福 音
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2004

st07_m2.gif著者:大阪狭山聖書集会代表者(月刊誌)

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st07_m2.gif「京阪神聖書研究会連合・クリスマス講演会より」 福音  №一九九 2004年12

  言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。          (ヨハネ福音書一章十四~十八)

1馬ぶねの中に 産声上げ  2食する暇も うち忘れて
 木工の家に  人となりて  虐げられし 人を訪ね
 貧しき憂い  生きる悩み   友なき者の 友となりて
 つぶさになめし この人を見よ    心砕きし  この人を見よ

3全てのものを 与えしすえ 4この人を見よ この人にぞ
死の他何も  報いられで   こよなき愛は 現れたる
十字架の上に 上げられつつ この人を見よ この人こそ
敵を赦しし  この人を見よ 人となりたる活ける神なれ
(讃美歌一二一番)

   クリスマスの喜び

 街を歩けば、クリスマスソングの聞こえるこの頃、でも、目を閉じてじっと聴き入っていると、いろいろなところから悲しみの声が聞こえてきます。イラクで戦う人たちの叫び声、日々の食べ物も不足し飢餓と隣り合わせに生活している人たちの声。この日本でも、年老いて、手足を縛られてまで延命の点滴を受けている人たちの声にもならない声。何故か分からないまま、愛してくれるはずの親に虐待されて死んでいく子供たちの声。死にはしなかったけれど、心に深い傷を受けて生きている人たちの心の叫び声。病む人たちの痛む声。
 こんな現実のただ中にキリストが来てくださった。そして、目に見える現実は何一つ変わらないのに、私たちの心に神様の愛を刻んでくださった。どんな闇の中にも決して消えない光となってくださった。
 現実の世界、目に見える状況は何一つ変わらないのに、と言いました。キリストがこの地上に生まれてくださった二千年前も、今も、目を閉じると聞こえてくる悲しみの声はきっと変わらない。人々の、万物の、呻きも叫びも変わらない。でも、その悲しみや痛みの声を包むように、その背後に確かに聞こえるキリストの御声もまた、二千年の間絶えることはなかった。キリストは今も生きて私たちと共にいてくださる。この世界を一瞬にして造りかえることのおできになる力をもって、今も私たち一人一人が、神様のもとに帰るのを待っていてくださる。この世の現実以上に確かな、キリストの御声に聞く喜び。
 このキリストの御声を私たちは多くの場合聖書から聞くのですが、 今読んでいただきました、ヨハネ福音書一章一四節から。
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」
 言、すなわちイエスと名付けられたキリストが、肉となって、私たちと同じ肉体をもって、私たちの間に住まわれた。そして、この福音書を書いたヨハネ、また弟子たちなどイエス様と時代を共にした人たちは、肉眼でその栄光、神の独り子としての輝きを見、その栄光は、恵みと真理とに満ちていたと、証しています。
 恵みとは、全く受けるにふさわしくない者に与えられる神様の愛であり、先ほど歌いました讃美歌一二一番のイエス様の姿は、その恵みをとても美しく、分かり易く描いています。自分の心を見つめるなら、口から出る悪い言葉を思うなら、死んであたりまえ、滅びて当然の者を、神様は深く憐れみ、御自身がその罪を負い十字架について下さった。「律法はモーセを通して与えられ、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。」と、その恵みの大きさを思うばかりです。
 真理とは、イエス様御自身が「わたしは真理である」ヨハネ14:6と言われ、また「わたしは真理について証をするために来た。」ヨハネ18:37とも言われています。真理という言葉を説明するのは私には難しいですが、讃美歌一二一番に描かれたイエス様の姿、その恵みを深く思うとき、心が真理に導かれていくのを感じます。「この人をみよ」と、イエス・キリストをじっと見上げるとき、何が正しくて、何が間違っているかが分かってきます。イエス様御自身が真理であり、私たちを真理に導いてくださるのが分かります。
 少し具体的に話したいと思います。
 「まぶねの中に産声あげ」、と歌うとき、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」ルカ2:7というイエス様誕生の記事を思い出します。主は、私たちのために貧しくなられた。家畜の餌入れの中に眠っておられるイエス様を思うと、もっと大きな家を、もっと住み心地の良い部屋をと願う自分の心が恥ずかしくなります。もっともっとと豊かさを求める心を方向転換させて、今も客間の外におられるイエス様のもとに駆けていきたい。そこにこそ驚くべきクリスマスの喜びが隠されているという真理が分かるようになるからです。
 「食する暇も うち忘れて 虐げられし 人を訪ね 友なきものの、友となりて、心くだきし、この人を見よ」 食べることさえ忘れて、イエス様が探し求めてくださったから、今、私たちもここにいるのです。この恵みを思うとき、少しでも友なき者の友となり、イエス様の愛と真実を伝えたいと、心が真理に近づけられます。
 私の家のすぐ近くに、老人専門病院があり、三百人あまりのお年寄りがほぼ寝たきりの生活をしています。特に仕事をしていない私は、そこにいるお年寄りを見舞いたいと思いましたが、見知らぬ者が急に誰かを訪ねるというわけにも行かず、その人たちと関わりを持つために、十数年前、二年半ほどヘルパーとしてそこで働きました。そして、それ以後は自由に、何人かのお年寄りを見舞っているのですが、Αさんもその中の一人でした。Αさんは五十代で脳梗塞に倒れ、まだ意識も朦朧としてよだれを垂らしているとき、夫の持ってきた離婚届に何が何だか分からないまま判を押し、それ以来十五年もの間、ただ一人の見舞客もないという、半身不随で孤独の人でした。私が出会った時は六〇才くらいだったと思いますが、話を聞くと、貧しさの中で育ち、大きくなって自分は田舎から大阪へ、たった一人の弟は移民船に乗ってブラジルへ。数年後、ブラジルのコーヒー園から弟の死亡通知が届いたとのことでした。若い日に結婚した人とも離婚し、お酒を飲み、生活は荒れ、倒れたときの夫とも罵りあいの生活だったそうです。病院で「やっと人間らしい気持ちになれた」という言葉には驚きましたが、その表情や言葉遣い、人を見れば「アホ、ボケ」という態度から、およそどのような生活をしてきた人かが分かります。
腹が立つと向かいのベッドの人にスプーンを投げ、喧嘩をすれば「ブタバコにいてたんやで」とすごみ、いさかいが絶えないので二階から四階へ、四階から五階、そしてまた二階へと看護婦さんたちも困り果てていました。見舞客がないので、私が見舞い始めたのですが、機嫌が悪いときは行くなり「帰って」と言われ、帰り道涙が出て、もう行くまいと思うことも度々でした。でも「友なき者の友となりて心砕きしこの人を見よ」と、イエス様のお心に励まされ、また「どうしてる?」と訪ね続けてて十年近く、分かり易いキリスト教関係の本など少しずつ読むようになり、「もっと若いとき、こんな本を知っていたら自分の人生も変わっていたかも知れない。」と言うようになりました。でも、喧嘩は絶えることなく、ついにその病院にいることができなくなったΑさんは、介助付き老人アパートのようなところで車椅子の一人暮らしを始めました。部屋の入り口には段差があり、一人で部屋の外に出ることはできません。ベランダにパンくずをまいて、スズメのくるのを待つ日々のようです。遠くなって、私は一月に一度くらいしか訪ねられなくなりましたが、一人部屋という格好の条件で、行くときには聖書と讃美歌を持っていきます。車椅子を押して、買い物や散歩の後、トイレがうまく出来ないので、いつも臭っている部屋で、少しずつ聖書を読み、一緒に讃美歌を歌い、祈って別れることをくり返していると、その内、Αさんの方から私の手を取って祈ってくれるようになりました。まだそこでも、人間関係はうまく築けないようですが、一月に二回ほどくれる葉書にはいつも「イエス様に祈っています」と書かれています。 私の人間的な思いでは、決して近づきたくなかったΑさんを、イエス様がどんなに気にかけておられたか、イエス様の憐れみの深さとそのご忍耐を思って、驚くばかりです。そして、そのΑさんの姿は私自身の姿なのだと知らされるのです。友なき者の友となるなど、人間的な思いでは決してできない。でも、友のいなかった私の友となって下さったイエス様の恵みに励まされて、私たちもまた、少しでも友なき者の友とさせていただけるのだと、知らされます。
 イエス様の恵みによって、その恵みが私たちを真理に導いてくれるのを思うばかりです。
 その主の恵みと憐れみに導かれてきた、私自身のことを話します。
 今日、こうして話しているのは、三月の末、藪本様から電話で「宮田さんの、クリスマスの喜びを話してくださいませんか」と、依頼されたわけですが、電話口でぐずぐず言っている私に、「何も人に褒めてもらうために話すんじゃない、誰かに評価してもらうために話すのでもない。あなたのイエスさまの喜びを、イエス様に向かって話せばいい」と率直に言ってくださり、その言葉をそのまま受け取って、「クリスマスの喜び」という題にしたわけです。それで、できるだけ正直に、私のクリスマスの喜び、イエス様に導かれる喜びを話させていただきます。
 クリスマス、私にとって一番忘れがたい、今も心の奥に残っているクリスマスは、神様を知る直前の二三才のクリスマスです。家族もいて、健康で、仕事もあって、友だちも、つき合っている人もいて、なのにたまらなく空しくて、どうしようもない虚無感が心を占め、窓の外に降る雪を眺めていたいのを覚えています。どうしてあんなに空しかったのか、今思えば、簡単なことです。祈ることを知らないクリスマス。他の人に仕えることを知らないクリスマス。キリストが心に来てくださらないクリスマス。
 でも、その空しさが、神様から私へのクリスマスプレゼントでした。その空虚感に耐えかねて、キリスト信仰の道を歩み始めたからです。
 その頃、私は工業高校の図書館で司書をしていました。そこに、今、徳島で伝道をしておられる吉村孝雄先生が理科の教師として勤務しておられ、「図書紹介・生活と読書の中から」など、ご自分で書かれた、いろいろなプリントを配布されていました。生徒と職員全員に配るのですが、キリスト教色が強く、かなり高度な内容で、ほとんどの人は目も通さないで捨てていたかも知れません。でも、誰に何を言われようと、黙々と書き、そして配り続けるその姿は、惰性で生きるより他ないと思っていた私には、深い感動でした。そして、もし、あのような真理の道があるのなら、たとえ、階段を一段一段登っていくようなゆっくりとした歩みでもいい、真理に至る道を歩みたい。そう思い始めていました。
 聖書はまだよく分からなかったけれど、ヒルティの「幸福論」に目が開かれ、そこに書かれている「神と共にある喜び」、これが人生の最高の喜びだ直感し、キリスト信仰の道を歩み始めました。そして、その頃すでに八〇才になっておられた杣友豊市さん宅での集会に参加するようにと導かれました。
 五・六名の小さな集まりだったと記憶していますが、杣友さんがお祈りをされている時、そこに神様がおられるのがはっきりと分かり、心は喜びで満たされました。ところが、礼拝で心が満たされるほど、今も助けを必要としている人がたくさんいるのに、聖書を読んで讃美歌を歌って、自分たちだけで喜んでいていいものか、もっと奉仕をするべきじゃないかと思い立ち、日曜の礼拝を休んで、子供の施設を訪ねたり、老人ホームを訪ねたりもしました。
 その頃から、私はいつも「礼拝」と「奉仕」、もっと具体的に言うと、聖書を学んだり、集会をしたり、信仰関係のことに時間を費やすべきか、人に仕え人を愛するために時間を費やすべきか、その二つの間で迷ってきたように思います。今はもちろん、その二つは別々のことではなく、同じことだと分かりますが、具体的な生活の中でどちらにウエイトを置くかは、神様がその人にふさわしく導かれるのだろうと思います。
 私の場合、自分の思いでは、ずっと一人で看護婦のような仕事をしながら主に仕える生涯を送りたいと、望みを抱いていましたが、神様は夫と共に生きるようにと導いてくださり、大阪でのごく平凡な生活が始まりました。
 でも、どんなに平凡な日々であっても、あの祈りのない、他の人に仕えることを知らない、神様が共におられない空虚な生活には、決して戻ることはできません。徳島から送ってくださる礼拝テープや、聖書の学びの通信を通して、一人で一生懸命信仰の歩みを続けました。その内、やはり共に礼拝をする仲間が欲しいと、教会にも行くようになっていました。
 ところが、ある日、ロマ書十一章を学んでいて、深く示されることがありました。十一章十七節から、確か、杣友さんの解説だったと思うのですが、接ぎ木された枝の謙遜についてのお話しでした。「無教会も教会に接ぎ木された一つの枝です。接ぎ木された枝が、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。(ロマ11:1718)、もし、ある教会が不信仰のために折り取られ、今無教会が信仰によって立っているとしても、思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。神が教会を容赦されないとしたら、無教会をも容赦されないでしょう。『神の慈愛と峻厳を見よ』、倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、無教会も切り取られるでしょう。」そんな内容のお話しだったと思うのですが、私には「接ぎ木された枝」という言葉が心に深く届きました。接ぎ木されるには、そこに神様の御計画がある。無教会には無教会の使命があるのだと示され、たった一人ででも無教会に留まろうと決意し、教会に行くのは止めて、その頃聖書を読むようになっていた夫と二人で日曜の礼拝をしました。
 それでも、やはり共に聖書を読み、共に祈る信仰の友がほしくて「たった一人の姉妹を与えて下さい」と祈りました。すると、その時の情景は今も覚えていますが、マンションの螺旋階段を下りてきた人が、私の顔を見るなり突然「私、聖書を学びたいんです。」と言いました。その人とは教会で顔を合わせていたのかも知れません。お互いに子育ての時期で、子供達をテーブルの下で遊ばせながら、月曜日はイザヤ書の学び、水曜日はテープを聞いて、金曜日は聖書通読と、それこそ渇いた鹿が谷川の水を慕い求めるような勢いで学びました。半年ほどたってその人は日曜の礼拝にも加わるようになり、特にイザヤ書の学びから救いの喜びを知らされた私たちは、この喜びを伝えたいと、祈りを合わせて貼り紙をしたりして、日曜学校をしたり、それから一人また一人と加えられ、狭山での小さな集会が始まったのでした。その頃から夫は、外でも信仰を学びたいと、各週に大阪聖書研究会に参加させていただき、十数年お世話になりました。
 共に祈りを合わせて励んできた姉妹はそれから八年ほどして、マザーテレサに強く引かれ、カトリック教会に移って行かれました。残された私たちには残念なことでしたが、その姉妹から教えられたことはとても多く、お互いの信仰生活のある期間、共に歩むことが許されたことは、本当に主の導きであったと、感謝するばかりです。
 これが、私の信仰のだいたいの経過ですが、次に集会のこと、祈りのことを話させていただきます。
 始めに、集会、共に礼拝をする、エクレシアについて話します。
 信仰は一人一人に与えられるもので、みんな一緒にと言うわけには行きません。神様は私たちを十把一からげにはなさらない。一人一人をかけがえのない者として、その人にだけ用意された救いの道を歩ませてくださる。だから私たちも、一人一人、自分にだけ備えられた道をたった一人で歩いていきくのです。
 でも、神様は本当に素晴らしいお方です、そんな孤独な私たちを、一つにしてくださる。「共に祈れ、共に歩め、共に生きよ」と、信仰の仲間を与えてくださる。私たちは一人であると共に、みんなと共に生きるようにと造られているのを思います。
 今話しましたように、私の所では今、日曜日には八人から十人ほどの人が集まって、一緒に礼拝をしています。共に集まって礼拝をするようになり、かれこれ二十年になりますが、幸いなことに、日曜日の礼拝は思い出す限り、一度も休んだことがありません。四国集会や全国集会で数人が抜けるときも、残った人たちで礼拝をします。礼拝はずっと徳島聖書キリスト集会の聖書講話をテープで聞いて、その後、参加者が感話をしていましたが、この夏から、テープを聞くだけでなく、自分たちでも学ぼうと言うことになり、各週には直接聖書から聴く集まりを持つようになりました。
 その経過を少し話します。テープで、優れた聖書講話が聞けるというのは、とても有り難いことです。自分たちでは分からない聖書の解き明かしに、みんなで毎週毎週感動し、テープを聴き続けてきました。でも、頭で分かって感動するというのと、自分の生活まで変えられていくということの間には大きなギャップがあります。素晴らしい話を聞いて、良く分かったような気持ちになって、でも自分が深いところで変わっていかないのは、分かったような気持ちになっているだけで、本当は分かっていないのではないか。聞くだけではいけない、自分自身が苦労して学ばなければ、分からないことがあるのだと気づき始めたのです。深い解き明かしでなくていい、少々間違っても、素朴に聖書を読んで、注解書も自分で読んで、自分たちで学んでいこう。そんな思いに導かれたのです。集う一人一人が、直接聖書を学び御言葉に聴く礼拝を第一と第三日曜に。正確で深い学びのためにはやはりテープを用いて第二第四日曜にと、今は続けています。このように礼拝の形も、導かれるままに、自由にすることができるのも無教会の有り難さだと思っています。
 特別な指導者もいない小さな家での、小さな集まりがこのように続けられるのは、ただ、主の憐れみによるもので、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」マタイ18:20と言われる主のご真実を思うばかりです。
 人の心とは、自分の心を見れば分かりますが、祈りのない自然な心は、すぐに他者を批判してしまいます。あの人はここがおかしい、この人はもっとこうすればいいのにと、こんな集会ではダメだと、簡単につぶやいてしまいます。そして、もっと考え方が合う人、もっと一致できる人だけが集まれば、もっといい集会になるのにと思ってしまいます。でも、それは違うのだと知らされています。近寄って見つめれば、自分と同じ人など一人もいない。一致できる人など一人もいない。そんなバラバラの人間を一つところに集められるのは神様のお働きであって、集会は神様の御業として今そこにあるのです。どんなにバラバラであっても、主が呼び集めてくださったと信じて受け取ることの大切さを思います。集会の主は、私たちではなく、主イエス・キリストだからです。一つになるなど、人間の思いでは決してできませんが、何よりも主イエス様が「一つにしてください」と祈っていてくださるのですから、聖霊によって一つにされることを祈り求めていきたいです。
 この世にありながら、すでに天の国の喜びを味わうことが許される日曜日毎の礼拝、それこそクリスチャンに与えられた特権です。もっともっと大切に、心を込めて一人一人が準備し、「あなたがたの上に、聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。」との御約束が一つ一つの集まりに成就するなら、このクリスチャン人口の極端に少ない日本にも、きっとキリストの福音は伝わっていくと信じます。
 それから、「集会と伝道」と言うことについて、導かれたことを少し話します。
 二〇〇一年六月、高知での四国集会から霊に燃えて帰って来た私は、次々と驚くような事件が起こる社会的混乱の中、人々の心に平和を与えるのはキリストの福音をおいて他にないことを強く思い、「主よ、あなたの福音を伝えるために、私たちに何が出来るでしょうか」と祈りました。すると、まず信じる者が集まって、御言葉に聴き、祈りを共にし、聖霊を受けること。そして、それぞれが持ち場に帰り、その受けた恵みを語り継ぐことだと示されました。さっそく、近畿方面への伝道を続けておられる吉村先生に講師をお願いして、神戸、京都、大阪と四国集会の仲間と連絡を取り、一ヶ月ほどの準備で、八月には第一回近畿地区無教会・キリスト教集会を、京都桂坂の地で行うことができました。今年の八月には第四回の近畿集会を持つことができ、五十名ほどの集まりですが、思いがけない人たちも加えられ、「すべての人を一つにしてください」と祈られるキリストが導いていて下さるのを実感しています。数少ないキリスト者がバラバラでは、なかなか力も与えられません。共に集まって御言葉に聴き、祈りを合わせることの大切さを思います。大きな集まりでなくても、日曜日以外にも、二人三人集まって、少しずつでも聖書を学び続けるなら、そこに祝福が注がれることは実験済みです。どうか、そのような集まりが次々と起こされますように、と祈ります。

 次は祈りについて話します。
 「求めなさい。そうすれば与えらえる。」マタイ7:7、という言葉を信じて、信仰の道を歩み始めてから今日まで、大切なことはすべて祈りによって導かれてきたのを思います。結婚の時も、たどたどしく「神様、結婚することがよいことなら、そうなりますように。他の道が良いならそうなりませんように」と祈ったのを思い出します。
 祈りと言うことで、特に心に残っているのは、杣友さんが「祈ったことは帳面につけておきなさい。何十年かたてば、それらの祈りはみな聞かれていることが分かります」と言われたことです。そのことで、思い出すことがあります。
 私はキリスト教とは無縁のような家庭で育ちました。そんな私がキリストを求めるようになり、杣友さんのお家でもたれている集会に導かれたのですが、先にも話しましたようにそれから一年あまりで結婚をして大阪に来ました。それからも、杣友さんは礼拝のテープなど送り続けてくださり、ずっと心に掛けていてくださいました。そして、ある日、出産のため徳島の実家に帰っていた私を、集会の人たちと共に訪ねてくださいました。すでにその時、杣友さんは八二才になっておられましたが、私の内に、おじいさんという印象はありませんでした。百二才で天に召されるまで、ともかく現役で伝道の働きをされていました。
 私の父は書道をしていて号を「藍州」と言いますが、訪ねてくださった杣友さんは、私の家にある父の作品を見て、「ここには藍州さんのものがたくさんありますね」と言われ、母が「ええ、主人です」と答えると、杣友さんはびっくり仰天「じゃあ、あなたは藍州さんの子供でしたか」と私を見返しました。父も隠れているわけにも行かず出てきて、杣友さんに挨拶をしましたが、父が若く結核で療養所にいた頃、杣友さんはいつも訪ねてくださっていたとのことでした。
ご長男を結核で亡くされた杣友さんは、ずっと療養所伝道に力を入れて、遠い道を歩いて、汽車に乗り、また歩いて、療養所まで通っておられたと聞いたことがあります。また、私が信仰をし始めた頃、父から「キリスト教には、無教会というのがある」と聞いたのを思い出します。父は結局、神には頼らず、自分の力で生きるという道を選びましたが、杣友さんの帳面には、きっと父の名前もあったことと思います。そして、それから二十年が過ぎ、父の子供である私が杣友さんの集会を訪ねることになったわけです。私が父の子供であると知った日、きっと杣友さんは帳面の父の欄に、○印を付けたことと思います。そのようにして、杣友さんの祈りの帳面はきっと○印で埋まっていったに違いないのです。
 でも、祈りが聞かれると言うことと、一生懸命祈れば自分の願いが叶うと言うこととはもちろん違います。お百度参りとか聞きますが、自分の願いを何が何でも叶えたいと一生懸命になると、心は不安になるばかりです。私もそんな祈りをすることが時にあります。でも、「わたしの名によって祈りなさい」と、イエス様の教えてくださった祈り。父なる神様を信じて祈るときには、祈るうちに、すべては神様の御支配のうちにあることを示され、絶望的に思っていた問題も、負うべきものなら負うていこうと、思いが変えられます。その問題を負うていく気持ちにさえなれば、そこには主の平安があるばかりです。
 週に一度ですが、私はボランティアで精神障害者の人たちの作業所へ行っています。作業所とは、心病んだ人が病院を退院して、通常の仕事ができるようになるまで体や心を慣らす場であったり、いろいろなレクリエーションやバザーをして、人との交流の場であったり、また、ある人にとっては、ゆっくりと安心して過ごせる居り場であったりします。これは信仰とは別のことですが、同じ障害をもつ人が、集まって一緒に作業をしたり、話し合ったりするのはとても益の多いことだと知らされています。最近、自助グループという名を聞くことがありますが、同じ弱さを持った人たちが、自分たちで支え合い助け合う、仲間のことです。私も作業所で十数人の精神障害者の人たちと一緒に、袋を折ったり、クーラーの部品を作ったり、内職をしながらその人たちの話を聞いていて、なるほどこのようにしてお互いの存在が励みになるのかと分かることがあります。たとえば、幻聴のしんどさから、どうすれば少しでも楽になれるか、この薬を飲んでいるときはこんな副作用があったとか、私には到底分からないことも、お互いにアドバイスしあっています。そんな、ありのままの自分を出せる場所があることは、とても良いことだと思います。
 でも、みんなと一緒に作業をしながら、笑ってできるときもあれば、その人たちのあまりにしんどそうな様子に、胸の痛むことも度々です。薬を飲んで、それでも不安や緊張に苦しそうに顔をゆがめているのを見ると、負わされた重荷を負うて生きる姿に胸打たれます。それに、そのような作業を月曜から金曜まで、レクリエーションの時間を除いて、ずっと続けても一ヶ月五、六千円にしかならないのです。楽しいこともあります。みんなの旅行や忘年会などに参加すると、弱さゆえの温かさ、傷をもっているがゆえの思いやりに、深い慰めを与えられ、重荷を負うことが、すべてマイナスではないのが分かります。でも、何をしても心身の疲れは大きいようで、そんな状況では結婚も難しく、一般の職場でストレスの多い仕事を続けるのは難しいのです。社会の偏見に耐えながら、このように負わされた重荷を黙って負うて生きている人がいる。私の知らないところでも、数限りない人がいろいろな重荷を負うて黙って歩んでおられるに違いない。「わが家族だけは、我が子だけはすべてうまくいきますように」などとは祈るまい。そんなことではなく、どんな困難や試練の中にも共にいて、その重荷を共に負うてくださるキリストを知ることができるようにと祈ります。
 「主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」ピリピ4:57 
 
 クリスマスの夜、外に出て天を仰げば、きっと天使たちの歌声が聞こえるはずです。
   ♪ いと高きところには栄光、神にあれ、  
     地には平和、御心に適う人にあれ。

 どんなに闇が深くても、キリストの光を消してしまうほど深い闇はない。どんなに絶望と思えても、復活の希望を消してしまうほどの絶望はない。どんなに自分の小ささや弱さ、罪の大きさに泣いても、キリストの十字架に贖い得ない罪はない。
 私たちのために、馬小屋で生まれ、貧しさの中を生き、友なき者の友となってくださるキリストと共に生きる喜び。この世にあって何一つ報いられず、私たちすべての者の罪を負うて死んで下さったキリストを仰ぎ見る喜び。死んでよみがえり、天に上り、「再び来る」と約束してくださったキリストを待ち望む喜び。
 クリスマス、一人でも多くの方にこのキリストの喜びが伝えられますようにと願って、終わりに、クリスマスの詩を一つだけ読ませていただきます。

   この赤子
   生まれたばかりのイエスを ☆
   受け取ってほしい
   今は全く無力な 何の価値もなさそうな
   馬小屋の飼い葉桶に眠る赤子を
   もし、お前が受け取るなら
   わたしの愛と信じて受け取るなら
   この赤子イエスは お前の救い主となる
   闇から光へ
   罪から清めへ ★
   死から命へ
   導きゆく 救い主となるのだ。

   この罪の世に 全く無力な赤子として
   独り子を与えたわたしの心を分かって欲しい
   ある者は こんなものをと 踏みつけるだろう
   ある者は 目障りだと 殺してしまうかもしれない
   それでもわたしは すべての人が受け取れるように
   赤子のイエスを与えたのだ
   この わたしの心を わかってほしい
   ☆
   わたしの愛を受け取ったなら
   どうか語り継いでほしい
   未だ わたしの愛を知らぬ人々に
   わたしの愛を伝えてほしい      ★


 (これは、十二月五日、京阪神聖書研究連合主催の「クリスマス  講演会」で、話したものです。)

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st07_m2.gif 「悔い改めよ、天の国は近づいた。」(マタイ4:17) 福音  №198 2004年11月

 イエス様の伝道の第一声でした。そのイエス様に呼び集められた12人の弟子たち、「12人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。」(マルコ6:12)とあります。また、取税人レビの宴会の席で、「あなたはなぜ、罪人と一緒に食事をするのかと」つぶやく人たちに、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(ルカ5:32)とお答えになりました。
 これらの言葉にじっと耳を傾けるとき、イエス様が私たちのところに来てくださったのは、私たちを悔い改めに導くため。単に私たちの生活からさまざまな困難や不都合を取り除き、安楽な日々を過ごさせるためではなく、私たち一人一人を悔い改めさせ、天の国に導いてくださるためであるのがわかります。
 神様を信じていなくても、人はよく「祈る」という言葉を使います。思う、願う、そうなって欲しいと強く願うとき、「祈っています」といったりします。自分のことだけでなく、他の人の困難のため、どうか良くなるようにと願う心の状態は美しいですが、でも、それはその困難を取り除いて欲しいと願うだけであって、信仰の本質である「悔い改め」とは違います。悔い改めるとは、自分の内にある罪、罪とは何よりも神様を信じようとしない心であり、信じていると言いながら従いたくない心ですが、その罪に気づき心を真っ直ぐに神様に向け変えることです。

 悔い改めることと、後悔することの違いについて。悔い改めとは神様に向かってすることで、後悔とは自分の心の中だけのこと、その二つの違いを最近また、教えられることがありました。
 ある時、その人が側にいるとは知らないで、その人についての愚痴を言っていると、聞こえてしまったのです。当然その人は怒り、険悪な状態になりました。「あの時、あんなことさえ言わなかったら、相手の耳にさえ入らなかったら、こんなことにはならなかったのに」と、随分後悔しました。でも後悔している限り、平安はありませんでした。それは、その時の言葉を、そしてそれが相手に聞こえたことを後悔しているだけで、どんなに「神様赦してください」と祈っても、悔い改めではなかったのです。でも、ふと気付きました。神様が気付かせてくださいました。私がその人が聞いたら嫌がるような言葉を口にしたのは、何もその時だけじゃない。今までその人の陰で言ってきた自分の悪しき言葉を思いだして、自分でも気付かないうちにどんなにひどい罪を犯していたかを知らされました。すると、今回のことを通して神様が私の罪に光をあてて、自分の本当の姿を見せてくださったのだと分かりました。私の存在そのものが、赦されなければ生きられない、キリストによって贖われなければ生きては行けない存在なのだと思い知ったとき、何の言い訳もせず、心の底から神様にすがることができました。悔い改めには平安が伴います。そしてその後、その人の思いも不思議に変えられ、万事が益となったのを知りました。

 祈りのない、私のありのままの心から出る言葉がどんなに汚れているか、思い知らされています。良い言葉、美しい言葉、愛のある言葉、人を敬う言葉、人を慰め、励ます言葉、その人を真に悔い改めに導く言葉を発したいと願いながら、間違った言葉、汚い言葉、浅はかな言葉、人を軽蔑した言葉、人を傷つける言葉、そして何よりも、罪を罪と言わず、「大丈夫よ、神様は愛だから」と気休めの言葉を簡単に口にしているのです。人は、悔い改めなくて大丈夫なことなど決してない。悔い改めず、神様にすがらなければ、人は罪の内に滅びるばかりだと知らされているのにです。

 [言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。](マタイ12:3637
自分の言葉によって裁かれるとしたら、希望はありません。幼い日から、いや神様を知った日から今日までだけでも、自分の発したすべての言葉を自分の耳で聞くなら、即座に「有罪」だと悟るでしょう。もう止めてと、叫びたくなると思います。清い言葉だけを、他の人の益になる言葉だけを発することができるなら。でも、そんなことありのままの自分では決してできない。
 言葉を飾ることだけなら出来るかも知れません。きれいなことを、言うだけなら言えるかも知れません。クリスチャンの陥りやすい罪だと感じます。「どうか、苦しむ人たちに神様の慰めがありますように」と祈りながら、すぐ側にいる人の苦しみにさえ目を留めず、日々の生活の中で、他の人の重荷に指一本貸そうとしないなら、美しい祈りも何の役にも立たない。そんな偽りの言葉を重ねれば重ねるほど、真の悔い改めから遠くなるばかりです。心から出てくる言葉、言葉が形になる行い、行いに込められた心、それらの源が罪に染んだ自分なら、心も言葉も行いも、命のない騒音に過ぎないのを知るのです。

 ああ、何という幸い!そんな者を呼ぶ声がする。今もキリストは呼んでいてくださる。「悔い改めよ、天の国は近づいた」と。「あなたの現実がどんなに重く暗くても、あなたの心がどんなに汚れ果てていても、わたしがいる。わたしがあなたのために十字架についた。恐れることなく、わたしを信じなさい」と。この罪に染んだ私に変わって、私の内にキリストが生きてくださる。ここに希望があります。この希望によって、私たちは今日も喜んで生きることができるのです。



悔い改めて神様に帰る、人はそのために生かされている。
日々の小さな営みも、すべてが悔い改めという大きな流れに至るための支流。
小さな流れが集まって、その流れが激流になったとき、悔い改めが生まれる。
人を悔い改めに導くもの、それは苦しみ。
苦しみのないところに、悔い改めは起こらない。
その苦しみが、この世の楽しみでごまかせる内は、悔い改めには至らない。
この世の何をもってしても、決して癒されない、満たされない、救われない苦しみ。
その苦しみの激流に、神の御手がふれるとき、悔い改めという奇跡が起こる。

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st07_m2.gif祈り (この花のように)   福音 №197 2004年10月 

  この花のように みんなの心に
  やさしくかおる こどもにしてください
      この花のように 神さまの愛を
      そっとあらわす こどもにしてください

「私は朝5時半からお祈りをします。最初に、「この花のように」を歌います。この花のような心にしていただいて、「祈の友」を名簿に従ってお一人お一人祈ります。それから一緒に礼拝をしている人たちが、誰一人もれることなく天の御国に行けますようにと祈ります。・・・・・・・」
 80才を越えて今もなお、御言葉のご奉仕をされているというSさんの笑顔を思い出す。思わず私もニッコリする。思い出すだけで、心が明るくなる。そして、キリスト信仰に生きるとはそんなに難しいことではないのだとうれしくなる。
 朝毎に「この花のようにしてください」と、まず自分を清めていただいて、それから今度は他の人のために祈ること。確かに、イエスさまの最後のいましめは「互いに愛し合う」ことだった。まことのぶどうの木であるイエス様につながり、その愛にとどまるためのいましめはただ一つ、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」だった。
 真剣に考えれば、愛するほど難しいこともないけれど、また反面、これほどたやすく誰にでもすぐにできることもない。「隠れたことを見ておられる」神様に祈ること。「その人が清い心にされて、神様の愛と平和が注がれますように。その人の心に御国が来ますように」という祈りなら、すべての人に当てはまる。「そんな祈りなんて聞かれるはずがない」などと言ってはいけない。神様とは「わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方」(エペソ3:20) そのお方に祈るのだ。祈り続けるのだ。私たちの祈りに力があるのではない、その祈りを聞いていてくださる神様が「できる方」なのだ。
 どんなに闇が深くても、生きていることさえ辛くても、今この時も祈りの道は開かれている。人と接することが苦手で、うまく話せなくても、誰かのために祈る祈りの道は開かれている。
 「あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」(ヨハネ16:23)
 父なる神様と私たち人間のあいだに、十字架という橋をかけてくださった主イエス様。そして、「天のお父さま」と親しく呼びかけ、イエスの名によって祈るという新しい祈りの道を開いてくださったイエス様。「願いなさい。そうすれば与えられ、あなたたちは喜びで満たされる」との御言葉を信じて、朝毎に、夕毎に祈る者としてくさい。今もあなたは私たちの小さな祈りを待っていてくださるから、喜んで祈る者としてください。



st07_m2.gif永遠の命

 台風で一日家にいたので、福音書を通して読んだ。一つ一つの記事を詳しく学ぶことも大切だけれど、全体を通して読むことで気付かされることもある。今回特に感じたのは、イエス様は一人一人に目を注がれると言うこと。決して10っぱひとからげの救いではなく、たった一人をかけがえのない人として救って下さる。愛とはこうなんだと思う。これが愛なのだと思う。たった一人のために全力を尽くす。この私も、そんなふうに救われたのだと思うと有り難くて、もったいなくて、ひれ伏さずにはおられない。  イエス様に救われるためには何の条件もいらない。ただ「憐れんでください」の叫びで足りる。いや、それは重要な条件だ。真剣に求める、必死ですがる。福音書の中でイエス様に出会った人たちはみな真剣だった。必死だった。欲得に必死だったのではない。必死にすがらなければ生きては行けない人たちだった。
 この台風でまた、数十人が死んだと報じられている。人間とは何と弱くはかないものか。
人は確実に死んでいく。神様によりすがらずに生きることができるほど、強い人がどこにいるだろう。人は自力で生きているのではない、今も不思議に守られ生かされている。いつ死ぬか分からない。だからこそ、罪赦されて神様のもとに帰るという準備を今日怠ってはならない。
 「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」と、主は言われる。
    わたしのいのち
   わたしのいのちはたいせつ
   おかねでもかえないぐらい
そんなにたいせつなの?
   そうだよ。
 家庭で育てられない子供の施設で生活しているAちゃんが、そっと詩を見せてくれた。学級新聞に友だちの感想がプリントされていた。「いのちは一番大切なものとずっと前から思っていたけれど、この詩をよんで、ずっと前より命を大切にして守ろうと思いました。」お父さんもお母さんもいなくても、Aちゃんこんなに一生懸命生きているんだとうれしくなる。その「いのち」とは台風でいとも簡単に絶たれてしまうような命ではない、地上の命が終わっても決して無くならない神様の命だと、人は皆イエス様によって永遠の命が与えられるんだと、きっときっと教えてあげたい。

 福音書を通して読んで、いつも驚き怪しみ嘆かずにおられないのは、神の御子イエス様に唾を吐きかけ嘲り、頭をたたく人間の愚かさ、浅はかさ、無知さ。人と人が殺し合う戦争も愚かさの極みに違いないけれど 、人と人が罵り合い、殴り合うのならまだ分かる。
しかし、まったく罪のない正義と愛に満ちたイエス様を嘲り罵るとは、人間とはどこまで愚かで、罪深いことか。でも、これが人間の、私の現実の姿なのだ。絶望より他にない。
 ところが、こんな人間を赦し、まことの命を与えるためにイエス・キリストは地上に生まれてくださった。十字架の上で死んでくださった。無条件の愛、十字架の愛、この愛に生かされている私たち。誰一人もれることなく、あなたの救いに与ることができますように。 

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st07_m2.gif「受けるよりは与える方が」  st07_m2.gif「神に仕える人生」   福音 №196 2004年9月

  主イエス御自身が、「受けるよりは与える方が幸いである」と言われた言葉を思い出すように。(使徒言行録20:35)

 赤ちゃんの時は、抱っこされてお乳を飲み、何から何までされるがままにニコニコと。ただひたすら受けているようで、赤ちゃんの存在そのものがまた、回りの人に豊かに与えている。「あんたのこと苦労して育てたんやから、ちっとは親孝行してもらわないと」と言うと、「子供は3才までに一生分の親孝行をするんです」と答えられて、あっけにとられたと聞いたことがあるけれど、なるほど、赤ちゃんの可愛らしさや、小さな子供の笑顔は何にもまさる親孝行かも知れない。そのことを思っても、受けることと与えることに表面的な判断はできないけれど、それでもやはり人が成長するとは、受ける者から与える者に変えられていくことに違いない。ただ受けることから始まった人生、与え尽くしてこの世の旅路を終えることができるならと思う。
 「わたしは道である」と言われた主イエス様。イエス様の歩まれた道はまさに、与え尽くされる道であった。病む人を癒し、神の愛と真理を教え、罪に泣く人に赦しを与え、恐れ悩む人には平安を、すべてを与え、命まで与えて尽くして十字架の上で死んでいかれた。そんなイエス様を思っていると、「あなたに従わせてください」と祈りたくなる。「あなたの歩まれた道は、イバラの道に違いないけれど、でもその道はあなたが共にいてくださる道。あなたのいない平穏な道より、あなたと共に歩ませてください」とすがりたくなる。
 しかし、人を与えて止まぬ者へと成長させるのは、単なる心の願いや思いではない、それは「人生における深い苦悩」の時にも、どのような時にも、神様を信じ、従い続ける心の低さなのだと、JLM通信812号の「ばあちゃん」は教えてくれた。

ばあちゃんは気遣う心を
ばあちゃんは何に対しても、愛情を持って接することを
ばあちゃんはつらいときでも、弱音をはかない忍耐力をもつことを
ばあちゃんは人と人の愛情の深さを
ばあちゃんは大切な人がいなくなる悲しみを
ばあちゃんはたくさんのたくさんのことを教えてくれました。
ばあちゃん、「ありがとう」(木村智恵)

 12才でハンセン病にかかり、それから66年、群馬にある国立療養所・楽泉園の中で生活し、みんなから「ばあちゃん」と愛されたふささんが、先日78才で天に帰られたという。10年前から殆ど視力を失くし、腰痛も悪化し、歩行困難の状態の中、「どれほどの過酷な日々を過ごしてこられたか・・・。涙一つ見せず、たんたんと昔を語るばあちゃんの姿には、風雪に練られ、飢餓に削られた細工の後が残されていました。」とある。
 JLMjapan leprosy mission)通信に、楽泉園を訪ねてふささんと出会った人たちが、「ばあちゃんありがとう」と綴った数々の文章を読みながら、人は苦難の中にあってこのように豊かに生きることができるのだと、胸が熱くなる。

  ふささんが地上に送られた神様の最大の御旨は「ばあちゃん」にあると思います。「ばあちゃん」の孫たちの、ファミリーの書いたものを思い浮かべてください。一番頼りになる人生の話し相手として若い人々に慕われ、巧まずしてその心を癒しなごませた働き。ばあちゃんと同じ皿で食べ、残したものも食べてしまう。草津の湯で背中を流す。同じふとんにもぐり込む。普通の家庭以上の濃い交わりが形成されている。信頼があればこそのことです。
 有史以前から洋の東西をとわず在ったといわれる“らい”に関する差別と偏見、・・・そのための啓蒙運動・・・。
 ふささんが三四郎さん(夫)と共に築きあげて来た家庭は、まさにこの啓蒙運動の究極的な理想を具現化して、私どもに示して下さったものです。これが「ばあちゃん」だと思います。極みまでやさしく、無条件で相手をとことん愛した「ばあちゃん」。だからこそ若い人たちが心を開いてぶつかり跳びこんでいったのです。これは本当にイエス様の愛につながっています。このために私たちと共に生きてくださった「ばあちゃん」。だから(ふささんの死を悼む)慟哭は別れではありません。「ばあちゃん」に背中を押され、「これからは自分で歩きな」と言われる私どもの旅立ちです。(通信より)

 自分で選んだのではない人生、不条理にもあまりの苦しみを負わされた人生。でも、苦難のただ中にあって、人は与えられた人生をこれほど豊かに生きることができるとしたら、人生とは何と可能性に満ちていることか。人は生きるようにと造られた。人はどこまでも成長するようにと造られた。人はこの世で単に幸福を享受するためではなく、神様の御心に適う者とされるために、この世の旅路を与えられたのだとつくづく思う。
 特別な苦難を通して愛の人とされた「ばあちゃん」の人生は、どんな時にも共にいて支えてくださる主イエス様の証であり、また、私たちの励みでもある。そして、どんなに小さくても、みな誰かの「ばあちゃん」になることができるのだと思うと、心が明るくなってくる。

 われわれは人生を立派なものにすることができる。というのは、およそ人間の想像力が描きうる最もすばらしいものは、全く自由な、しんから気高い性質の人間だからである。そこまで到達することが、明らかに人生の目標である。その他のすべては、ただそのみすぼらしい代用物にすぎない。そしてこの目標に本当に到達したいと念願する人にとっては、どんな運命も必ずその目的に役立つのである。
 しかし、そうするためにはっきりと知っていなければならないのは、たんなる動物的な仕合わせなどは少しも価値がないばかりか、一つのごまかしにすぎないこと、これに反して、神に仕えるのがすべてだということである。   ヒルティー「眠られぬ夜のために・1」(7月12日)

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st07_m2.gif命の水st07_m2.gif希望st07_m2.gif内村鑑三所感より  福音 №195  2004年8月

  庭にはのぼたんがきれいに咲いています
  今年初めてキュウリを植えたのが沢山実をつけてくれました。
            今年はキュウリを買わなくてもすみそうです。
  植物も水がなくなるとしおれてしまいます。
  もうだめかなとおもっていたものも、水をやるといきいきとしてきます。
  私もイエス様から命の水をもらわないと、生きていけないと思いました。

  「はじめてのメール」と題して、今朝届いた友人からのメールに、思わず「そうだよね。本当にそうだよね」と 共感する。信仰とは?希望とは?愛とは?頭で考えれば考えるほど複雑になって「難しい!」と、考え込んでしまうけれど、もっともっと単純で良いんだとうれしくなる。神様は、特別な人にしか分からないようにではなく、誰にでも分かるように教えてくださる。「ほら、日照りが続いて水がなくなると、草も木もぐったりしてるだろう。あなたの心が疲れて重苦しくなったり、生き生きとした喜びがなくなるのも、命の水が涸れているからなんだよ」と。そして、今も呼びかけていてくださる。

    渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。
            わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から
            生きた水が川となって流れ出るようになる
。  (ヨハネ7:3738

 イエス様を知って良かったと思う。どんなに混乱した重苦しい心でも、状況は何一つ変わらなくても、心をイエス様の方に方向転換するだけで確かに命の水が流れてくる。天からの風が吹いてくる。いらだちや嫌悪感が不思議な優しさに変えられる。
 ただ一つ問題は、自分の心が悪くなったり、嫌なことがあった時、なかなか心からイエス様に立ち帰ろうとしないこと。誰が悪いとか、どこが間違っているとか、そんなことをどんなに分析したところで何の解決にもならないものを!すべての問題の解決法はただ一つ。主に立ち帰ること。なるほど、イエス様の伝道の第一声は「悔い改めて(神に立ち帰って)福音を信じよ」だった。イエス様、日毎にあなたのもとに帰ります。

 
***希望***
   神様を知ると、希望が生まれる。
   「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。」(エレミヤ17:9)
   とらえ難く病んだ心に希望の光は届かない。
   しかし、どんな暗い心であっても
   キリストの十字架を仰ぐとき希望が生まれる。
   「父よ、彼らをお赦しください」と祈られる
   キリストの言葉に聴き入るとき、
   とらえ難く病んだ私の心にも、
   清いものが流れてきて、確かな希望が生まれる。
   罪赦され、全く清められる希望、
   この世の旅路を終えるとき、神様のもとでよみがえる希望。
   キリストが再び来てくださって、万物を新しくしてくださる希望。
   神様を知ると、希望が生まれる。

  
「希望」をテーマに京都桂坂での近畿集会を終え、今、気付かされています。希望とは、ある(存在する)ものなのだと。もし、「私にはもう何の希望もありません。希望をなくしました。」という人がいるなら、その人はまだ本当の希望を知らないだけで、希望とは状況によって消えたり無くなったりするものではないのだと。
 それは夜空に輝く星のようで、それを見て「美しい」と感動している人にも、「もう何年も星の光なんて見たことがない」という人にも、星があることに違いはないのと同じです。希望とはそれほど確かで、すべての人に与えられており、絶えず移り変わる人の心をはるかに越えて「ある」ものなのです。
 先日、鯨で有名な南紀太地に行きました。海を見ながらその潮騒に聴き入りたいと思って一泊し、夜中に目が覚めてアッと驚きました。満天の星です。窓から身を乗り出して星空を仰いでいると、一直線に光る流れ星が、息をのむ美しさで次々と流れました。よく晴れた日でも数えるほどしか星の見えない大阪の空ばかり眺めている私には、あまりの感動でした。夜空に星が輝いていても、それを見なければ清い喜びを受けることはできません。それと同じように、確かな希望があってもそれを知らなければ生きる力を得ることはできません。
 希望の源は神様。神様を知ったときから、希望に満ちた日が始まります。余命一月といわれる病人でも、神様を知ると希望に生きることができると、多くの実例をもって証しを聞きました。生きて働かれるキリストの力、本当の意味で人を生かす力。それは信仰による希望の力だと教えられました。

    
*内村鑑三の「聖書にいわれている希望」(二)を書く予定でしたが、「難しくて分かりにくいです」というお便りもあり、私が下手に書きかえるのは止めることにします。原文を読んでみたいと思われる方には、全集からのコピーを差し上げますのでご連絡下さい。それで、近畿集会で用いた「希望について」のテキストから、内村の所感で特に心に残ったものを三つ書きます。

   
来世と向上
 来世の希望は迷信ではない、また気ままな願いでもない、来世の希望とは果てしなく成長していく希望である。不滅であるべき人類の持つ正当な希望である。この希望がないならば、人は動物と何も異なるところがない。人には永久の向上性があるからこそ、永生を望んでやまないのである。かれに来世はないと説くことは、彼に自殺を勧めるのに等しい。来世の希望をもってのみ、人は人らしいものとなることができる。
   私の称揚(たたえること)
 私は自分を称(たた)えない、天然を称えない、文明を称えない、国家を称えない、教会を称えない、私の救い主である神を称える。かれのなし遂げられた聖業を称える、かれの聖なる美を称える、かれの無窮の愛を称える、私は昼も夜もかれを称える。かれは私の讃美であり、私の誇りである。かれを仰ぐとき私の心に光明が満ちる。
人の悪事を思わない、世の堕落を怒らない。死ぬことを悲しまない、事が成らなくても憂えない。ただ称え、ただ感謝し、ただ望み、ただ働く。神を私の歌として、私は歓喜の翼に乗って安らかに人生の荒波を横切ることができる。
   信仰と希望
全能の神に失望はない。かれを信じる者もまた失望することはない。失望は不信である。信仰とは無限の希望を意味する。私たちも神を信じて自己についてもまた他人についても永久に失望してはならない。


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st07_m2.gif内村鑑三著「聖書にいわれている希望」(一)  福音 №194  2004年7月

 kさんと知り合って、もう15年になる。知り合った時もその後もkさんはずっとベットの上で過ごしており、この頃は「kさん」と呼びかけても朦朧としていることもある。でも、不思議なことに耳元で「主われを愛す」と歌い始めると、声にならない声で一緒に歌ってくれる。「神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された」と暗唱すると、口の形は確かに「神はその独り子を・・・」と言っている。私と5才ほどしか違わないのに、何から何まで為されるがままに耐えて寝ているkさんを見ていると、このkさんにはかなわないと思う。kさんの苦しみを慰めるすべのない私は、kさんの喜ぶ顔が見たくて、会う度に天国の希望を話してきた。「kさん、天国に行ったら、一緒に青草の原を思いっきり走ろうね」と言い、互いに手を取って祈ってきた。
 kさんのためにも、他にもベッドの上で「何の希望もない」と嘆く人たちのためにも、単なる願いではなく聖書が告げる「希望」を伝えたいと思っていたが、内村鑑三全集にその明快な説明を見出したので、なるべく分かり易くしてここに書こうと思う。内村の格調高い文章を粗筋にしてしまうのは忍びないけれど、少しでも聖書の希望を伝えることが出来るならと願って、言葉の不適切さや誤りには許しを乞いつつ、7月、8月と2回に分けて記します。

  
聖書にいわれている希望(一)   署名・内村鑑三1904年「聖書の研究」54

 聖書には希望ということばがたくさん使ってある。希望とは、人類の持つ言葉の中で最も美しいものの一つである。希望のない宗教は宗教ではない。宗教の優劣はその希望の多さ、質の高さよって定められる。新約聖書に希望の文字が多いのは、確かにキリスト教が最も優れた宗教である証拠の一つである。
 神が約束なさった希望(使徒26:6)信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る(1コリント13:13)わたしたちはこのような希望によって救われているのです(ロマ8:24)体は一つ、霊は一つ。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです(エペソ4:4)あなたがたは既にこの希望を、福音という真理の言葉を通して聞きました。(コロサイ1:5)福音の希望(コロサイ1:23)キリスト、栄光の希望(コロサイ1:27)わたしたちの希望であるキリスト・イエス(1テモテ1:1)目指す希望(ヘブル6:18)生き生きとした希望(1ペテロ1:3
 その他、聖書に希望という言葉は数限りがない。キリスト教は別名を、「希望の宗教」ということができる。聖書で言われている信仰、希望、愛とは三つであって、実は一つである。信仰なしに希望は出ず、希望なしに信仰を維持することはできない。愛はまた、希望があってこそ活動することができ、希望が絶えてしまうなら、愛は油の絶えた灯火のように熱と光とを失って、ついにはもとの暗黒にかえる。希望を与えないで愛を強いるのは無慈悲なことである。希望の足らない信仰は頑固であって冷酷である。希望は三人の姉妹(信、望、愛)の中で最も女らしい者である。彼女がそばにいて愛は義務に縛られず自由であり、彼女の優しい感化を受けて、信仰は頑強であるよりも温雅なものとなる。希望は天の和やかさをもたらし、地上での渋苦をとかす。希望には温かい涙があり、彼女は天の扉を開いて、その中にいる、我らの慕う聖き姿を見せてくれる。
希望とはこのように美しいものである。しかし私たちがここで究めようとするのは、聖書でいう希望であって、それは単に未来に善いものを望むという漠然とした抽象的な希望ではない。今は実現しておらず、未来に望みをおくすべての善いものは確かに希望である。善い妻を迎える望、善い家庭を作る望、善い社会に住む望、国家を改造する望、冨を積んで富者となる望、功を立てて地位の高い人となる望、これらは皆、希望であることに違いはない。そしてそれらが希望である以上、みな多少ともこれを追求する者を自分に引き付けて、辛酸の中にも彼らを慰め、困難の中にあっても彼らを励ます。希望はすべての勤労の奨励者である。希望なしに人は努力しない。希望は実に勤労の生命である。
 それなら、キリスト教はどのような希望をその信者に与えて彼らを慰めかつ励ますのか。一面においては信者に迫害や艱難を約束するキリスト教は、他の一面においてどんな善いものを彼らに約束するのだろうか。キリスト教はわずかに「ある善いもの」を未来に約束し、それが何なのかは示さないで、その信者に潔(いさぎよ)い、辛い、高い生涯を強いるのだろうか。ことばを換えて言えば、キリスト教の与える希望は形のない、実質のない希望なのだろうか。
 そして多くの人はキリスト教の希望とはそのような希望だとと言う。彼らはキリスト教は精神的であると主張して、その希望には、目をもって視、手をもって触ることの出来るような、はっきりした所があってはならないという。神、理想、公義、これがキリスト教信者の望む希望であって、神は霊であるから、神の霊光に満たされる以外に私たちの追求すべきものがあってはならないと。
 しかし、それが果たしてキリスト教の聖書がその信者に与える希望だろうか。キリスト教は聖い理想を与えるだけで、その理想に生きるための境遇と方法とを信者に約束してはいないのだろうか。すなわちキリスト教の与える希望は精神的なものの他、確かに捉えることのできる所はないのだろうか。一言で言えば、キリスト教の希望とは単に主観的なものか、もしくは客観的なものか。
 そしてキリスト教が、純粋な理論だけの宗教でないことを知る者は、その希望もまた自ずから主観的でないことを認めるだろう。キリスト教は客観的宗教であるが、しかし物質的ではない。霊的宗教ではあるが、主観的宗教ではない。そして霊的と主観的との間には自ずからはっきりとした区別がある。
 そうだ、我らキリスト教信者は明白なものを望まないで、この世における我らの戦闘を続けることはしない。むなしい理想は我らの眠った眼を醒まし、我らの沈んだ心を振るい起こすことはできない。我らはある確実な目的物に向けないで、我らの信仰の矢を放つことはしない。形像も実質もない希望は希望にして希望ではない。そのような希望は実物を伴わない言葉の約束のようなものあって、これに頼って我らは何事も為すことはできない。我らの信仰の冷える時は我らの希望の朦朧となる時である。そして形も実質もない、とりとめのない希望はすぐにも信仰を冷却させる。物質的になることを懼れて、我らの希望を理想化しようとする時には、常にこの信仰の冷却が来る。キリスト教がこの世を純化するのに非常な能力をもつ理由は、その未来の希望の明瞭な確かさにあるのを思う。
 聖書の供する希望、それは何であるか。
 その第一はキリストの再臨の希望である。キリスト教がその信者に与えるすべての希望はこの希望を中心にしている。この希望が充たされて後に、彼が待ち望むすべての他の希望は充たされるのである。「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」(使徒1:11)と、天使が使徒に告げた言葉はすべてのキリスト信者の希望をつなぐ最大の約束である。キリスト信者とは特に「主が来られるのをひたすら待ち望む」者(2テモテ4:8)。「わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望む」(1コリント1:7)ことは初代のキリスト信者の普通の状態だった。「大牧者がお見えになるとき、あなたがたはしぼむことのない栄冠を受けることになります。」(1ペテロ5:4)とは、すべての艱難の中にあるキリスト信者を慰める最大の希望である。我らキリスト信者の実際の歓喜はキリストの再来をもって始まるのである。キリストを離れて我らに何の善いこともない。キリストの来るまでのこの世の改革は、しばらくの事、又は準備的なものである。彼が顕れて後に、我らは始めて栄光が何であるか実際に目撃することが出来る。今の時における我らの勤労は「栄えの王」を迎えるための準備に過ぎない。我らは今は苦しめられる、しかしその時、神は「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。」(黙示21:4
 キリストは栄光と権威をもって再び顕れてくださる。その時に我らのすべての希望は充たされるのである。その時までは、我らは敵の強固な囲いの中にあって孤立した者のようである。その時が来るまでは、我らの「得意(満足)の時代」は来ない。すなわち水が大洋をおおうように、神の正義が世に充満する時は来ない。キリスト信者の実際的自由は、その君にしてその救い主なるイエスキリストの降臨と同時に来るものである。我らの忍耐はその時までである。

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st07_m2.gif詩編107編 「望みの港に」 福音 №193  2004年6月st07_m2.gif

=詩編107編=

   「恵み深い主に感謝せよ     慈しみはとこしえに」と

   主に贖われた人々は唱えよ。   主は苦しめる者の手から彼らを贖い

   国々の中から集めてくださった  東から西から、北から南から。

 東から西から、北から南から集められた、高知・桂浜での「キリスト教無教会四国集会」から帰って、詩編107編を開いた時、「信仰とは、伝道とは、集会とは、私たちの希望とは、・・・」それらすべてのことが、ここに啓示されているのに、深い驚きをおぼえた。いや、詩編107編に限らず、「御言葉が開かれると光が射し出で 無知な者にも理解を与えます。」(詩編119:130)とあるように、聖書のどこを開いても、御言葉が開かれるなら、どこからでも光が射して来るに違いない。

 今回の四国集会によって与えられたこのような恵みを思うとき、キリストの名によって集まることの大切さを知らされる。=集会をやめることはしないで互に励まし=(ヘブル10:25)合いなさいと、主は言われる。

   彼らは、荒れ野で迷い      砂漠で人の住む町への道を失った。

   飢え、渇き、魂は衰え果てた。  苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと

   主は彼らを苦しみから救ってくださった。

 これほどキリストの救いを明確に語っている聖句があるだろうか。

 人生の中で、どんなに美しい風景の中にいても、心は砂漠をさまよっている時がある。以前、深い悲しみの中にある人が「こんなに咲き誇る桜の花を見ても、私の心はちっとも喜ばない、美しいとさえ感じないのです。」と言われた。人生の荒野、心の砂漠で飢え渇き、魂が衰え果てるとき、人との交わりの道も断たれる。それでも私たちは、その苦しみを叫ぶことができる。その叫びを待っていてくださるお方がいる。救いの御手を伸べて、私たちが心の限りに、「助けてください」と叫ぶのを、待っていてくださる主がおられる。

  主はまっすぐな道に彼らを導き  人の住む町に向かわせてくださった。


   主に感謝せよ。主は慈しみ深く  人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。

   主は渇いた魂を飽かせ      飢えた魂を良いもので満たしてくださった。

 荒野と砂漠の中から、まっすぐな道に導かれ、再び人との交わりが与えらる時、私たちは驚き喜び、感謝の声をあげる。そして、知ることになる。私たちの魂が飢え、あれほどまでに渇いていたのは、他の何にもまして主ご自身に対する飢え渇きであったと。神様だけが私たちの魂を飽かせ、満ち足らせてくださるお方であると。

 苦しみの多くは、人間関係より生じる。そして、信仰による兄弟姉妹は言うに及ばず、親子、親族、友人、近所付き合いなど、すべての人間関係の原点は、やはり神様との関係にある。私たちが神様と正しい関係にあるとき、すなわち、神様を信じ愛しているとき、たとえ相手から敵意を受けても深い傷にならず、心の平和は守られ、従って人との関係も守られる。しかし、神様との正しい関係が失われ、自分でいっぱいの時には、敵意をもつ人を赦したり、忍耐したりできず、人との関係も断たれてしまう。人と心通う場、人の住む町への道を失った魂は、神様との関係が回復して、始めて、人との関係も回復することができる。

   彼らは、闇と死の陰に座る者   貧苦と鉄の枷が締めつける捕らわれ人となった。

   神の仰せに反抗し        いと高き神の御計らいを侮ったからだ。

   主は労苦を通して彼らの心を挫かれた。

 私たちは人生の途上、様々な困難に出会って、自分の罪を知り、内なる渇きを知る。人生で起こる様々な困難や悩みも、ただに厭わしいものとは思うまい。たとえそれがどのようなことであれ、その苦しみの中でだけ、打ち砕かれ、真に神様を求める者とされるのだから。

   彼らは倒れ、助ける者はなかった。   苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと

   主は彼らの苦しみに救いを与えられた。 闇と死の陰から彼らを導き出し

   束縛するものを断ってくださった。     ・・・・・・

   主は青銅の扉を破り          鉄のかんぬきを砕いてくださった。

   =主は青銅の扉を破り=鉄のかんぬきを砕いてくださった。

 主に破り得ぬ扉はなく、主に砕き得ぬかんぬきはない。主に赦し得ぬ咎はなく、主に贖い得ぬ罪はない。十字架のキリストを思い、「わが神、わが神、なぜわたしを捨てられたのか」との叫びを聞き、かくまでして、私たちを救い給う神様の御意志を思う。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と、この神様の愛に迫られて、今日までも、そしてこれからも、御国の成る日までキリストはのべ伝えられていく。

   (嵐の中で波は高く、彼らは)苦難に魂は溶け


   酔った人のようによろめき、揺らぎ   どのような知恵も呑み込まれてしまった。

   苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと   主は彼らを苦しみから導き出された。

   主は嵐に働きかけて沈黙させられたので  波はおさまった。

   彼らは波が静まったので喜び祝い   望みの港に導かれていった。・・・・・

   民の集会で主をあがめよ。     長老の集いで主を讃美せよ。

 人生のさまざまな嵐を越えて、私たちは「望みの港」に導かれて行くという。ある人にとって、人生は嵐の連続かも知れない、ある人にとっては平凡な日々が大部分であるかも知れない。どちらにしても、私たちは「望みの港」を持たねばならない。行き着くべき「望みの港」をしっかりと見上げていなければならない。どんな航路をたどろうと、「望みの港」に導き入れられる時、私たちは心の限り主をあがめ、集会で共に主を讃美することができる。帰るべき「望みの港」を持たぬほど虚しい人生はない。

 キリスト集会とは、キリストの内にわが「望みの港」を見出した人たちの群。キリストだけが、わが帰るべき港であると信じ、キリストを求め歩む人たちの群。私たちの希望はキリスト、私たちの帰る家もキリスト。キリストは私たちに、すべてのすべてとなってくださった。

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st07_m2.gif「イエスがおられる」「主よ、御心ならば」 パッション・十字架の愛   福音 №192 2004年5月st07_m2.gif

 イエスがある町におられたとき、そこに、全身らい病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまちらい病は去った。イエスは厳しくお命じになった。「だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。」しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た。だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。 (ルカによる福音書5:1216

 「イエスがある町におられたとき」。
 この出来事はイエス様がおられるところから始まった。当たり前のことだけれど、イエス様がおられなかったら、このらい病にかかった人には何事も起こらなかった。憐れみ深い人がいて慰めを受けることはあったかも知れない。反対に、心ない人たちから体の傷以上に深い心の傷を受けることもあっただろう。しかしどちらにしても、このらい病にかかった人を新たに造りかえることは、誰にも出来なかった。そこに「イエスがおられた」。それが決定的なことだった。そのことに気付いたとき、このイエス様が今も私たちと共におられるという事実に、感嘆の声をあげずにはおられない。
  わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。(マタイ28:20) 
 「イエスがおられる」。十字架に死んでよみがえられたイエス様は、今も聖霊として私たちと共にいてくださる。今、ここにいてくださる。全ての善きことはここから始まる。

 「全身らい病にかかった人がいた」
 死を待つばかりの人、いやされることにも、社会生活に帰ることにも、一抹の希望さえ持てなくなった人。「この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない」(レビ記3:46)と、律法によって定められた人。
 しかし、この人の姿は私の姿でもある。確実に死に近づきつつある人生。自己中心で傲慢といういやされることのない病を抱え、その病ゆえに誰とも真実な交わりを持つことができず、孤独に悩む心。
 でも、この人は知っていた。今自分の前にいるイエス様は、そんな自分を新しく造りかえることがおできになると。

 「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」
これが信仰なのだと思う。正しい信仰の姿なのだと思う。あなたは私の主ですと告白し、「御心ならば」とひれ伏す。どんな時にも、主の御心の成ることを求める信仰。自分の都合より、まず、主の御心を求める信仰。

 「イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまちらい病は去った。」
 イエス様の力、驚くべき力。心の中に悪いものが渦巻いてごった返していても、イエス様の「清くなれ」の一言で怒りも憎しみも消えてしまう。真にイエス様の御心を求めるとき、「たちまちらい病はさった」と記されたこの言葉の真実を味わい知ることになる。

 「イエスは厳しくお命じになった。「だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。」
  私は今回、このイエス様の言葉の意味を特に思わされた。らい病がいやされた人にとっては、もうその驚きと喜びにじっとしていることはできなかっただろう。誰かに話さずにはおられない、こんな素晴らしい体験を誇らずにはおられない。そんな舞い上がった心にイエス様は静かに語りかけられた。「さあ、あなたは再び社会生活を始めるのだ。日常に帰るのだ。新しい体で、あなたはあなたに与えられた人生を生きるのだ。」
 私たちは今、この世に生かされている。天国にではなくこの世に生まれてきた。この世の生活をあだやおろそかにしてはならないと教えられる。

 「しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た。だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。」
 このイエス様のお姿を思う。「子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。」ヨハネ5:19「わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。」ヨハネ5:30、と言われたイエス様は、絶えざる祈りの中に生きておられたのだ。祈りとは真の謙遜から生まれるのだと知らされる。
 祈らないという自分の傲慢と愚かさを悔いつつ、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と、主の前にひれ伏す者でありたい。



 イエスの最期の12時間を描いた「パッション」という映画を見ました。
 そこには、イザヤ書53章の御言葉が刻み込まれていました。
     彼が刺し貫かれたのは     わたしたちの背きのためであり
     彼が打ち砕かれたのは     わたしたちの咎のためであった。
     彼の受けた懲らしめによって  わたしたちに平和が与えられ
     彼の受けた傷によって     わたしたちはいやされた。

 人の罪とは、その罪を負うとは、人に仕えるとは、人を愛するとはどういうことか。神に従うとは、神を信じるとは、委ねるとはどういうことか。自分を捨てるとは、砕かれるとは。イエスの最期の12時間は、あまりにも多くのことを語っていました。

     わたしはあたたのために血を流している。
     このようになってでも、あなたを救いたい。
      あなたはわたしのものだ。

 こんなキリストの十字架の愛を、少しでも深く受け取ることができますようにと祈るばかりです。

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st07_m2.gif 一匹の羊 神様に帰ろう  福音 №191 2004年4月st07_m2.gif

 ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。              マタイによる福音書18:1214
 迷えるたった一人の人を捜し続けてくださるイエス様。どんな小さな者も滅びることのないようにと願っていてくださる神様。イエス様はこのたとえ話をして、そんな神様の愛をみんなに知らせてくださった。
 小さな子供にもこの神様の愛を伝えたい。お母さんもお父さんもどこかに行ってしまって、一人取り残された悲しみを抱いて生きている子に。家族はいても、自分は独りぼっちだなあって、寂しい子に。「お前はダメだ」ってみんなから叱られて、本当に悪いことしかできなくなってしまった子にも伝えたい。大丈夫、そんな君のこと、神様だけは何もかも知っていてくださって、どうして君が悪いことをしてしまうかも知っていてくださって、そんな君の心の友だちになりたいと、イエス様が来てくださったんだよ、って伝えたい。 このたとえ話は、子供のさんび歌にもなっている。

1)小さい羊が 家をはなれ ある日 遠くへ あそびに行き
  花咲く野はらの おもしろさに かえる道さえ わすれました。
2)けれどもやがて 夜になると あたりは暗く さびしくなり
  家がこいしく 羊は今 声もかなしく 鳴いています。
3)なさけのふかい 羊かいは この子羊の あとをたずね
  とおくの山やま 谷そこまで まいごの羊を さがしました。
4)とうとうやさしい 羊かいは まいごの羊を みつけました。 
だかれてかえる この羊は よろこばしさに おどりました。

 君がどんなに道に迷っても、この世にはもう帰るところがなくなっても、イエス様はそんな君を探していてくださる。世界中の人が君をダメだと言っても、自分でもダメだなあって死んでしまいたいときも、神様は君のこと大切に大切に思っていてくださるんだよって、伝えたい。
 このたとえ話が大人の讃美歌になると、次のような歌詞になる。

1)九十九匹の羊は 檻にあれど 戻らざらし一匹は いずこに行きし
  飼い主より離れて 奥山に迷えり 奥山に迷えり
2)「九十九匹もあるなり 主よよからずや」主は答えぬ 「迷いしものもわがもの
  いかに深き山をも 分け行きて見い出さん 分け行きて 見い出さん」
3)主は越え行き給えり 深き流れを 主は過ぎ行き給えり 暗き夜道を
  死に臨める羊の 鳴き声を頼りに 鳴き声を頼りに
4)「主よ山道をたどる 血潮は何ぞ」「そは一匹の迷いし者のためなり」
  「御手の傷は何ゆえ」「いばらにて裂かれぬ いばらにて 裂かれぬ」
5)谷底より空まで 御声ぞ響く 「失われし羊は 見いだされたり」
  み使いらは応えぬ 「いざ共に喜べ いざ共に喜べ」    

 山を登り谷を降り、崖で足を痛め、イバラで体中傷ついても、それでもたった一人の人を探し続けてくださるイエス様。どんな小さな人であっても、その人が滅びることは決して神様の御心ではないと、今も失われた人を探し続けておられるイエス様。

 まことの神様を知らないで、石を拝んだり木を拝んだり、仏さんご先祖さんと言って死んだ人を拝んだり、そんな迷いに迷っている哀れな人間をまことの神様に連れ帰るために、イエス様は私たちのところに来てくださった。そして、たった一人の人も滅びることのないようにと、一人一人の罪を全部背負って、ご自分が十字架について死んでくださった。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」 (ヨハネ福音書3:1617
と、聖書が告げるとおりに。

 私もどこに行っていいか分からなかった。帰るところが分からないから、いつも不安だった。いつも寂しかった。迷ったり悩んだりしても確かな道を知らないから、自分の感情や世間に流されるしかなかった。もうこんな人生は嫌だ、こんな惰性で生きるような人生には耐えられない、と叫んだとき、目の前にまっすぐにどこまでも続く階段があるのに気が付いた。その階段こそイエス様だったと今にして思う。どこに行って良いか分からなくなってしまった私を探し当てて、イエス様が来てくださり、「さあこの階段をゆっくりと、一段ずつでいいから登ってごらん、それがあなたの道だ」と教えてくださったのだった。

 どこに行っていいか分からないと悩んでいる友よ、ほら、あなたを捜し求めているイエス様の御声を聞いて。耳を澄ませば聞こえるはず。

1)「われに来よ」と主は今 やさしく呼びたもう などて愛の光を避けてさまよう
  「帰れや、わが家に 帰れや」と 主は呼びたもう
2)疲れはてし旅人 重荷をおろして 来たり憩えわが主の 愛のみもとに 
「帰れや、わが家に 帰れや」と 主は呼びたもう
3)迷う子らの帰るを 主は今 待ちたもう 罪もとがもあるまま 来たりひれ伏せ
「帰れや、わが家に 帰れや」と 主は呼びたもう

大丈夫、神様はたった一人の人が滅んでしまうことも望んではおられない。世界中の人が一人も滅びないで救われるようにと、イエス様を送ってくださった。あなたが救われることを誰よりも深く、強く願っておられるのは神様ご自身なのだから、安心して帰ればいい。「神様、ただいま」って、帰ればいい。帰ったからと言って、あれもしなさい、これもしなさいと無理難題を押しつけられるようなことはありません。神様の愛と平和を心いっぱい満喫して、うれしくてたまらなくなったら、その時は働けばいい。でも、そんなこと大したことじゃない。あなたが神様のところに帰ることこそ、神様への何よりの捧げものなのだから。

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st07_m2.gif「ペイ・フォワード」「より良き人生のために」  福音 №190  2004年3月st07_m2.gif

 街を歩いていて、ふと目に留まりました。「ペイ・フォワード」という題名のビデオ。以前、日本国際飢餓対策機構・食糧デーの講演で、この映画の話を聞いてから、機会があったら見てみたいと思っていたのです。
 11才の少年が、社会科の課題で「世界を変える」ために考えたこと。受けた愛を、次の人へ渡すること。愛(良いこと)を受けた人は、その愛を他の3人に手渡します。その3人が、受けた愛をそれぞれ3人に渡したら9人になり、その9人がそれぞれ3人に渡したら27人に・・・そのうち、世界は愛によって変わっていく。そんな単純な話かと思っていたら、内容はもっともっと重く、深いものでした。
 このビデオを見て、いろいろなことに気付かされました。
 真っ先に思ったのは、この頃、日曜礼拝で学んでいるヨハネの手紙1の御言葉です。

 「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。」 (ヨハネの手紙13:1618

 神様の愛を受けた者が、まずその愛をペイ・フォワード、次に渡さなければということでした。キリストを信じるとは、その愛を受け取ること。神様のとてつもなく大きな、最高の愛を受け取ること。受け取った愛を次の人に手渡すために。
 世界を救う愛のペイ・フォワードを始められたのはイエス様。その愛は全き赦し。イエス様の御声が聞こえる思いがします。「わたしはあなたを赦した。だから、あなたも赦してほしい。あなたを苦しめる者、あなたを傷つける者を、どうか赦してほしい。世界中の人々が赦し合うために、まずわたしがあなたを赦したのだ」

 次に思ったのは、以前に聞いた「罪とは怠惰」、という言葉でした。いじめられている友達を助けようとして殺されてしまった少年が、その直前に語った言葉に胸を打たれます。
   ・・・だけど、日々の暮らしに慣れきった人たちは
   良くないことも、なかなか変えられない、きっと。
   だから あきらめて。でも、あきらめたら、それは負けなんだ。
 より良いことが分かっているのに、変えられない、いや変えようとしない怠惰という罪。
愛と怠惰。私は確かに、この二つの力に引っ張られながら生きているのを感じます。私たちをより高きに導こうとする神様の愛。でも、その愛に応えようとしない私の怠惰という罪。怠惰の中にいるときは、私たちの助けを必要としている、多くの困難な人たちのことなどすっかり忘れています。そんな時には、それと共に、生きる喜びも自由も失っているのです。
 少年は言います。
  (愛を受け取って、次の人に渡すのは)  すごく難しいことなんだ
   周りの人が、どういう状況か   もっとよく見る努力をしなくっちゃあ
   守ってあげるために       心の声を聞くんだ
   直してあげるチャンスだ
   自転車とかじゃなくて      人を立ち直らせる・・・・ 
 愛するとは、その人の状況をもっとよく見、心の声を聞き、その人がよりよく生きられるように助けること。愛することの難しさは、具体的に人を愛そうと努力したときに分かります。頭であれこれ考えるのは簡単だけれど、ひとたび本気で人を愛そうとするなら、自分の力ではとうていできないことを思い知るのです。少年は言います。
   結果は失敗だった。
   一生懸命努力したけれど、僕は何も出来なかった。
でも、その少年の死を聞き、遠くから集まってくる人たち。少年が始めた愛のペイ・フォワードを受けた数限りない人たちの姿を映しながら、そこに流れる曲の詩は感動的です。

  男が階段に立ち 赤ん坊が泣き叫ぶ    はるか頭上で 教会の鐘が鳴り響く
  つらすぎる重荷が 肩にのしかかり    あなたの心を暗く閉ざす
  やがて一歩 また一歩と         あなたはそっと 確かめるように 
  道を歩み始める 重荷に耐えながら    行く道は遠く 無情にも険しい
    苦しいなら 手遅れになる前に       天使に救いを求めよう
    すべての天使たちよ   生き抜く力を与えて    私を見捨てないで

  これほど努力し 希望にすがっても     生き抜くすべが見つからない
  けれど もし   重荷を捨て去ることができるとしても
  苦しみのない人生を選ぶだろうか    苦しみの後にこそ 光はより美しく輝き 
  地上を照らし 甘美な実りを授けてくれる
    すべての天使たちよ   生き抜く力を与えて   私を見捨てないで

 ここで天使たちと歌われているのは、この少年に象徴される愛を渡す人。よりよい人生を歩み始める勇気を与えてくれる人。その愛の源は神様であり、私たちにその神様の愛を手渡すために、この地上に来てくださったイエス様ご自身だと私には思えます。
  人は皆、より良き人生を生きたいと願っています。誰だって、憎み合うよりは愛し合いたい。イライラと怒りっぽいよりは、優しく微笑みたい。春の日ざしが野の花を美しく咲かせるように、夜空の星が清らかな喜びと限りない希望を語るように、私たちだって、困難の多いこの人生に、愛と平和のともしびをともしたい。
でも、いつも怠惰という罪に引っ張られて、あきらめてしまうのです。自分にはできない。よりよい人生を送ることは無理なんだと。でも、そんな時こそ祈るのです。「生き抜く力を与えて、私を見捨てないで」と、神様に祈るのです。何度失敗したって、愛することをあきらめないで。神様の似姿に造られた私たちは、イエス・キリストを信じ、愛し合うときにだけ、本当の命を生きることになるのですから。
  その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられた  ように、互いに愛し合うことです。(ヨハネの手紙1 3:23

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st07_m2.gif全き福音 「光なる主よ、来てください」 st07_m2.gif日曜日の喜び   福音 №189 2004年2月st07_m2.gif

   いまだ見ぬ地 拓く使命 神に受けし我ら
   尽きぬ感謝 ささげ奉り 信仰抱き進まん
   「暁に太陽 などて沈むべき」
   宣べ伝えよや 全き福音 闇を破る日のごと (新聖歌4361

 かつて、「これは良い歌ですね」と言われても実感がなくて、「暁に太陽 などて沈むべき」なんて、当たり前のことを「米国ナザレン教会創立者ブリジー博士の言葉」とわざわざ注意書きしてあるのだけが、妙に心に残っていた。この曲はきっとこのブリジー博士とやらが作ったのだろうと、ぼんやり思いながら。
 それが昨日、沈む心を何とかイエス様に向けたいと「新聖歌」をパラパラとめくっていた時、この曲が目にとまり何度か歌ってみた。
「宣べ伝えよや 全き福音 闇を破る日のごと」。くり返し歌っていると、この言葉の意味がだんだん鮮明になり、私の心にも太陽が昇ってくるようだった。
 私たちが伝えている福音(良き知らせ)、キリストの福音とは「全き福音」なのだ。完全なもの、時間も空間も超えて永遠なるもの。それは、すべての人を救うもの。イエス・キリストは十字架の上で息を引き取られるとき「成し遂げられた」と言われた。そうだった。私たちが伝えるのは、すでに成し遂げられた救いの御業、それは闇を破る日のように、私たちを照らす光そのものなのだ。

 この世の営みの多くは、私たちを取り巻く闇、また内なる闇をどうにかしようとするものだ。さまざまな闇の原因を分析し、どうすれば少しでも明るくできるかと四苦八苦している。世の中も家のうちも、お金があれば明るくなるだろうと、お金もうけに励んでみる。心が暗いのは、友人がいないから、楽しみがないからと色々考えて、その一つ一つに対処しようと試みる。死や病気は人間にとって最大の闇だから、その闇を遠ざけるためならどんな代償もいとわない。しかし、一つの闇を乗り越えると次の闇が押し寄せてきて、いつしか力尽き、闇の力に飲み込まれていく。それが人間の日々の営みなんだと思うと、心はどんよりと曇り、何もかもが曖昧になり、憂鬱になる。
 たとえば、これから会おうとしている心に障害をもつ友人の離婚問題を考えると、もうどうにもならないやと、心はますます暗くなる。お昼から訪ねようと思っている、言葉も出ない寝たきりのお年寄りのことを思うと、耳元で童謡など歌っても、ほんの一時の慰めに過ぎないと空しくなる。「お前のように、実力のない者が、何をしたって無駄だ」と、闇がささやきかける。その闇の力は、見つめれば見つめるほど、耳を傾ければ傾けるほど大きくなっていく。

 そんなただ中に、御声が響く。「わたしの顔を尋ね求めよ」 そうだった、闇を見続けるのではなく、光を見るのだ。光なるキリストを仰ぎ見るのだ。十字架の上に救いの御業を成就されたキリストは復活し、今も生きて「わたしを求めよ」と呼びかけておられる。「わたしが光だ、闇に打ち勝つ光なのだ」と、主は言われる。
 もう回復は無理だと思われるあの家庭に、光なる主よ来てください。生きる希望をなくし、後は死を待つばかりだと黙してしまった人の心の中にに、光なる主よ、来てください。

   果たせ使命 力限り 聖き神の霊の
   満たし受けて行かば 聖き御旨果たしうべし
   「暁に太陽 などて沈むべき」宣べ伝えよや 
   全き福音 闇を破る日のごと(新聖歌436-3

 この歌を作詞作曲したLILLENASHALDORとはいったいどんな人だろうと調べてみて、あっと驚いた。HALDORがこの曲を作ったのは72才の時。72才にして、「宣べ伝えよや 全き福音 闇を破る日のごと」と、声の限りに歌ったのだ。
 そして、この作者は33才の時に「ああ、驚くべきイエスの愛」を作詞作曲しているのを知って、2度びっくり。この人は、33才でイエスの驚くべき愛を讃え歌い、それから40年を経て、72才になってなお、その喜びを、いまだ見ぬ地に宣べ伝えようとしていたのだ。

   ああ驚くべき イエスの愛よ 
   罪を飲みさる 大み恵みよ
   いかなるものも 立ち帰らば 救いたもう主の恵みよ
   恵みの広さ深さ 測りうるものなし 
   わたつみより大空より さらに深く広し 
   汚れに汚れし身も 恵みにて救われん
   尊き御名をたたえよ、たたえよ。(新聖歌224

 この世の闇の深さとは、私たちの罪の深さである。まことの神様に背を向け、自分を神として生きようとする人間の高慢と汚れ果てた心である。この罪の縄目から私たちを解き放つ、キリストの十字架と復活を仰ぎ見つつ、海よりも空よりも深く広いその恵みを高らかに歌おう。そして「主よ、来てください。」「主よ、あなたの御国が来ますように」と主を信じるすべての人と共に祈り続けよう。

 日曜日の喜び
 まだ神様を知らなかった頃、私は日曜日があまり好きでなかった。何となく退屈な、充実感のない日だった。友達と遊ぶ約束などしていて、楽しみな日もあったに違いないが、それでも、日曜日が「明るい喜びの日」というイメージではなかった。キリスト信仰をもって良かったことは数え切れないが、中でも嬉しいのは、日曜日が神様を礼拝する日となったこと。復活のキリストを喜び歌い、感謝をささげる日となったこと。
 かつての私のように、日曜日が何故かつまらない人、「主日礼拝」に参加されてはいかがでしょう。日曜日が喜びあふれる日になること、請け合いです。

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st07_m2.gif「マザー・テレサ 日本人へのメッセージ」  福音 №188 2004年1月号st07_m2.gif

祈ることを愛しなさい。

日中たびたび祈りの必要を感ずるようでありなさい。

そして、実際に祈るように努めなさい。

祈りは心を広くし、

神ご自身というおくりものを受け入れることができるようにしてくれます。

願い、求めなさい。

そうすれば、あなたの心は大きくなって、神を自分のものとしてお受けし、

神から離れることがなくなるほどになるでしょう。  (マザーテレサの言葉より) 

 最近書店で、「愛、マザー・テレサ 日本人へのメッセージ」という本を見つけた。日々のニュースで、平和憲法が音をたてて壊れていくのを感じながら、被爆地長崎でマザー・テレサが語った平和のメッセージを聞きたいと思った。それは20年あまり前の講演記録であるが、愛、いのち、平和への願いは時代を超えて、2000年前から流れ続けるキリストの心を確かに伝えてくれた。

 それにしても、マザー・テレサのメッセージは単純だ。誰が読んでも分かるような、易しい言葉で、真理を語る。

 「聖書には、イエス・キリストが世にこられたのは、神は愛であり、わたしを、そしてあなたを愛しておられるという福音をもたらすためだと記されています。それは愛し愛されるという偉大なことのために、わたしたちがこの世にあるということなのです。」

 人が生きることの意味も目的も、キリストという神の愛によって、私たちが互いに愛し合うためだという。

 核問題についてのメッセージも、神の与えられた人間のいのちという一点から語られる。

 「地球上の核の存在は、世界じゅうに恐怖と不信感を巻き起こしました。人間のいのち、つまり世界にある神の麗しい存在を破壊する武器が、また一つ増えたからです。堕胎という方法がまだ生まれていない子どもを抹殺することに用いられているように、この新しい武器は、世界じゅうの困窮者、イエス・キリストがわたしたちを一人ひとり愛されているように、わたしたちも彼らを愛するようにと命じられた兄弟姉妹を排除してしまう手段になってしまうでしょう。」

 「今日、平和を破壊しているのは堕胎です」と語るマザーにとっては、戦争でいのちを殺すのも、胎内でいのちを殺すのも同じこと。イエス・キリストを与えてまで人間を生かそうとされる神さまの愛を無視し、反逆することに他ならないのだから。 

 今日は阪神大震災のあった日。その日から9年が過ぎ、追悼のつどいで朗読される、「1・17宣言」が新聞に載っていた。「いまこそ確かめよう、・・・私たちがこれからなすべきことを、・・・そして世界中の人々の、明日の安全と安心に役立つことができるように。」この詩を朗読し、震災の日を思い起こし、「人類の安全と共生を考える」記念式典が催されるという記事に並んで、「陸上自衛隊の先遺隊 イラクへ出発」とある。あれはあれ、これはこれ。いのちの大切さを叫びながら、いのちを殺す戦争を是認する。こんな矛盾にみちた世の中を思っていると、どうしようもない無力感と共に、闇の力に飲み込まれてしまいそうになる。

 しかし、世界がどのように変わろうと、平和な時も戦争の時もマザーテレサの働きは変わらなかった。いついかなる時も、世界中の貧しい人の中でもいちばん貧しい人たちに仕え続けた。「すばらしいことを神さまのために」と、神と人とを愛し続けた。 

 これだと思う。これが信仰の力なのだと思う。神さまを信じるとは、どんな時代、どんな状況にあっても、ひたすら神さまの望まれるように生きること。

 マザー・テレサを見ていると、相手がどんな人であろうと、その人がヒンズー教徒であれ、イスラム教徒であれ、老人であれ、子供であれ、その人の貧しさという一点を見つめていたのがわかる。私たちの貧しさこそ、神に愛される唯一の条件であるのと同じように、マザー・テレサに愛されるためには、貧しさ以外何もいらなかった。

 ここが根本的に違うのだと気付かされた。私たちは人を愛するとき、その人の豊かさに目を留める。だから、豊かでない部分を見つけたとき、その人の貧しさに触れたとき、愛するに値しない人だとつぶやくようになる。誰かを愛せない理由を探すほど簡単なことはない。しかし、愛せない心に平和はなく、自分の心に平和を持たず、世界の平和を語ることは空しい。

 貧しさを愛する愛、私たちの心に平和を生みだす愛、それこそが神の愛であり、そのような愛は祈りによって与えられるという。 

 「愛せるようになるには、祈ることです。祈りは澄んだ心をもたらして、神が見えるようになります。神が見えれば、神が一人ひとりを愛されているように、自分以外の人たちを愛せるようになります。」

 「祈ってみましょう。祈りは力となります。心を静めていると、神が言葉をかけられるのです。そして満ち足りた心で、わたしたちが話します。このような沈黙、耳を傾けること、そして神に話すこと、それが祈りです。」 

 私がほんのちょっとしたことで、闇の力に飲み込まれそうになり、生きることを虚しく感じるのも、口ではりっぱなことを言いながら、愛とはほど遠い思いを持ち、いつも自分中心に生きてしまうのも、すべては、私の祈りがあまりにも少ないからだと知らされる。

 マザー・テレサと自分を比べるなんて、そんなバカなと笑ってはいけない。マザー・テレサのために死んで下さったキリストは、私のためにも死んで下さった。マザー・テレサを母の胎内に造り、天の御国まで導かれた神さまは、私をも母の胎内に造り、今日まで導いて下さった。ただ、マザー・テレサは日々刻々神さまへの祈りに生き、私は祈ることをいつも後回しにして生きている。

 今日一日のことを思い返しても、私にマザー・テレサのことなど書く資格はないと、自分の欺瞞にたまらなくなって、やっと祈り始めた。「神さま、私は偽善者です」。神さまとは何というお方だろう。そんな私を責めないで、「わたしがあなたを造りかえる、だからあなたは、ただ、わたしについて来なさい」と言ってくださった。

 だから、今年も書き続けよう。神様は愛、キリストこそ私たちの最高の喜び、と。

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