理と認めることが必要である。ー それは善き人に対しては生きているときにも死んでからも、いかなる災いも起こり得ないこと、またその人は、何と取り組んでいても、神々の配慮を受けないということはないということである。(「ソクラテスの弁明」41D)

この言葉は、ソクラテス(470〜前399)死刑の判決を受けて、死を前にして語った最後の部分にある。これは「弁明」というタイトルで知られてきたが、内容は、弁明というよりは、彼が何を考え、いかに生きてきたかの力強い証言である。彼に言われた罪とは、自分が子供のときから神の霊の語りかけを受けて、間違ったことならどんな小さいことでもそれを差し止める声が聞こえてきた。その導きに従って彼は人間のまちがった考え方をたえず話し合いによって正しい方へと導いていったが、そうしたことが「国家の認める神々を認めないでその代わりに新しい神の霊を信じるようにと教えた」として、青年たちを腐敗させたというのであった。
 このように、聖書の世界を知らされていなかったところにも、正義の永遠的な力を信じ、いかなることがあろうとも、悪が正義に打ち勝つことはあり得ないという確信を持った人が起こされていたのである。
 私は大学時代の後半期にプラトンの著作を初めて知らされ、その深い洞察に魂の目を開かれていった。そしてそうした心の準備を経てキリスト教へと導かれた。歴史的にみても、ローマ帝国の精神的土壌は、ギリシャ哲学がもとにあり、それによって耕されたところに、キリスト教が入っていったのであった。